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 竹内文書のウガヤ王朝王名表に登場する女性の称号の中に「」を「ひみ」と読ませている事例があり、もしかして「ひみこ」とはただの(なまり)なのかと思い始め、気になったついでに考察した結果を載せます。

 そもそも卑弥呼(ひみこ)とは「日女(ひめ)(みこと)」と同じだとする説が有力なのですが、私はもう一歩踏み込んで「日女巫女(ひめみこ)」を意味する造語を世襲足媛が作って「卑弥呼(ヒミコ)」と名乗ったと考えていました。

 もう一つ気になっている事が「」と「」を竹内文書では書き分けている点にあります、ウガヤ王朝だけなのか、他の場合もそうなのかは、そういう目で読んでいないので気づけて無いですが、今回はウガヤ王朝の王名表の中だけで考察しました。

以下、ウガヤ王朝の女性の称号のピックアップ

73代 多多良五十鈴媛(たたらいそすずひみ)

72代 なし

71代 3人全員 媛

70代 6人全員 媛

69代 足形媛(たるかたひみ) 他9人全員 媛

68代 豊建日若媛(とよたてひわかひみ) 他4人全員 媛

67代 5人全員 媛

66代 皇后に媛が付かない、他5人全員媛

65代 なし

64代 6人全員媛

63代 3人全員媛

62代 3人全員媛

61代 児屋豊姫尊、他7人全員媛

60代 五人全員媛

59代 7人全員媛

58代 久米照媛(くめてるみつ)※「照」の一文字で「テルミツ」の可能性がある、他2人全員媛

57代 6人全員媛

56代 2人全員媛

55代 2人全員媛

54代 1人媛

53代 3人全員媛

52代 11人全員媛

51代 4人全員媛

50代 神足別国押之姫(かんたるわけくにおしのひみ)、他1人媛

49代 半蔀姫尊、神足別国押之女尊(※姫が付いて無い)、他6人媛

48代 松永の姫命、他3人が媛

47代 天皇1人が媛

46代 豊耡姫尊、豊櫛玉姫(とよくしたまみ)、依取姫命、他2人が媛

    ※3人が姫

45代 なし

44代 なし

43代 種姫尊、サヨナギ姫尊、ヌシ姫尊、サナ姫尊、アケ姫尊、由布種姫尊、玉之屋姫尊、ユサヲ姫尊、若玉(わかたま)イスギ之女、媛はなし

    ※姫が8人

42代 鶴舞媛(つるまいひみ)天皇

41代 7人全員媛

40代 神楯媛(かんだてひみ)天皇

39代 夏媛(なつひみ)皇后、他14人が媛

38代 2人が媛

37代 3人が媛

36代 4人が媛

35代 1人が媛

34代 言待姫尊、他6人が媛

33代 3人が媛

32代 4人が媛

31代 3人が媛

30代 3人が媛

29代 3人が媛

28代 復姫尊、神豊実姫尊、長浜姫尊、島姫尊、中津姫皇后、一人だけ中臣媛尊

    ※姫が5人、媛が1人

27代 5人が媛

26代 2人が媛

25代 3人が媛

24代 4人が媛

23代 1人が媛

22代 豊秋媛(とよあきひみ)皇后宮(もなや)、他媛1人

21代 タミアラ大足長姫尊、ミロイ足姫尊、他媛1人

20代 秋媛(あきひめ)皇后宮、他3人が媛、市井依姫命、志賀之万雄姫命、朝霧姫命

19代 1人が媛

18代 1人が媛

17代 1人が媛

16代 11人が媛

15代 14人が媛、山積之女命、小色幸玉姫尊

14代 4人が媛

13代 奇需女命、他6人が媛

12代 幸玉姫命、小色幸玉姫尊、他4人が媛

11代 玉足頴撰尊(たまたるかいえり)皇后宮、他10人が媛

10代 千足媛(ちたるひめ)天皇、他10人が媛

 9代 千種媛(ちくさひめ)天皇

 8代 光徹笑勢媛(ひかりとほりいひせひめ)天皇

 7代 櫛豊媛天皇

 6代 八千種媛(やちくさひめ)皇后宮、他6人が媛

 5代 八耳媛(やつみみひめ)皇后宮

 4代 五十鈴姫(いすずひめ)皇后宮、他1人が媛

 3代 玉昭姫命、噱楽姫命[噱楽(ゆらぎの)媛尊]、上照媛(うはてるひめ)皇后宮、他2人が媛

 2代 橋立媛(はしだてひめ)皇后宮、高山姫命、上照媛命、照媛命

 1代 大ストラヘ姫命、キネア姫命、スマトラ姫命、滝灯王姫命、玉依比売皇后宮(ごだいのみや)、玉依毘女命、玉依比売命

 全部読んだ方はご苦労様でした。<(_ _)>

 考察レベルにすると作業に時間が掛かるのでシンドイのですが、今回のはやって良かったと思います、読む方も新発見がある方が楽しいと思いますので、期待されていると思いますが、新発見というか、今回は新認識と呼んだ方が良いでしょうか。

 女性の称号に概ね三種類、「(メ、むすめ)、(キ、ひめ)、(エン、ひめ・ひみ)」の三種類がある事が統計処理から分かります。

 次に「(ひみ)」と読ませ始めるのが22代から後だとも分かります。

 22代なので逆算すると紀元前30年頃では無いかと推測します、この頃に誕生した女王と推測出来るのがイザナミ(倉稲魂)かヒルコ(向津姫)でしょうか、皇后宮を「もなや」(※イスラエル系に感じますね)と読ませているのも一人だけで、豊秋媛(とよあきひみ)だけです、初代のときには皇后宮を「ごだいのみや」(※后内宮かな?)と読ませているので明らかに風俗の違う読ませ方だと思います。

 部族ごとに少しずつ文化が違い、王家の娘を「」(ひめ)と表現する部族が主流派で、その中で途中からインド系はひみ)を女王家の称号としてする慣習が定着していったと考える事が出来そうです。

 この考察の下地として太伯系の姓が「(キ)」である事があります、「」をつける女性が少ない理由は太伯系の血筋である為と考えられます。

 それから漢字の意味を象形文字から見てみると、「」は「二つの乳」の象形と「両手をしなやかに重ねた女性」の象形から「子を養い育てる事が出来る女性」、「ひめ」を意味すると書かれています。(※象形文字の「姫」を調べてみて下さい。)

 「」はそのまんま女性を意味しているようですが、厳密にいうと「子を産んで育てる事が出来る女性」という事なので、その意味は「意味深」です、子を産んで育てられない女性は...となりますよね。

 次は「」ですが、「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「あるものを上下からさしのべてひく」象形から「心のひかれる美しい女性」と意味が書かれています。

 「」の方は礼儀作法を備えた高貴な女性という印象を受けますね、この私の解釈が的を射ているような気がします、だから「」を使う人が多いというか、誰かの判断で女性の称号として「」を使い分けているのかもしれません。

 噱楽姫命の名称が項が変わるとヒメの漢字が変わっていました、「噱楽姫命[不合朝第三代]→噱楽媛尊[不合朝第三代-続]」、ランクアップしたような変更で本人か父親の位階が上がったような書き方をしています。

 「」を使うという意味は「女王」を意味していると思います、だから最初は太伯系の姫に産まれたが、出世して一国の女王となった可能性があると考えます、

 とりあえず、仮説としてはこの様に考えれば良いかと思います、特に「ひみ)」は途中から生まれた語彙で決して一人が名乗ったものでは無さそうだということだと思います。

 卑弥呼とは「日女命(ひめのみこと)」を名乗る一群から分かれ「日女命ひみのみこと)」と読ませるグループから出た世襲足媛の作った女王天疎日向津姫天皇)の造語としたいと思います。※他の人には卑弥呼が無いので(龍海説

 しかし可能性としてはアマテラス瀬織津姫)も卑弥呼の一人だった可能性がありますね、そうなるとアマテラス卑弥呼だとする説も満更嘘では無いとなりますが(笑)(※文字の上だけでの話ですが....)、世に言う卑弥呼魏志倭人伝に載る卑弥呼ですので、ウソとなりますのでご注意を!

 龍海

出典:『九鬼文書の研究』「Ⅰ 熊野修験行者之精神と道しるべ」P.9

「むかし北海の国に坐(ま)しし武塔神(たけあらきのかみ)、南海の国の神の女子をよばいに出でますに、日暮れたり。彼所(かしこ)(備後国、疫隅社のほとり)に将来二人ありき。兄を蘇民将来という。いと貧窮(まずし)かりき。弟を巨旦将来という。富み饒(ゆたか)にして屋舎(いえい)一百ありき。ここに武塔神、宿所を借り給うに借しみて貸しまつらず。兄蘇民将来貸し奉る。即ち粟柄を以て座(むしろ)となし粟の飯などを以て饗し奉る。饗し奉ること既に畢(おは)りて武塔神出でませり。

後に年を経て八柱の子を率いて還り来まして詔り給はく。我れ之れがために報答(むくい)せんとおもう。汝子孫在りやと問い給う。蘇民将来答えて申さく。己れ女子(むすめ)と斯の婦(おみな)と侍(さむら)うと申す。即ち詔(の)らく。茅を以ちて輪を作り腰上(こしのほとり)に著(つ)けしめよと。詔のまにまに(随)著けしむれば、即夜(そのよ)に蘇民と女人(おみな)二人とを置きて、皆悉く殺し滅ばしてき。即ち詔はく。吾は速須佐能雄神(はやすさのおのかみ)なり。疫気(えやみのけ)在らば、汝蘇民将来の子孫と言いて、茅の輪を以て腰の上に著け、詔の随々(まにま)に著けしむれば即ち家在(いえな)る人ども、将(まさ)に免れむと詔り給ひき」

出典:『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』安倍晴明著

「前略 ・・・・・・ここに南天竺の傍らに一の夜叉国あり。広遠国(出口聖師著には日本国に該当するという)という。その国の鬼王を巨旦大王と名づく。天王(筆者註 ・・・牛頭天王。以下同じ)彼の門に到りて宿を乞う。鬼王許さず。天王去りて千里の松園に至る。一の賤女有り。天王問うて曰く。汝室宅有りや。女の曰く吾は則ち巨旦の婢なり。東一里、曠野の中に蘇民将来の庵あり。貧賤にして禄乏(ろくとぼ)しと雖も、慈愛の志を抱く。宜しく彼に往きて宿を求むべし。天王東に向って彼の野中に到り、彼の庵を見る。主は老翁なり。天王宿を問う。将来笑って曰く。貧賤の家豈若干の眷属を留めんや。天王曰く。我独り宿せば則ち可なり。時に将来梁の茎を席となし、天王を坐せしむ。又一瓢を持てり、瓢中の粟半器に過ぎす。瓦釜に煮て楢の葉に置き天王及び眷属に餐す天王悦びて曰く。汝が志足れるかな大いなるかなと。其の志に感じて千日を報ゆ。翌日天王南海に至らんとす。将来曰く。我に一の宝船有り、名づけて隼鶏と曰う。行くこと速かなり。天王彼の船に移り須叟にして竜宮城に到る。竜王快然として天王を奉じて長生殿に移し、頗梨采女(はりさいじょ)に合歓せしむ。餉饗日久しく已に三七余歳を経て八王子を得たり(八王子の名前を省略)。以上は八将神なり。その眷属、八万四千六百五十四神。然して後に天王后妃及び八王子、諸眷属を率いて、広遠国に到り、彼の鬼館に入り諸々の眷属と共に乱入して彼の一族を没敵すること沙揣を蒔くが如し。彼の賤女を助けんとして、桃の木の札を削り、急々如律令の文を書し、彼の牒を弾指して賤女が袂中に収め、然して此の禍災を退かしむ。然して後に、彼の巨旦が屍骸を切断して、各々五節に配当して、調伏の威儀を行い、広遠国を蘇民将来に報し、然して誓って曰く。我末代に行疫神と成らん。汝が子孫と曰はば妨碍すべからざるなり。

二六の祕文を授け、末代の衆生、寒熱二病を受くるは則ち牛頭天王眷属の所行なり。もし此の病を退んと欲せば則ち、外に五節の祭礼を違へず、内に二六の祕文を収めて、須らく信敬すべし。

その五節の祭礼とは正月一日の赤白の鏡餅は巨旦が骨肉、三月三日の蓬莱の草餅は巨旦が皮膚、五月五日の菖蒲の結粽(ちまき)は巨旦が鬢髪、七月七日の小麦の素麺は巨旦が腱なり、九月九日の黄菊の酒水は巨旦が血脈なり。総べて蹴鞠は頭、的(まと)は眼、門松は墓験(しるし)、みな是れ巨旦調伏の儀式なり。今の世に至って、神事仏事、皆な此れを学んで法例と為すなり・・・ 中略・・・金神とは巨旦大王の精魂なり

云々」

出典:バーバラ・スィーリング著『イエスのミステリー』

Page.80~81 「ヨハネの黙示録の一節」

 「また、天に大いなるしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、足の下に月を踏み、頭には一二の星の冠をかぶっていた。女は子を宿していたが、産みの苦しみのため泣き叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のような赤い大きな龍がいた。それには七つの頭と一〇本の角があり、その頭に七つの冠をかぶっていた。・・・・・・そして、龍は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、生まれたら、その子を食べてしまおうとかまえていた。女は男の子を産んだが、この子は、鉄の杖を持ってすべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その御座へと引き上げられた。


[解釈]

太陽をまとう女」は「アマテラス」(※この描写ではヒルコの事だと思われる、月皇后家の女王)、「」とは太陽王家の男である「ツキヨミ」の事で「月向月夜見」の事で間違い無いと思います、「赤い大きな龍」は徳叉迦龍王赤龍でもある)の「須波佛陀(八意思兼命)」でヒルコの夫(笑)、「七つの頭」とはこの時に八大龍王の内の「シャカラ龍王」が居なかった事を示し徳叉迦龍王が筆頭の龍王だった事意味していると考えます、「一〇の角」とは「八大龍王+[](=旧出雲王朝)」=「十大龍王」≒「十種神宝」の示す武力の事で、この一時は「三種神器(出雲王朝)と十種神宝(十大龍王)」が一人の男王の下に集約されていた事が分かります。

 生まれた子とは「アマテル」でイエス・キリストの弟である事が書かれていますが、私の説は生まれたばかりなので文中には「黙示録的言葉」と解釈されています。

 しかし、実際にはタダのアマテルの誕生譚ですね。(しかも政治的背景つき)

 紀元前の主要人物の考察から文献上の「伊恵須」への接続・証明が出来る所までお伝えしましたが、今回はその続きである「西暦」の元となったAD1年生まれのイエス・キリストについての考察になります。

 『九鬼文書の研究』には「佐男登美命」の孫が「伊恵須」と書かれていました、この伊恵須とは「家基王」こと「鸕鶿草葺不合尊」だとも考察した通りですが、実は鸕鶿草葺不合尊はAD1年生まれでは無い事が最初から想定されています。

 それは私のホツマツタヱの年号解読において神武東征が行われてた年が「AD119年」だと特定済みだったからです、神皇記には神武東征の最中に鸕鶿草葺不合尊が薨去した事が書かれていますので、亡くなったのはAD119年AD120の頃の事になります。

 飛騨の口碑には「末子相続」である事が書かれ、国常立尊国狭槌尊王家の代数に対し「高皇産霊尊」の代数は極端に少なく、王家の継承は長子だが、高皇産霊尊イエス王などの複数の王家の中から相続される「大王」の様な立場は「末子相続である」ことが強く疑われます。

 その上で、先の『但馬故事記』からは『ホツマツタヱ』に出てくる「アマテル」の人物を特定出来ると考えます、それは瀬織津姫の夫がソレに該当すると考えられ、『但馬故事記』では瀬織津姫(若草苗女命)の夫は「御年」と書かれていますので、この御年がアマテルに相当する人物となります。

 小野氏の氏神として伝えるのは「天下春命」ですが、天下春命は思兼命の息子として伝えられ、ヒルコが母親と想定していました、ツマリ但馬故事記の系図はコレまでの考察と一致します。

 そしてホツマツタヱの年号解読(※卑弥呼の特定にも使用したものです、因みに卑弥呼世襲足媛)からアマテルの生年はAD6年orAD7年となりますので、兄の「大香山富命」はAD7年より前に生まれた事は確実になります。

 次に『因幡國伊福部臣古志』から「イキシニホ」の父親は大己貴命足名槌、母親は天照大神としていますので、母親はヒルコだと想定されます。(ヒルコ向津姫と書かれているので、アマテラスの一人と強く疑われる人物です。)

 父親の大己貴命・足名槌は養子に入った後の情報と考えられ、他の情報や考察から大年(須波佛陀)の実の息子であり「五十猛」の事だと認識される人物でもあります。

 この人物に相当する人物を『但馬故事記』に求めると「大香具山富命」しかいないとなります、加えて『イエスのミステリー』には「イエスの弟が王位を継ぐ」描写が残されていたと記憶しますので、末子相続により継いだ王位というのが「アマテル」だと考える事が出来ます。

 もう一つ、超古代の日本人の王家や王朝には「王名(おうめい)」という名跡があり、代々同じ王名を襲名する様子が竹内文書や徐福の伝承、高皇産霊尊の名乗りや今回のイエス王などに見られます。

 つまりはAD1年生まれのイエス・キリストとは五十猛のこととなり、鸕鶿草葺不合尊はその息子で「家基(伊恵須)」とも名乗りエジプト王家における王名を継いでいると考えられます。(だから間違いにはならないし、複数のイエス王が居ることへの説明にもなります。)

 史料と解釈を示し、考察を加えた結果を論拠も示さず非難する人達は歴史研究そのものを否定する人物として逆に避難されるべき人物であり、そのような人物の示すものは信用が出来ないものと考えるべきでしょう。

 私の研究が現時点において「独自性が過ぎる」というのはその通りだと自認しております(笑)、しかしながら私の示す成果が間違いというのはお門違いの話です。

 ご先祖達は科学や真理を世界に示し、多民族の信頼を勝ち得て「聖王」として君臨していたと思います、子孫の私が同じことを出来ても不思議な事では無いでしょう!?

 まずは足下の日本の歴史を正しいものに改めねばなりません。

 龍海

 大山祇とは「山津見」と呼ばれる山を支配域に持つ豪族を束ねる官職で実質の将軍職だと考えられます、大山祇は五代あったと龍海は考えていますが、最新の研究から最後の三代を特定出来たと考えますので、基礎資料として載せるものです。

 『ホツマツタヱ』にある「オオヤマスミ」と「ヤマスミ」は同一人物で「アヌシャカ」になると思います、アヌシャカにも別名が多く『神皇記』では「多加王祖佐男命天之常武比古命大海原神」、『但馬故事記』では「素戔嗚尊」で出雲王朝の初代「素戔嗚天皇」(※『九鬼文書の研究』)でもあります。

 次代が『ホツマツタヱ』の「ヤマズミ」で「須波佛陀オモヒカネ(八意思兼命)、大年命徳叉迦龍王徐福天茂登太手比古命大玉守主命国狭槌尊佐男登美命白人根命」(※『ホツマツタヱ』、『但馬故事記』、『出雲口伝』、『神皇記』、『九鬼文書の研究』、龍王族の研究)となります。

 最後の大山祇が『ホツマツタヱ』の「マウラ」で、マウラは行政上の仕組みが変わりその後は「橘の君」として諸侯の一人になっています。

 名目上はこの三人と現在は認識していますが、ヤマズミの四子「サクラウチ」とヤマズミの二子「カグツミ(天香具山)」の二人は「山津見」の立場ながら実質的には大山祇に比肩する力があったと思っています。(ヤマズミの代行をしていたとも推測できます。)

 もう一人、ヤマズミの一子と思われる「アマテル(天下春命・御年)」も大山祇だと思われますが、文献上は神皇記に長子が大山祇とあるだけなので、この長子がアマテル(天下春命・御年)かもと疑われます。

 また新たな発見から特定できた場合には忘れていなければ追記したいと思います。


 古代の出雲において有名なのが「素戔嗚尊」ですが、龍海の研究から素戔嗚尊と呼ばれた人物は五人いた事が分かりました、二期に分かれて存在しますが、名前の由来は同じで「ソサノヲ」だと思われます、漢字で書くと「祖佐之男」でしょうか、二期共に日本で女王がトップになった際に男王が武力にて制圧しに訪れますが、返り討ちに遭い改心して「祖国を佐(たす)ける男」という諱(意味名)を付けられる事に端を欲しているようです。

 文献的に最初に見えるのは『支那震旦国皇代暦記』です、時代は約4000年前の日本で、天御中主神が天神を太陽男王家と月皇后家に分けてこの中で次の様に書かれています。

神農氏の二男,東洲の国王、朝天氏の孫、新羅王の四男、太加王は一族郎党八千余人を引きつれて、祖先の国、蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国に向かい,ここを征服し、祖国の大王となり、全世界を従え全世界の大王と成ろうと、目市木を日本国に渡り国王の大日留女尊を計略を以って妻にし、諸国を従え大王になることを計画しましたが、一族郎党は皆殺しになったため、国王大日留女尊に従い、義兄弟の契りを結び、大日留女尊を姉君と敬い、国王より太加王を改めて祖佐之男命という諱名を賜り、祖国蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国の守護神になったと、言い伝えられております。

 これが初見の素戔嗚尊になります、本来の呼び名は「ソサノヲ」なのに素戔嗚尊と伝わる原因は漢字の意味から知る事が出来ます、素戔嗚尊という漢字を象形文字の意味から捉えると次のようになります。

「素」積み重ねた肉片と太陽

「戔」矛

「嗚」鳥が鳴く

「尊」酒を酒樽で飲む

素戔嗚尊とは「矛を振り回し、積み重ねた死体の肉片を横目に、太陽王家の大王が戦勝を祝い酒を樽で飲む、その横で死体を漁りに来た鳥が鳴いている」という悪い意味でのあだ名と考えられます。

 このあだ名は誰の事績によって付いたものかは各々の考えにおまかせするとして、上記ソサノヲが第一期のソサノヲになります。

 第二期の素戔嗚尊は釈迦族のアヌシャカになります、これは『国司文書 但馬故事記』第8巻 「二方郡故事記」に出てくる「素戔嗚尊」が龍海の研究によりアヌシャカであると特定したものです。

 二方郡故事記において素戔嗚尊は神大市姫と結婚し「大年蒼稲魂命(※以下、倉稲魂と表記します)」を生んでいます、倉稲魂の娘は二人「香用姫命(カヨヒメ)と大食津姫(※以下、大宜都比売命と表記します)」を生んでいます。

 古代史の解明から大宜都比売命とは本来の漢字で書くと「大月姫」となり大月氏を率いる女王としての名乗りであり、娘の瀬織津姫から「天疎日向津姫」と名乗りを変えている事が分かっていますので、実質的に「大月姫」と名乗る人物は一人しかいないとなりましたので、大食津姫大宜都比売命となり、その他の人間関係も整合性がとれましたので、同一人物として扱うものです。

 主要な人物と別名を紹介すると下記の通りになります。

素戔嗚尊]アヌシャカ,善覚長者,天之常武比古命,大海原神

神大市姫]龍宮(シャカラ龍王),波闍波提,

大年]須波佛陀,八意思兼命,徳叉迦龍王,諏訪神(須波神),佐男登美命,白人根命,志那都比古命,天茂登太手比古命

蒼稲魂命]イサコ,宇迦乃御魂命(倉稲魂),豊受姫(豊受大神),跋難陀龍王

香用姫命]ヒルコ(ワカ姫),向津姫(アマテラス)

大食津姫命]大宜都比売命(大月姫),アマテラス(向津姫),竜王姫,草野姫

若草苗女姫]天疎日向津姫(アマテラス),瀬織津姫

御年]アマテル,天下春命

大香山富命]イエス・キリスト(AD1年生まれと推定)

端山冨命]手名槌,大国主,兄八島士奴美,須佐之男,他

香山富命](推定)祖佐男命

 これも龍海の研究からですが、大宜都比売命の夫が「須佐之男」だと特定していました、またその弟も「祖佐男命」と特定していますので、これで計四人が「素戔嗚尊に習合」されていた事がわかります。

 そしてもう一人、大年も素戔嗚尊と呼ばれた事が「出雲口伝」として伝承されています、大年は「徐福,素戔嗚尊,五十猛の父」として出雲口伝に伝承されていますが、五十猛の父親を精査すると大年命に終着しました、また長野県に残る徐福伝承では双子の親である事が伝えられています。

 この徐福伝承は大年命の事だと考えられる事から、大年命もまた素戔嗚尊の一人であると判断しました。

 紀元前の日本は複数の王朝が並立して存在し、それぞれの王朝に大王としての共通の名乗りがあった事が『竹内文書』にキレに残されています、その上で出雲王朝の大王に収まったのがアヌシャカとする事が『神皇記』に書かれており、代々が祖佐男命・須佐之男などの名前を継承し、『九鬼文書』ではアヌシャカが素戔嗚天皇,端山冨命(大国主)が素戔嗚皇子としていて、結局大年は出雲王朝を継がなかった結果が書かれています。

 出雲口伝でも菅之八耳(※本当はスサ・スガの二人がいる)→兄・弟八島士奴美へと受け継がれていますので、九鬼文書の伝承を正しいものと補完しています。

[結論]

1.祖佐之男命(約4000年前)

2.アヌシャカ(約2000年前)より出雲王朝の素戔嗚天皇

3.大年(須波佛陀)、出雲王朝を継承しなかったが素戔嗚尊とする口伝がある

4.双子の「兄・弟八島士奴美」、須佐之男(大国主)と祖佐男命(初代、大己貴命)

 の五人が「素戔嗚尊」として習合し伝承されているとしたいと思います。

龍海

出典:『神皇記』「第二章 前紀 神祇」

「即位一〇五千十四日(即、一萬五千十四日。)のとき、高皇産靈神の曾孫に多加王といふものあり。膂力他に絶く。 眷属千三■餘人を率て不二山の煙を目標として豊阿始原瑞穂國に渡り、高天原に上り大御神を從へ瑞穂國を占領せむとを企てぬ。然るに、大御神之に應しまさざりしかは諸事に妨害を加へ其暴状至らさるなきに至れり。

 乃ち大御神は竟(つい)に奥深き天の石窟に籠りましましき。國內忽ち闇黑となむなりにし。是より先、多加王の入り來ますや、大巳貴命は弟神農佐毘古命(※祖佐男命)をして四方の州々より眷属(けんぞく)八千餘神を集めしめ、以て之を圍(かこ)み、多加王の眷属を鏖(みなごろし)にせしむ。手力男命王をそ捕獲ましましぬる。

 是に於て天つ神・國つ神は各部署して四方より奥深く山に押入り、八方より手を盡(つく)して大御神を搜索し奉る。漸くにして八重九重奥の天の石窟に籠り止りましませることを知る。

 乃ち惣神大に悦ひ、岩戸の前に於て作田毘古命鳴木を叩きて歌ひ、天鈿女命青葉の木の枝を以て祝の舞を演し、大に悦ひ祝賀し奉る。大御神亦悦ひて出御ましませる時、惣神一齊に手を拍ちて大に祝し奉る。手力男命大御神の手を奉し、農佐毘古命を御前に立して、小室の日向の大御宮に還幸ましましぬ。

 是より先、大巳貴命(※須佐之男)は多加王に逐一道理を説き諭しましまししかは、王も其理に服し給ひき。一日大御神、王を延見(※呼び寄せて面会すること)ましまして詔りたまはく、汝此より善心に復り(かえり、意:もと来た道を帰ること)吾神國の四方四海の諸の荒振神等を言向和平(ことむけやわ)しなは、姉弟の契をなし、一命を助け置く可しと。王答白し(もうし、正直に言う)つらく、恐し(かしこし、意:恐れながら)、此より善心に復り(かえり、意:もと来た道を帰る)、大御神の依し賜へる命の隨(意訳:大御神から賜る命令、そのままに従って)に勤めましてむと、大御神いと悦はせ給ふ。是に於て大御神は王と姉弟の契を結はせましき。

 王は、之か證(あかし)として手に焚き炭を塗り、其手形を柏葉に押して奉る。是れ、吾國契約捺印の濫觴なり。(以上、開闢記、祖佐記、神代記、支那皇記)  ※濫觴(らんしょう、意味:物の始まり。)

 大御神は、即ち大戸道尊(※須波佛陀のこと)の第一の御子、大巳貴命を元帥とし、天之茂登太手比古命(※須波佛陀のこと)の御子手力男命を副帥として、眷属二千神を率ゐ多加王を警護して、阿祖北の山陰の奥谷に神追ひに追ひき。(開闢記、元帥、作弟山祇、非也、何者、時代異也、故據祖佐記。)

其地は不二山の惡雲吹き出つる方に當れるに由り、出雲國といふ。(祖佐記。)

 多加王は追はえて、出雲國に天降りますや、大御神の神勅を畏(かしこ)みて四海の荒振神等を言向和平(ことむけやわ)さむことを期させましぬ。

 乃ち、手力男命を招き、其言向和平すべき器を製せむことを議りましき。命は、婦神手力毘女命と日夜泉水に浴し齋戒して、天つ神々に祈願ましますこと三七日。二十一日の夜、天つ神の御神託に、佐渡島より金銀鐵の三種を掘り来りて製すべしと。乃ち、御神託の隨に其の三種を掘り集め来り、劍刀知を師として之を製し給ふ。

 劍刀知は、多加王の從族にましまして、王の叔父金劔清の御子にまします。性、手工に長し鍛冶を良くす。乃ち、手力男命夫婦は、劍刀知と共に工夫を凝らし、先つ鐵を焼き溶かし、大丸長金を製し、金を焼き溶かし小丸長金を製しをき、更に鐵に銀三分を和合し、火にて焼き溶かして、大石の上に載せて、手力男命丸長金を手力毘女命小丸長金を持ちて、之を打鍛ふこと百日にして、寶劍八本を製作ましましぬ。

 又、銀及金を同しく打鍛ふこと二十一日にして、日輪の形に八本の御劍を加へ、八太羽鏡を製作ましましぬ。

 又金を同しく打鍛ふこと二十一日にして蓬萊山高地火の峰の形を製し、且つ銀にて同しく鍛ひて、月輪の形を製し、其上に金の蓬萊山を安置して、天つ大御神の御神靈となしましぬ。即ち寶司の御霊是なり。

 多加王は、諸々の天つ神に祈願し太古に卜相へて、御劍八本の內一本を授け賜はり、他の七本は、高天原に鎮まりまします太神宮に奉らむとましましぬ。乃ち王は眷属數多を從へ、其授け賜はりし一本の御劍と、寶司の御霊と、八太羽の鏡とを奉して、四方諸々の州々を巡行まします。寶司の御靈は、神祖神宗の神靈として身に添へ、堅く守護し奉り、諸々の悪黨悪賊悪神を初め大蛇大狼大熊並に諸々の鳥獣蟲に至るまて、先つ御鏡を示して説諭ましまし、若し之に服して善心にれは、再ひ鏡を示し給ふ。

 若(も)し説諭に服せされは、御神劍を以て切り捨てましましき。是に於て、四方の州々大に治まり、初めて四海浪静に國豊に治まりにけり。

 則ち、王は御劍を自ら奉持し、手力男命は寶司の御霊を奉持し、手力毘女命は、御鏡を奉持して、高天原に上り、小室の阿田都山の宗廟天社大宮阿祖山太神宮の神殿に於て、大御神に三品の御神寶を納め奉り、其言向和平(ことむけやわ)しぬる狀(意:ありさま)を復奏(意:繰り返し調べ、天子に報告すること)し給ひき。大御神御感斜ならす(意訳:普通に褒めておられた。)、乃ち、謹みて親ら之を神殿に納め奉らる。則ち多加王は吾祖國を佐け治めましますとて諱を祖佐男命(※間違い、本当は素戔嗚尊・アヌシャカのこと)と授け賜ふ。

 又、手力男命に諱を手名都知命(※間違い)と手力毘女命に諱を足名都知命(※間違い)と賜ふ。又、劍刀知の功労を聞召れて、諱を金山毘古命と授け賜ひ、出雲より遙か南なる大洞谷原を下し賜ふ。之を三野國(一、作見野国。)といふ。其思ひかけなく、不破と賜はりしに由り、其他を不破野といふ。乃ち出雲より移り止まりましましき。其出雲より遙か南なるに由り、其止ります宮を南宮と名つけ給ひき。

 又命(※金山毘古の事。)は惡魔惡神を切り拂ふ武器を創作しける始組なるに由り、武器を劍又は刀といふ。後、壽十六〇八千三三十六日にして神避りましぬ。同宮の裏山に葬る。妃劍最婦は、諱を金山毘女命といふ。七日後れて神避りましぬ。同所に葬る。(以上、祖佐記、神器記。)

 大御神は、此寶司の玉を神靈と名つけ、御劍を其出雲國の簸川の上室(後、室改村。)より出つるに由り、室雲(むろくも)の劍と名つけ、八角花形の鏡は、內侍所の御鏡と名つけ給ふ。此三品を大御神の大御寶と定めましき。(開闢記。)

 高天原宗廟太神宮の御神木なる大柏木の下に、蓬萊山の形を作り給ひ、其の左右の枝に、金銀の玉にて日輪月輪の形を作りて之を掛け、神祖神宗の天つ大御神を初め諸々の萬の天つ神・國つ神を遙拝ましましき。其金銀の玉は、眞糸にて貫きて作れるに由り真加玉とそ稱しける。日輪の形は、砂金を焼き鍛ひて小さき金の玉を數多作り、真系に貫きて日の形に作れるものにして、月輪の形は、砂銀を鍛ひて小さき銀の玉を點多作り、同しく貫きて月の形に作れるものなり。(神器記。)

 祖佐男命は、出雲の國に歸りましますや、手名都知命の一女、稲田毘女命に娶ひましぬ。手名都知命は、初め諱を手力比古命といひ、又手力男命といふ。天之常武比古命第一の御子天之茂登太手比古命の御子にましまして、足名都知命は、天之古登太留比古命第一の御子天之茂登太足比古命の六女にましましき。(※解釈間違い、稲田姫は素戔嗚尊(アヌシャカ)の娘で結婚したのは祖佐男命、手名槌は須佐之男のこと)

 一日、祖佐男命は、計策を設け悪大蛇を殺し、之を酒肴として大に宴を張り、諸神を饗し給ふ。各神々は、或は歌ひ或は舞なとを演して大に祝しましき。命(※祖佐男命のこと)は爾後、神勅に從ひ、常に四方の州々を巡行しまして、諸々の荒振神より鳥獣蟲に至るまで、尚も善神に害を加ふるものは、皆な是を退治せむことを職とし給ふ。則ち、四海浪静かに治まり、天下泰平の御代となりにき。一日、手名都知命は、三品の大御寶を打鍛ひたる鐵作りの大丸長金と、金作りの小丸長金とを、奉持して高天原には獻しぬ。大御神は之を大槌・小槌とそ名つけ給ひし。

 大御神は、大巳貴命に勅して四方の州々を巡行して、諸々の農民神に諸々の職業を教へ励まさしめむとして、大槌と大熊皮の大帒(=袋)とを授け賜ふ。即ち、大槌を手に持ちて根氣よく打ちて諸々の職業を勉励すへけむ意を取りて、打手の根槌と名つけ給ひ、大熊の皮の大帒は、壽命を永く保ち根氣ょく職業を勉励すへけむ意を取りて、壽命根帒と名つけ給ひき。命乃ち、勅を奉し此の二品を携へ諸々の州々を巡歴して、諸々の農民神に打手の根槌と、壽命根帒との因縁を委しく説き、諸々の職業を教訓ましまし給ふ。後各地の巡歴を終へ、高天原に臨めて復奏し給ひき。則ち大御神は、其勞を慰ひ、命に諱を大國主命と賜ふ。此命は諸州農民脚の諸職業の師たる大祖神なるに因り、諸州に之を祀りませる所多かりけり。

 ヤマタノオロチに出てくる稲田姫の父親について、詳しく考察すると「稲田宮主簀狭之八箇耳」という表記が的を射ていると考えられます。

 島根県仁多郡奥出雲町稲原には「稲田」という地名が今でも残り「稲田姫の産湯」や「稲田神社」が残りますが、この地にあった宮が「稲田宮」で主が「簀狭之八箇耳」と表現されています、簀狭(スサ)の八耳(ヤツミミ)と読めるので須佐之男(スサノオ)とは「スサの男(ムスコ)」という意味の名乗りであるという解釈も出来ます。

 ヤマタノオロチではスサノオと稲田姫は須賀に宮を建て住みますが、現在の佐田町須賀ですので佐田彦とは「猿田彦」でもある足名槌の事になりますので、父親のスサノオとは須佐之男(手名槌・クナト王)の事になります。

 ここで須佐之男は「須賀の八耳」と呼ばれた為に「菅之八耳」という名乗りも受け継がれ、その子が八島士奴美(双子)と出雲口伝に伝承されていますが、出雲口伝の方は正しくは「スサの八耳」が正しいと解釈すべきだろうと思います。

 また稲田姫の父親は『国司文書 但馬故事記 上巻』第8巻「二方郡故事記」の記述から考えて「素戔嗚尊」となり、龍海の研究から釈迦族の「アヌシャカ」であると考えます、アヌシャカの孫にあたるのが須佐之男になるので、須佐之男と稲田姫の結婚は須佐之男からすると叔母を娶ったことになると思います。

 その息子が足名槌(猿田彦)と考えられる事から稲田姫とは「幸姫」と同一人物だと思われます。

(父)稲田宮主簀狭之八箇耳=素戔嗚尊=アヌシャカ

  (娘)稲田姫=幸姫

  (息子)大年命=八意思兼命=志那都比古神=大山積=須波佛陀[釈迦族](諏訪神)

     (孫)須佐之男(クナト王・手名槌・天鳥船命、他多数)

      +稲田姫→足名槌(佐田彦・猿田彦・大梵天)

 「ヤマツミ」の経緯と定義について龍海の見解を書きます、私は大山積が五代続いた後に大山祇が始まっていると考えていますが、意味としては「山の守(神)=豪族」(※支配域を山に持つ大きな集団)を統治する者を「山津見(山統)」と呼び、その山津見を統括する立場の者を「大山積(澄)」と呼んでいると考えています。

 豪族は山に自分たちの「姓」や「部族名」を付けて支配域を他部族と共有し、支配者であるヤマツミはトラブルなどが起こった場合の仲裁者であり山名の承認者であり、その支配域の保証を行う事を権能として持っていたと考えます。

[例]

 釈迦族 ・・・ 釈迦岳

 龍王族 ・・・ 龍王山/竜王山/臥竜山/地名の龍王など

 天狗族 ・・・ 天狗岳/地名の天狗など

 野一族 ・・・ 野島(綿津見)/野山(山津見)/野崎(綿津見)など


 出典元は『天徳寺所蔵「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について』になりますが、神武東征について書かれていましたので、神武東征を研究する人には参考になると思いますからテキストに起こしたものを載せておきます。


「天御中主大山祇神之後

天照皇太神曾孫 初代天照国照彦天火明櫛

玉饒速日命ヲ以テ越智姓河野氏之太祖

ト号ス御父者忍穂耳尊御母者大山祇神女

木花開耶姫姉姫此神饒速日命者天道日女

命ヲ妃ニシテ伊予乃二名洲ヲ天照太神ニ賜ル

此国一名ヲ扶桑洲トモ号伊予都比古伊予都

比売ノ二神即チ是ナリ此二神天上シテ 二代 天山

命ヲ生ム 命一名天香語山命云御炊屋媛ヲ妃トシテ天降伊

豫及倭ニ座シテ宇摩志麻治命ヲ伊與乃

浮洲ニ生ム 是ニ依テ神饒速日命ハ高皇産

霊ノ曾孫ニシテ是ハ大山祇正孫ナリ

申食国政大夫 三代 宇摩志麻治命

又名味間命又曰ク可美真手命トモ

母ハ御炊屋姫長髓彦妹 又名長髓姫亦名

鳥見屋

神武帝御世初為足尼 神武天皇二年二月

二日宇摩志麻治命與天日方寄日方命倶

為下申以食国政大夫 奉斎太神

姓筑紫連山城神別姓縣使首大和神別

姓積組造河内神別姓栗栖連河内神別姓物部

首河内首等祖天孫天津彦火瓊杵尊ノ曾孫

盤余彦尊 神武天皇 欲馭天下與師東征徃々

逆命者如蜂発起未伏中州豪雄長髄彦

推饒速日尊孫宇摩志麻治命為君奉

焉至此乃日天神之子豈有両種乎吾不知

有他遂勒兵距之天孫軍連戦へトモ不能戡へ

ル事 于時宇摩志麻治命不従舅謀誅殺

很戻ヲ師衆帰須之時 天孫 詔宇摩志麻

治命曰ク長髄彦為性狂迷兵勢猛鋭シ至於

敵戦誰敢堪勝而ルニ不據舅計師軍帰須

遂ニ欸官軍 朕嘉其忠節特加褒寵授

以神剣答其大勲丸厥神剣韴霊釼刀ハ亦

名布都主神魂刀亦云佐土布都主ノ神魂亦云

佐土布都亦云建布都亦云豊布都神此矣復

宇摩志麻治命天ノ神以御祖授饒速日命

天津璽瑞宝十種ニ而奉献於天孫ニ 天孫大

喜特増寵異ヲ矣 復宇摩志麻治命率天

ノ物部而剪夷荒ク逆亦師軍ヲ平定海ノ内ニ而

奏也天孫磐余彦火々出見尊 詔命有司ニ

始経帝宅大歳辛酉正月庚朔日天孫磐余彦

火々出見尊都橿原ノ宮ニ初即位皇号

日元年尊皇妃姫蹈鞴五十於姫命ヲ立テ為

皇后ト宇摩志麻治命先献天瑞宝ヲ亦堅神

楯ヲ以テ斎矣 謂五十櫛ト 亦今云木ヲ刺繞於

布都主ノ釼天神奉斎殿内即蔵天璽瑞

宝以為天皇鎮祭之時天皇寵異特ニ甚

詔日近ク宿殿内ニ矣 伊予国風早郡国津彦

神社串玉姫命神社日本神名帳ニ在又石見国安濃

郡物部神社是ナリ又伊予国〇古訓見作久米郡今〇浮名郡徳威神

社又宇摩郡村山神社等ニ祭此外神社多」

 龍海がどのような古代史観を持って情報を見ているかを共有しないと多く残る情報を読み間違えたりしますので、最新の古代史観(大きな流れ)を載せておこうと思います。

 超古代の日本人は氷河期から日本列島に居ましたが、火山性の土地の恩恵を受け比較的食料には不自由をしなかったと考えています、それは生きる為の時間以外を生む事になり、数学や天文学、哲学などを考える時間を持てたおかげで他民族よりも先進的な知識をもった民族へと発展していったと考えています。

 日本人とは単一民族ではなく各地域から来た部族の連合国だった様子は古文献に残る情報からも分かり、中でも三大部族の「」、「」、「」が特に大きな勢力を持ち、アダムとイブの伝承通り、「蛇族」が知恵を授けたと考えています。

 蛇族における「」とは出身地域において最強の生物を意味していると思われ、蛇族はポリネシア系の民族と龍海は考えています、同じく「」はロシア系、「」はモンゴル系と考えられ、先の考察と併せて考えると古い部族は「蛇族」だと考えられます。

 インドに於いては「ナーガ(蛇)」と表現されますが、「ナーガ」という単語は元は日本語の一つと考えられ、日本に於いても「長・那賀・永・中」などの漢字を当ててナ-ガ族の姓を表現していると考えます。

 日本においては「天神地祇(てんじんちぎ)」という宗教観の元、陰陽五行の概念は日本から世界へと伝わった概念でありますが、教えられた側では在りがたく保存され、発見者の住む日本では当たり前のこととして尊い知識として残らない事は歴史研究者を困らせる要因となっているようです。

 16000年前には余力のあった日本人は世界を知りたいという「欲求」に駆られ、アメリカ大陸に進出し、12000年前にはトルコ、9500年前にはメソポタミアと行動範囲を全世界へと拡げていった事は竹内文書にも記述され残されています。

 「不老不死」という概念を「生命の木」と表現して世界の人々に伝えていた様子が、残されている事で現代人は日本人の事績と認識する事が出来ますが、不老不死生命の木が混同されて伝わっていますが、本来はこの二つは違う概念で「物質世界の生」と「非物質世界の生」とが連続して紡がれ、考えようによっては肉体が滅んでも魂は生き続け、そして魂の生きる世界から新しい生命が生まれ、木から種が生まれ芽生えると新しい木を生む事を伝えていたものと龍海は解釈しています。

 5500年ほど前にはメソポタミアに日本人の「ウトウ」という人物が海を超えて初めて行き、「太陽しか渡る事の出来なかった大洋を渡った」として「太陽神」となり人間による「天神」が生まれたと推測します。(※それまでの天神は太陽・月・星で人間では無い)

 その後4200年ほど前に、ほぼ全世界を支配下に置いた「天御中主神」(※ユダヤ名、ノア)が世界の大王として天神の二つの王家を天皇家として創設します、男系で継承される男王家の「太陽王家」、女系で継承される「月皇后家」が誕生します、天神の二王家はその後も海外の人々を支配下において活動しますが、日本国内は地神による不満が高まっていったと推測します。

 この天神の二王家を除くと文献として残る最古の王朝は「富士王朝」と考えられますが、この富士王朝とは『竹内文書』では73代続いていますので、3400年前には造反していた可能性を示しています。

 しかし造反といっても二王家には従っていたものと思われます、しかし独立した動きもしていたと考えられるので、段々と国内の地神にも力がつき始めてきており、天神の王家の支配力が段々と低下していった事が推測されます。

 転機となったのは中国に拠点のあった徐福が3000人規模で日本へと侵攻し、男王家の座を得ている点では無かろうかと思います、それに追随するようにウマシアシカビヒコジが月皇后家の男王として名を残し、女王の痕跡が残り始めます。

 要は徐福の渡来を転機として天神達は日本における支配力を取り戻す為の行動をおこしていたように思えます、そんな時代に釈迦族は海外で展開していた日本人の部族と「親子の契り」を交わし「龍王族」として日本へと凱旋します、最初のシャカラ龍王とはお釈迦様の母親の摩訶摩耶であり、お釈迦様を産んだ時の出血が原因で若くして亡くなっているようです。(花の窟)

 釈迦族月皇后家の流れなので女王が大王になります、姉の死去を受けて次の女王になったのが妹の波闍波提です、夫は同じ豊受大神なので、二卵性の双子として生まれた息子と娘は面足尊尾茂太留と表現され、歴史研究を混乱させています。

 尾茂太留龍宮族としては「龍姫さま」と呼ばれ愛媛県石鎚山の麓に「龍王山」と名付け支配地にして「綿津見」をしていた様子が残されています、姓は「」としてた様子が徳島県や淡路島に残る「小路池鬼籠野(小路野)、小路谷」などに残ります。(※「路」は夫の姓)

 娘は龍王族としては「竜王姫」と呼ばれ、同じく愛媛県に支配地を持っていた事が「竜王山」とその周囲の地名「奈良野」(※「野の国」の意)から分かる事になります、竜王姫は別名を「大宜都比売命(大月姫)」といい大月氏の女王でもあるのです、幼少期は「草野姫(かやのひめ)」と呼ばれ徳島県では「野神社(のがみやしろ)」で祀られ姓を「」としていた事が明らかな人物になります。

 京都に居た時の地は「野々宮」という地名になり、今は「野宮神社」としてかつての居宅が神社になっています。

 この大宜都比売命が初代のアマテラスで娘の瀬織津姫が二代目のアマテラスになります。

 龍王族船千艘にてやってきた事が『厳島縁起』に残されています、一艘につき50人程度と推測される事から、5万人規模の統率の取れた一部族として日本へと帰って来たのですから、当時の日本の人口は10万人程度と推測されていますので、圧倒的な武力をもって日本を制圧した事が分かります。

 その時の女王がシャカラ龍王(姉、摩訶摩耶、イザナミ)→龍宮(妹、波闍波提、イザナミ、[倉])→龍姫さま(イザナミ、八倉姫、[小])→竜王姫(アマテラス、大宜都比売命、草野姫、[野])→瀬織津姫(アマテラス、天疎日向津姫、ホノコ、[小野])だったので、アマテラスの神話が生まれいると思います。

 律令制の導入に伴い地神女王家だった小野家天皇家では無くなりましたが、小野小町とはかつての女王の血筋を伝える巫女霊能者)として誕生していると考えています。

 天皇家(男王家)となった日本は女王の痕跡を消し、太古から男王家が支配してきた歴史をねつ造しようと頑張っています、それはあながち間違いでは無いのですが、女王家を無かった事にしようとする事には直系子孫として異議を唱えねばなりません。(知らなかった事実ですけど....)

 日本の歴史が明らかにならないのは、男系で皇位が継承されたとする過程で情報を間違えて解釈している為です、男王家は別に絶えていないのですが、どうしても女王の支配下にあった事を隠したいようです。

 皆さんの歴史解釈の一助になればと思います。

 龍海