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『未完謡曲集』 

吉野津宮 磐山トモ

 わき次第 御代を守りの神なれや。(繰り返し)、歩みをいざや運ばん、こゑ「抑是は当今に仕へ奉る臣下也。詞「扨も備州吉備津宮は。隠れなき霊神(上杉本「霊社」)にて御座候。殊に御釜鳴動のよし君聞召及ばれ。急(※)(ぎ)見て参れ(上杉本※印以下「聴聞いたし奏聞申せ」)との宣旨を蒙り。唯今(上杉本「備州」入る)吉備津宮へと急候、上(歌) 折をえし、洛陽(ハナノミヤコ)を立出(で)て、(繰り返し)、行衛(へ)かすめる山崎や。兵庫(上杉本「武庫」)の、山風長閑にて、須磨や明石の浦伝ひ。磯うつ浪も高砂や。猶しほ(を)れ行旅衣。吉備の山辺に着にけり、(繰り返し)、(上杉本「しかゝ」とあり)  して二人一声 真金ふく。吉備の中山帯にせる。細谷川の。さやけさも、つれ にごらぬ神の恵みの声、二人 世にしらしめる。ながれとかや、さしこゑ 然れ ば垂跡のはじめより。弓箭(きゆうせん)を以て凶徒をしづめ(上杉本「たい(ひ)らけ」)。西国を領掌有しより已来(このかた)(上杉本「領掌有て」)。此山に跡を垂給ひ(上杉本「たれ給ふ故に」)。武略の道を。守り給ふ、下(歌) 仕へて年を送る身の、立居くるしきあさ清め、上(歌) 霞つゝ、花ちる山の朝朗(ほらけ)。(繰り返し)、後にや風のうからんと。神のめぐみをくみて知る(上杉本「くみ知や」)。塵にまじはる御誓イ。深く積れる花の雪、払(ひ)兼たる木陰かな、(繰り返し)  わき「いかに是成老人に尋申べき事の候、して「此方の事にて候か何事にて候ぞ、わき「是は当今に仕へ奉る臣下成が(上杉本「それがしは都より参詣のものにて候が」)。御釜鳴動のよ(※)し君聞召れ。急ぎ見て参れとの御事也(上杉本※印以下「事承及。聴聞申さばやと存遙々罷下て候」)。扨此鳴動は何と申謂(はれ)にて候ぞ(上杉本「委御物語候へ」入る)して「旧ウ帝に吉凶を計(ハカル)といへり。此鳴動にてもなどか吉凶知らざらん。上つ人(上杉本「上一人より」)下万民に至る迄。当社を崇め奉り。折々に備ふる供御の其志を。謝(底本「討」上杉本による)せんが為の鳴動にて候(上杉本「御座候」)わき(カカル) 実々聞ば有難や。扨々当社垂跡のはじめ。鬼(き)神を平げ給ひしは。何れの在所を申や覧(上杉本「在所にて有やらん」)、して「さん候あの新(※)山(上杉本※印以下「乾に当て大山の候をは。新山と申候。此山」)にて九鬼を亡し。一天の守護神となり給(△)ふ。本地は(上杉本△印以下『給ふ故に。縁を結ばんともがらは。弓矢の冥加二世安楽に。守らんとの御ちかひ〔「誓願イ」と傍註〕にて候、(わき)「げに有がたき御ちかひかな。さてさて御本地は。いづれの尊容にて御座候ぞ、(して)「愚やヘだてはなき物を。』)虚空蔵の化現にてましませば。諸法実相の姿を顕はし(上杉本「て」入る)。色を見声をきく事も。何かは空の外ならん。されば嵐にもろく散花は。(カカル) 不滅の相と聞物を(上杉本「不滅の相をあらはす也」)、同上(歌) 躑躅(てきちよく)のくれなゐは。真生不生(しんしようふしよう)と示((ママ))し。細、溪(タニ)川の水の音、松ふく風も(上杉本「風は」)を(お)のづから。(上杉本「けいせいくは(わ)う長〔「長」ゴマ点三つ〕舌とかや。青葉まじりの山ざくらは。山色清浄心也と。」人る) 実目前の理りを。を(お)のれ、(繰り返し) 、と(上杉本「と」脱)説出(だ)す、心をさとり給へや  わき(上杉本「まことに御本地たっとく候。」入る)猶々当社の(上杉本「御」入る)神秘御物語候へ、(上杉本『して「かたって聞せ申さうずるにて候』入る)同上(クリ) 抑当社と申は。孝霊天皇第二の皇子(底本「ゐんじ」上杉本による)。いさせり彦の尊と、申奉る、してさしこゑ 其比異国に吉備津火車(クワシャ)と申王子おはします(上杉本「まします」)同 悪行身に余りしかば。扶桑国に遠流せられ。此新山(上杉本『に居住し給ふ、(して) 鬼神を召つかはれ。』入る)四方一里が間を囲み。(上杉本『同 』入る)大石を高く畳あげ(上杉本「たゝみて」)。鬼(き)(上杉本「き」)の城と号し立(たて)籠る、して下 九州よりの(上杉本「の」なし)運上の、同御調(みつき)の舟を。まねきよする、(クセ)下 西国を押領あれば。帝都の衰微さは(わ)ぎにて。凶徒を(上杉本「を」なし)誅戮の、宣旨をなされ則(ち)。いさせり彦の尊を、大将にさし下さる。数万の、軍兵を引卒し、彼城をせめ給へ共。城さらによは(わ)らす、神通を現じ給へり。互にはなち給ふ矢は。中途にて、喰合落ければ。計略(はかりごと)(上杉本「謀」)をめぐらし。一度に二つ放さるゝ(上杉本「ゝ」なし)。一つの、矢は喰あひ二つは火車の身にたてば。凶徒は多く亡びけり。流るゝ血は川となる、今の血すひ川是なり(<より>まで上杉本で補う)<(して)上 くは(わ)しや、身よは(わ)り力つきて、同 きの城を追落さる。雉子と成て山中に、かくれさせ給へば。尊、鷹と現じ追給ふ。又魚と成て淵に入(れ)ば。鵜と現じ給ひて、くひあげられけるとかや。鯉くひのはしとて、今にたえせぬきどくなり。>して上 (上杉本「して上 」なし)火車、逆心を飜し、同 (上杉本「同 」なし)勇子の命(めい)滅する事を、悲します。武命の、滅するを悲しむと。頸をのべて降(かう)(上杉本「かう」)を乞。我名を君に讓(り)つゝ。末社となれば尊も。御諱(いみな)を改めて。吉備津、彦見(上杉本「見」なし)の尊と、夫(それ)より号し奉る(<より>まで上杉本で補う)<(して)上 尊は、いぞくをちう(ちゆう)りくし、同国土を守り給へば。国も豊に民あつく。みかげにすめるわれらまで。安くさかふ(う)る御代なれば。たれかはあふがざるべき>  (ロンギ)上 ふしぎ成とよ老人よ。雎人ならず覚えたり、其名を名のり給へや、(上杉本「ふしぎや扨も老人の。かたるを聞ばたゞ人に、あらぬ其名は聞まほし」)して 我名をば、それとはいはじ岩代の、松の葉色(「色」上杉本で補う)も十帰りの、同 春を忘れぬ して 老木(おいき)とて、同 苔の、衣も年をへし、岩山の神は我なりと。名(※)乗も敢(アヘ)ず吉備の山。花の、木陰に失給ふ、其俤は失給ふ、(中入)(上杉本※印以下「御こゑあらたにい((ママ))ひの山。花の、木陰にたちかくれて、俤はうせにけり、其俤はうせにけり、しかしか」)  (<より>まで上杉本で補う) <わき「聞しより猶貴きは此めいとうなり。末世といひながらかゝる、きどくもありけるかと。信心肝にそみ感涙を(お)さへがたう候。>わき(上歌) 永日(上杉本「永き日」)の、影も高根(「高嶺」の宛字)に入相の、(繰り返し)、きゝ(上杉本「こゑ」)はさそへど終日(上杉本「ひめもす」)に。下向を忘れ神前に、御名を唱へて待居たり、(繰り返し)、(上杉本「一せい」とあり、出端か)後して上(サシ) 在難や百王守護の霊神として。此山上に(上杉本「此山に住居し給ふ。大明神の御かげに」)年を経て。仕ふる御代も動(き)なき。磐(上杉本「岩」)山の神とは我事なり、同上(上杉本 「一セイ」) 久方の。空のどか(上杉本「空豊」)なる日の光。(上杉本『同 くもらぬ御代にあひに逢て。』)照す御影は(十杉本「の」)有難や(上杉本「有がたさよ」)、して 今ぞ直(すぐ)なる印迚(しるしとて)(上杉本『同(ノル) 今を((ママ))すぐなる、時代とて。(繰り返し)〔今を・・・・・・ 〕)同(上杉本「同」なし)(ノル) 神代の佳例(上杉本「を」入る)、うつり舞、うたふや梅がえ、榊葉の声、実(上杉本「実」なし)めづらかに、面白や(上杉本『して〔準一セイ〕 峯のあらしにちる花の、同 雪をめぐらす。たもと哉』入る)舞  して上(ワカ) 春の夜の。雪をめぐらす。舞の袖、(上杉本「して上」なく「同」のまま『〔ノル〕 春の夜の、(繰り返し)、』)同上ノル(上杉本「同上ノル」なし) 明ゆく時の、鼓(※)の山。(繰り返し)の(上杉本※印以下「つゞみ山の」)。冴かへる嵐は。拍子をそろへ(上杉本「そうし(そろヘイ)」)。吉備山の松風(上杉本「は」入る)、琴をしらべ。(上杉本「住かひも有、木の竹の。葉風の笛に。月はすみのほり。かぶの菩薩は、舞くだり、」入る)飜る雲のそで。挿頭((かざす))(上杉本「かざす」)や霞の、衣手もにほやかに。君が代は。万(△)歳楽と、舞お(を)さめ、(繰り返し)(万歳楽と・・・・・)、御戸帳(ミトバリ)の内にぞ、入給ふ(上杉本△印以下「万歳楽。わが国は今はた、太平国土を、舞治め。はなも根に帰る、こかげの社の、みとばりのうちにぞ、入にける」) 

 故説事

 熊野三所大権現之事、唯一両部ノ伝区々其神跡決シ難シ。サ レドモ霊験正シキ故、日本第一大霊ノ勅額アリ。家秘ノ旧 記ニ伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産給ヒテカン去リ給フトアレ バ、是熊野山ノ本主也。證誠殿相伝ノ事ニ付テ、密義有。 一座者秦国徐氏之霊也。津絶海之詩ニモ、熊野峯前徐福祠 ト述テ、大祖高皇帝ニメサレテ尊和ヲ得シトカヤ。徐氏和 国ニ来ル事ハ、奈始皇帝海上ニ遊ビ給、方士除市ヲ召レ、 不老不死ノ術ヲ習給フ。徐市曰、海東ニ三山有。爰ニ神仙 ノ宝薬アリ。採テ奉べシトイフ。皇帝悦給。徐市者広学 秀才ニシテカクレナキ賢士ナレバ、私諂濫政ノ世ヲ辞テ遠 ク潤徳ノ州望。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮 城也ト聞テ、薬求メン為ニ艤スルト偽テ、ヒソカニ聖典百 家ノ書、種々ノ財ヲ数艘ニツンデ、徐氏一属幷蘭姿伶節ノ 童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨツテ海ヲワタルトイヒテ我 日本ニ来ル。徐市ハ不尽山ニメデヽ駿州ニ到リ、徐明ハ金 峯山ニ入、徐林ハ肥前金立山ニ住シ、徐福ハ着岸ノ津紀州 古座ニ止リ、后熊野山ニ入。父弓月ト云仁十七県ノ人ヲ友 ナヒ、其中ニ太子ヲ乗テ是モ和国ニワタリ、周防多々良ノ浜 ニアガラレシト申伝へタリ。各寛仁大度之機アツテ、中華 風俗厳壮也。士職能芸文字ニスグレタル輩同船シタマヒケ レバ、国人厚クウヤマヒ、サマザマノ道ヲ伝テ、職ヲツギ 家ヲ立ル者多シ。文字及綾ヲリ、工匠モ此時ヨリコソヲヽ ク世ニヒロマリケレ。史記東夷伝等ニハ、徐福ヲ姦佞ノ類 ニシルシ置タレドモ、此名ハ假ノ事ニテ、不義旡道ノ君ヲ 悪テ、国ヲ遁レン謀アリシ故也。其代ヨリ秋津洲ノ民姿新 ニ、伶楽ヲ学テ五常ノ理ヲ弁フ事、徐氏ノ田舎辺鄙ニ在シ 故也。奏ノ代ノ流ナレバ、秦氏ト都テ唱レ共姓ハ異也。民 ヲ百姓トイへドモ、日本ハ神孫ノ外様々ノ種因ウチツモリ タル末葉ナリ。徐福ガ孫古座侍郎三州ニ移リ来ル故ニ、本 宮山下秦氏之者多シ。 

 これは〒522-0016 滋賀県彦根市武奈町にある北原(きとら)神社にある案内板の由縁書略記をテキストに起こしたものです、竹内文書の記述から手がかりを探していて見つけたもので、竹内文書との一致を見せる情報になります、「重要」だと思い資料化したものになります。

「北原(きとら)神社 『由縁書略記』

 御祭神 三神 生命継承権憲邪 せいめいけいしょうけんけんじゃ

  植物の元生産親様 しょくぶつのもとうみおやさま

    皇親神漏樹命 すめらかむつかむろぎのみこと

 動物の元生産親様 どうぶつのもとうみおやさま

   皇親神漏身 すめらかむつかむろみのみこと

 人間 皇祖初代・伊邪那岐尊 いざなのみこと

 御鎮座 約七百二十万年前 

[由緒]

 今から凡そ七百二十万年前に、丹波の国の貴天原真那井原丹庭現在(たかあまはらまないはらたにわ)の京都府宮津市大垣「天橋立」にあります籠神社奥宮の地)に、人間として「絶対に争い戦いは致さぬ、御難賛助(ごなんさんじょ)のうけひ(てんかい)御警約」を天津におわします。

 大正腑(だいしょうぶ)の神(天神)と約束され、零迦児(むかご)として皇祖初代・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那身命(いざなみのみこと)のお二方は御降臨遊した。

 大丹生童児さまと大丹生童女さまは成人されたとき、現在の三重県伊勢市にございます。月夜見宮(げつやけんぐう)があります弥丹庭(やにわ)の森にて再開(ママ)され、結婚されて皇祖初代・伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)・伊邪那身命(いざなみのみこと)を名乗られました。

 そのお二人は現在の多賀大社の旅所であります調宮(ととのみや)「栗栖(くるす)の地」にて。男子十九名・女子十九名の三十八名の御子(おこ)を生産(うみ)育てになり、その御子を天命により霊仙山の山 頂につど集わせに成り、一人ひとりに、天に向かって一言ずつ違った発声をおさせになれは、天津(てんかい)より一言ずつ違ったことだま言霊を戴かれ、天上天津(てんじょうてんかい)よりの三十八音(おん)と、地上三十八音(おん)の言霊(ことだま)を以って、七六音(なむ)の霊言言霊による大和詞(やまとことば)を完成されました。

 その後、五千年位御活動(おはたら)き気になられた皇祖初代・伊邪那岐命岐尊さまは、一生涯を終えられるときに此の地に山入りされたので御座居ました。

 尚、皇祖初代・伊邪那身命さまの山入は、此の地より未申の方角にあります、比婆山にひば比婆大神としてお祀りされています。法師は、記紀により塗り替えられた偽りの歴史ではなく、真実の歴史を伝える為に、この地にあった大杉の幹にしめなわ注連縄をはり、三神(植物・動物・人間)をお祀りされました。

 今、キトラさん・大杉さんと称え、崇敬者は全国に及んでいます。

 御神徳  夫婦和合・恋愛成就・家内安全・病気平癒

令和6年10月2日

 出典:『超図解 竹内文書』 

「🔯イスキリス、クリスマスの遺言 ・天国の言葉にて記し。

 ・天国神倭十一代垂仁天皇即位二十九年シハツ月、立三日。

  アジチ国ユダヤ、カルバリの丘に難に合う汝が弟イスキリ、汝に代わり

  て三十三歳死す。イスキリス王、五日蘇りて再立す。

 ・八日曰(いわ)く、予言す。五色人よ今より先の代千九百三十五年より天下土海

  と乱れ、統一の天皇天国にある。

 ・汝が天国へ帰る、汝が天国へ来たりて六十六年目汝が自身に作る像神宮

  へ納め祭る。汝が霊を今より先の代必ず大神宮神主孫々の代祭り願う。

 ・神主武雄心親王へ遺言願て、汝が自身天国の言葉にて記し皇祖皇太神宮

  へ納め祭る。

 ・天国神倭十一代五十狭茅天皇即位三十三年ケサリ月籠六日、天国チヂノ

  クの八戸ヤレコ、トネコの水門松ヶ崎上りイスキリス泊まる貝鞍の里に

  宿る。

 ・同天皇三十三年ウべコ月籠五日、戸来参拝、天日来剣神山宮参拝、眉ヶ

  平仁々栄の木前に籠る。ハヤレ月籠六日迄天国神へ乞ひ願ふ居る。

 ・同十一代天皇三十四年ナヨナ月円一日、天越根中日見高見国、高地御皇 

 城宮平地神明宮赤池上・・・(解読不能)・・・毎日守神三十三神ひ参拝、神主

  武雄心親王より分霊を賜ふてクレハの大平に住む。

 ・天国の言葉文字を習ふ十来太郎天空坊と云ふ。

 ・同十一代天皇即位三十九年ウべコ月より天国全巡廻り不老石南を食す。

 ・同十一代天皇即位四十八年サナイ月立一日、天皇へ参朝拝礼す、詔賜ふ。

  道路奥戸来に住む。 

・神倭十二代大足彦天忍代別天皇即位九年サナイ月立つ一日より八日迄天

  越根中日見高見国皇祖皇太神宮別祖太神宮へ参拝籠る武雄心親王に拝面

  願ふて、🔯イスキリス汝が遺書を願ふ。汝が父母の骨像を造り汝が霊とし

  太神宮へ納祭りを願ふ。

 ・神主自身天皇と言上し詔賜ふて、🔯 イスキリス万国五色人よ、此太神宮

  へ納祭る汝が造り像を汝祭り思ひよふ。今日より先の代必ず千九百三十

  五年より汝が像霊再生出顯る代なるぞ。汝が名統来神、太郎天空と云

  ふ。

 ・五色人よ唱ふべし、神宝預り神主王殿代々必ず汝が霊神を祭り願ふ、神

  主と神躰を捨おくと天皇及び国民危し々々ぞ。

  神主を五色人よ拝礼せよ、神宝神躰お祭りせよ、天国天皇必ず五色人を 

 統一するぞ、心に背くなよ、五色人よ汝がイスクリスマス神見て居るぞ、

  汝がイスクリスマス神祭り願ふぞ。

 ・神主武雄心親王不憫に思い、霊像を納め祭ることに定め🔯イスキリス喜

  びて造り像を天国へ来りて六十六年目に汝が自身神宮に納め祭し。🔯イ

  スクリスマス汝が霊ぞ。

 ・道路奥戸来野月墓所館にイスクリスマス汝が骸骨を葬る所。

  金笠太郎 

門人     にたのむ 

  大平太郎 

・剣がり太郎天空坊汝が墓地を定め汝が霊が出たら五色人よ必ず背くなよ、

  背くなよ、背くと死ぬるぞ。汝が身代わりイスキリ十来墓頭髪耳を葬る。

 ・神倭十二代即位十一年ウべコ月立五日、暮れ六ッ刻、百十八歳神幽る。

  十来に神幽り統来に葬る。十来と云ふ。

 ・神主武雄心親王自身文し。

 ・神倭二十五代天皇小泊瀬稚鷯尊即位二年サナへ月円九日、詔し秘密勅

  賜ふ。

 ・神主二十三代目紀平群真鳥謹記印 花押」 

  岡山県浅口市金光町の大庄屋であった小野光右衞門についてご紹介をさせて頂きます。

 小野光右衞門は大庄屋として知られますが、その生まれは平安時代中期頃、藤原純友の乱があったおりに、この乱を鎮圧した小野好古の後裔にあたります、小野好古の子が讃岐へと土着し、そのまた後裔が天文年中(1532~1555)に、現在の岡山県倉敷市玉島長尾に移住します、そしてこの長尾の小野家の末裔として生まれた事に始まります。

 私は讃岐に土着した小野好古の子の家を「讃岐好古小野家」と呼んでいますが、私の研究ではこの小野家は小野好古へと嫁いだ小野小町の末裔になると考えています、好古に嫁いだ小野小町は埼玉県深谷市で生まれた小野小町と考えられ、通称などは分かっていません、小野小町の資料から総合的に得られた終焉地は大阪府阿倍野区王子町と思われ熊野詣での帰り道だったと考えて居ます。

 金光町の小野家の史料は全てこの金光教に寄贈されていますので、金光教の図書館に史料を元にした研究の成果が保管されています、今回はその史料を元に研究をされた靑木茂氏の「小野氏の出自と大谷村移住の事情」、金光和道氏の「小野家資料について」をベースにしてこの文章を書いています。

 金光町の小野家の初めは、光右衞門の祖父、善七郎が大谷村へと分家して出た事がキッカケで発展して行きました、その移住地は同じ一族の「小野重郎兵衛」の金融資産として手に入れたと推測される土地で、靑木氏の研究では大谷村の2割4分を所有していた事が分かっており、小野重郎兵衛は大地主であったと推測されています(他にも土地があったと推測出来ます)、その債権回収により手に入れた土地の金融の作配をさせる為(耕作をして米を収穫しなければ収入にはならない為)、同じ一族の善七郎に移住をさせたようだという事のようです。

 善七郎は大谷村において、いわゆる、よそ者でありました、よそ者に対する風当たりの強さは現代人には分かりませんが、それを解消するために、善七郎は大谷村の顔役であった遠藤氏と本末(本家と末家)の関係を結んだようです、そして善七郎は名前を儀兵衛と改めますが、水呑百姓(地主では無い)としてあったので、頑張って自分の土地を持ち得ていき、64才で亡くなった時にはかなりの地位を築いていたそうです。

 儀兵衛の後を継いだのは周春です、周春は富山家から嫁を貰い31才の時には村役人の「年寄」に就任し、その時に金光小野家の地盤が不動のものとなったようです、その後に155年間も庄屋を務めていた河手氏が引退しますが、庄屋を受ける人物が何度か入れ替わった後の享和元年(1801)から40年間庄屋を務めたのが小野光右衞門になります。

 小野光右衞門とは天明5年(1785)1月24日に大谷村で生まれました、幼名を「吉太郎」、後に「広太郎」と改め、更に享和3年(1803)に光右衞門と改めます、享和元年から父、本兵衛の後を継いで庄屋役になっています。

 ここからは金光和道氏の文を読んで貰う方が良いので引用する事とします。

 著者:小野和道 『小野家資料について』

「26歳の年には、公務を良く勤めたということが認められ名字を許され、32歳で、洪水の時、他村のことをよく配慮したということから、帯刀を許された。また、文化11年~12年(30~31歳)と、文政8~9九年(41~42歳)には、隣村の須恵村の庄屋役も兼ねていた。

 天保2年に領主役所か焼失した。その時、光右衛門はその普請のために家相、地相をみて絵図面を作成したり、普請中、種々の尽力をしたということから、天保五年(1834、50歳)には、大庄屋格に就任した。更に同11年(1840、56歳)には、大庄屋本役となり、その住居も、領主の役所に近い

賀陽郡井手村字川崎(現総社市)に移すこととなった。この後、弘化2年(1845、61歳)には、福井村(現総社市)の庄屋を兼ねるなどして、安政4年(1857、73歳)の八月まで大庄屋役をつとめた。

 それ故、庄屋役・大庄屋役をつとめた年数は、実に56年間ということになる。大庄屋を辞した翌、安政5年10月17日、光右衛門は井手村で没した。そして、大谷村の小野家蟇地に葬られたのであった。

 光右衛門が庄屋になってほどなく、文化2年(1805)隣村黒崎村との境界論争がおきた。光右衛門か21歳のことである。天領の黒崎村の横車に対して、理をとおして少しも讓らず、ついに翌文化三年には江戸に訴える決意をかためた。光右衛門が大阪まで行ったとき、黒崎村はこれを察知し、和議を求めてきたことにより、この事件は解決した。この事件を解決したことで、政治家光右衛門の名は内外に知られることとなった。

 この後、あるときには村人の立場に立ち、また、あるときには政治的手腕を発揮して事態を収拾するなど、大谷村の村人からも慕われた。

 村民に慕われていたことは、文政2年(1819)光右衛門35歳の時、小野家破産という事態の中でも窺われるので、そのことを少々紹介しておこう。

 光右衛門か庄屋を引き継いだ当時の村の年間経費は、銀七貫匁余という中で、借金は四貫五〇〇匁もあった。その後、先にも記した黒崎村との境界論争、文化5年には氏神社の新規建立、同6年には寂光院の造作、同15年には他村との訴訟事件などかあり、また、綿の不作、うんかの被害などもあいつぎ、大谷村はその度に新たな借金を背負いこむこととなった。これらの借金は一時しのぎにはなるが、一割七分の利息だけで毎年一貫~二貫匁にも及び、村の財政はほとんど破綻をきたしていた。村内の農民は、もとよりこれらの借金を支払う能力は残っておらず、村の有力地主が肩代わりをしているか、それも限界があり、有力地主が取り次ぎをして、他村の富豪から借金をくりかえすこととなる。こういう村の財政の中、光右衛門も文化三年には三貫匁の借金を背負いこむこととなり、文政三年には一三貫匁にもなってゆく。そのため家の維持が不可能となり、文政三年の村の収支決算をすませた後、12月16日に家を捨てて吉備津神社の神官の堀家光政をたよって大谷村を後にした。春になったら妻子をつれて、

かつて知りあっていた江戸幕府の天文方手伝いの山本文之進を訪ねて仕官するつもりであった。

 このことを知った村人は、あるときは判頭が、また、あるときには年寄りの代理が、あるいは総代や縁者などが、一日~二日おきに光右衛門を訪ね、再三再四、帰村を求めたのである。光右衛門は、借金の支払いのめどがたたないところから、これらの願いを断り続けていたのである。

 一方、光右衛門が不在となった小野家では、親類・縁者が評議をし、代表者を定め、借り主には田地や畑、また屋内外の立木を処分するなど、借金の整理を進めた。立木の整理にあたっては、同じ地区の者は全員五日間の奉仕をし、それを聞き伝えた村の者も次第にかけつけ、その数は数十人にも及んだ。それ故、ほどなく借金の支払いの目途をつけることができたのである。かくて光右衛門は12月27日に帰村し、再び庄屋の働きを進めることとなったのであった。

 ところで、光右衛門は大谷村のみならず、蒔田領全体にかかわる功績も大なるものがあった。その一つは文化10年(1813)からはじまった里見川に関する訴訟事件である。この川は大谷村の北端を東西に流れ、下流の川口付近は天領の阿賀崎新田村である。長い年月のあいだに下流に土砂が積もり洲かできたが、そこを開墾して耕作地を作ったのである。そのため、大雨の度に占見新田村や八重村の田が冠水することとなった。このことから、阿賀崎新田村と里見川に関係する25カ村との間で訴訟事件がおきたのである。この時、光右衛門は村の代表者として事の処理に当たるとともに、文化14年(33歳)には、江戸まで行き25カ村の代表としてこの事件の解決に尽力したのであった。結果は各村総出のしゅんせつ工事となったが、川底に堆積した土砂の量をはかる測量は、後にも触れるが、数学か得意な光右衛門がかかわったことはいうまでもないことである。

 弘化3年(1846、62歳)に、鉄穴(かんな)事件がおきた。鉄穴流しという製鉄方法がある。これは古代から明治中期まで盛んに行われていた、土砂を水で流し、比重によって砂鉄と土砂とを選別する採取法である。そこで問題となるのは、流された後の排土を含んた水である。光右衛門は天保元年(1830、46歳)から湛井の12カ郷用水の樋の本支配という役に任命されていた。12カ郷用水というのは、平安時代に妹尾兼康の手によって作られたと伝えられる用水で、総社市の湛井に堰を作り、高梁川の水を分岐させ、その下流の12郷、68カ村をうるおすという西日本でも有数の農業用水である。この用水に鉄穴流しの汚水が流れ込み、農業に支障をきたすことになり、鉱山側と12カ郷用水側との紛争がおきた。この時も光右衛門は先頭に立ち、江戸公事をおこし、春の彼岸から秋の彼岸までの用水引取期間については、鉄穴流しを中止するということで、この事件は落着した。その他、嘉永6年(1853、69歳)には、賀陽郡奥坂村にかかわる9カ郷の用悪水の事件にも、その代表者として、その解決に尽力した。

 この他、光右衛門は新田開発をも手がけた。天保元年(1830)には大谷村の夕崎に、沼に手を加え新池を作り、新田を開墾している。そのため、その地区では二倍の収穫を得る事ができるようになった。また、嘉永3年(1850)には賀陽郡井尻野村(現総社市)に新たな用水路を作り、八町歩(約800アール)の田地が開墾された。安政3年(1856)、年貢増額のため、検地帳の手直しが行われることとなった。このため、領内は騒然としたが、光右衛門は各村々を巡って、10のうち1、2を出して事をすませたという。

 しかし、井尻野村の庄屋と用水の問題からいざこざがおこり、安政4年(1857)、ついに大庄屋を退くこととなったのである。

 以上、述べてきたように、光右衛門は政治家であるとともに、家相・方位、占い、また禅の道理や俳諧などにも通じ、特に和算(日本で発達した数学)と暦象(暦によって天体の運行を推算すること)に秀でており、学者でもあった。特に若いころから数学を好んでいたが、田舎の村故に師匠を求めることがで

きなかった。そこで、当時、名著として聞こえていた沢口一之の「古今算法」や、佐藤茂春の「算法大元指南」などの和算の本を買い求めて独学をしていた。幸い文化6年(25歳)に後月郡大江村(大谷村から約20キロ西の村、現井原市)で龍岡舎という塾を開くこととなった谷東平を、師とすることができた。谷は、日本のコペルニクスといわれた麻田剛立について天文暦象を学ぶとともに、最初の日本式代数を継承しているという関流の高弟藤田貞資、また彼と和算論争のあった最上流の始祖会田安明、また球や楕円の扱いを得意とする宅間流を発展させ、その後継者の松岡能一について、その許可皆伝を得た、といわれる人物である。光右衛門はこの合の塾へ足しげく通い、ついに師匠を越えた、といわれている。

 先述したように、文政14年3月に里見川にかかわる紛争のため、光右衛門は江戸へ出たが、その訴訟のあいまをみて幕府の天文方渋川景佑(しぶかわかげやす)の門をたたいた。景佑は暦算、和・漢・蘭の諸学に通じ、また天保の改暦の立役者として活躍し、当時の日本暦学界の第一人者として知られていたのであった。そして、光右衛門は、景佑の高弟、因州侯の家臣で「暦作り御用手伝い、を勤めていた山本文之進を師として、天文暦術を学んでいる。山本とは気が合ったようで、大谷村に帰ってからも暦学問答を戦わせたので、その手紙が何通も残されている。それ故、光右衛門は、天文・暦象・和算に関する大家として、したいに近郷に知れわたっていったのであった。先にも述べたように、彼が大庄屋格に任命されたのも、領主の井手の陣屋が焼失した際、方角や家相の第一人者として絵図面を整えてよく調べ、普請役として働いた、その功か認められたからであった。

 やがて彼の名声は、京都の土御門家(つちみかどけ)にも知られることとなったのである。土御門家というのは、平安時代に安倍晴明から出たものとされ、幕末まで陰陽の頭(陰陽道のことを司る役所の長官)を代々つとめた家で、土御門神道説も唱えている。江戸時代に入り、天文、暦に関する実際的なことは幕府の天文方の手に移っていたが、形式的にはそれらを管理していたのは依然として土御門家であった。この家は、天文・暦術・日取り・方位の吉凶、占いに関することについては、宮廷や幕府にも伝統的な力を及ぼすとともに、民間のト占・祈檮・加持などを仕事としている。いわゆる陰陽師たちの総元締めとして君臨していたのである。

 この土御門家が光右衛門の入門を求めてきた。しかし光右衛門は、公的仕事を理由に、そのことを一度は断った。しかし、土御門家はあきらめず、領主を介して入門のことを求めてきた。そのため、光右衛門は天保14年(1843、59歳)に土御門家の入門状を受けることとなった。そのため、嘉永3年

(1850 、66歳)には土御門家の要請により京都へ上り、同家から裃・紋付一具、また盃・短冊などを拝領している。このように光右衛門は土御門家からも一目置かれるほどであったことが分かるのである。

 さらに光右衛門の才能を聞きつけた出版社が、和算の本を出版したいと持ちかけてきた。当時、和算の入門書は二冊しかなく、それも版木が摩滅し、再版もままならず、なかなか手に人りにくくなったというのが、言い分である。当時は執筆者の経済的負担も多く、失敗するとそのつけは莫大なものになってしまうので、一旦は断ったのである。しかし、人門書がないことを百も承知の光右衛門は、和算の本を執筆することに同意することとなる。光右衛門は、嘉永5年(1851)に一応原稿を提出、付録一巻を付すことになったので、それを加え、同7年(1854)に計六巻を出版することとなった。

 出版者は光右衛門の他、大坂心斎橋筋の秋田屋太右衛門と、倉敷の太田屋六蔵、京都の天王寺屋一郎兵衛の四人で、財的な事まで含めた規約を作り、出版の準備を進めている。もともと、それほど売れる内容の本ではなかったが、結果的には、当初千部印刷したが、再版を重ね1,700 部の発行がなされるほどであった。ちなみに金光図書館には「啓迪算法指南大成、皇都書肆 水玉堂梓」「増補算法指南大全、浪華書肆 文栄堂蔵」それにもう一冊、表紙か破損した計3種類のそれぞれ発行年代の異なると思われる光右衛門の著書が所蔵されている。

 また、光右衛門にかかわる算額がある。算額とは、和算家が数学の問題を解き、神社・仏閣に絵馬として奉納したものをいう。これは普通、神仏に感謝の意を表すと共に、数学の問題を解き、広く世に発表するという意図もあったのである。現在、日本中に約820面、岡山県下では9面が確認されているが、その内の2面が光右衛門に関係するものである。その一つは嘉永6年(1853)のもので、総社宮(総社市)に奉納されており、光右衛門の門下生高木紋吉郎他の者が、六問を解答しているものである。今一つは、安政5年(1858)のもので、吉備津神社(岡山市)に奉納されていて、光右衛門の門人が四問を解答している。塾の絵も描かれており、大きな算額である。何れも小野以正(光右衛門のこと)の名前が記されており、めずらしいものである。

 この他、出版はされていないが、「方鑒捷径書」「神道方位考」「西洋算法」「春秋日食方」「日食弁暦術伝書」「新法暦詳解」などの暦数のもの、また「京摂紀行」「伯州紀行」「同分間絵図」「厳島誌」「本州所々分間絵図」などの紀行文や絵図など、50巻もあるという。(なお、伯州紀行及び京摂紀行は、金光図書館報『土』105号に活字化されている。)

 また、光右衛門は多くの弟子を育てている。当時和算は、秘伝とされ、入門する時には、誓約書を書くことになっていた。光右衛門の弟子たちも、その例にもれず、「神文」とか「起請文前書之事」というものを提出している。それには、「当流の天文暦術を学びたいが、許可あるまで他人に教えたりすることは一切しない」というような意味のことが記されている。このようにして育った弟子に藤田秀斎がいる。彼は後に土御門家にも人門し、弟子を育て、数学書六編、方位書五編を著し、また高梁川の実測にあたっては、板倉藩主から功を賞されたこともあった。明治になってからは、小田県庁に入り測量を担当した人物である。この他、井筒屋作太郎、高木紋吉郎、佐々井弘右衛門、谷田市右衛門、西沢要右衛門、清水茂登右衛門、高戸順節、小野四右衛門などがある。

 この他、光右衛門は子女の教育にも力を入れているようである。そのことを示すものとして、金光教祖のことについて触れておこう。金光教祖は、その著書「金光大神御覚書」に、「津の庄屋小野光右衛門様にて、手習いさしておもらい。私十三、十四、戌亥と二か年」と記している。このことから、村内の一三、四歳の名もない農民の願いをうけ、その教育に力を尽くしていることか窺える。この時には、童子教、実語教を教えた、と伝えられている。おそらく他の寺子屋と同様に、読み・書き・そろばんの他、道徳に関する教育もしていたことであろう。この時、光右衛門は42、3歳であった。金光教祖か後年「金光大神御覚書」「お知らせ事覚帳,などを著すことかできたのも、金光教祖のもとを訪ねてくる信者に対しての理解に、故事やことわざ等か豊富なことも、光右衛門の薫陶によるものがその基本にあった、といわれている。金光教祖か毎月の1日、15日、28日の月の式日に光右衛門の墓前の参拝を欠かしたことがないということも、光右衛門の人柄をしのぶ伝えの一つである。

 なお、光右衛門の娘柳は、三島中洲の母である。三島中洲は、明治10年に朝廷の法官をやめ、漢学塾二松学舎を設立した。これは、後の二松学舎大学である。文学博士、学士院会員、東京帝国大学教授、東宮侍講、宮中顧問なども勤めているが、光右衛門の薫陶を受けたであろうことは十分考えられる。」

 龍海

 やっと「浦島太郎の伝説」を考察する時が来たと思います、平安時代初期の丹後半島において浦嶋子を祀る浦嶋神社(宇良神社)を建てたのは、何を隠そう我が家の先祖、小野篁です。

 この物語は小野篁の時代では謎を解くのは不可能でしたが、現代ならば可能となっていると思いますので今回の挑戦となった次第です。

 今、浦島太郎の伝説をざっと読んでみた感想として、伝説の元となった話は相当古いだろうという事です、それは七世紀の人物、伊余部馬養もこの話を記録していた事が分かっていて、その内容は丹後半島に伝わるものと同じであった事が書かれているからです、またその内容は既に「神話」のように変質していましたので「相当古い」という考察になりました。

 伝承の形態としては、私には「普通」に見えるので、どうにか成りそうでもあります、考え方としては原点となる物語があり、それはとても有名であったが、ある理由から公にする訳にはいかず、例え話のように伝聞されたものとして読むと理解しやすいと思います。


[文献による伝承]

・丹後国風土記逸文(伊余部馬養の記録と同じ)

・日本書紀

・万葉集巻九

 上記の3つが古い文献になりますが、普通の歴史研究なら古いものを尊ぶとは思いますが、伝承研究の場合、古い文献が正しいとは限らない事が特徴としてあります。(地域の口伝のほうが正しい事がある。)

 文献とは文字として記録されたものであり、記録した人が聞いた話ですが正しいとは限らない事に原因があり、地域のおとぎ話の方がより真実に近い事を伝えている事の方が多いからです、だから近世に成立した「浦島太郎」の物語の方がより正しい場合さえあると思った方が良いのです。

 なので、今回は伝承されている内容(特に単語)について、考察を加えたいと思います。

 まず物語の概要を改めてご紹介すると、「亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化するというものである。」です。


[項目]

◯時代背景

◯住んでいた所

◯浦島太郎について

◯亀について

◯龍宮城(連れて行かれた所)

◯饗応者(乙姫など)

◯玉手箱(お土産)

◯その他


[時代背景]

 日本書紀や丹後国風土記逸文では、雄略天皇22年(478年)秋7月と具体的に伝えています、しかしこの年は丹後半島から豊受大神を伊勢神宮へ遷宮した年である為、それと関連しているという可能性が指摘されており、わたしもそれに同意します。

 では手掛かりが無いのかと言えば、室町時代の古浄瑠璃「浦嶋太郎」では乙姫ではなく玉依姫が登場します、玉依姫ならば1世紀末〜2世紀初めとなり時代が分かる事になります。

 また伊余部馬養が伝説を記録していた事もヒントになります(本人が記録したかどうかは別の話で、伊余部家で伝える記録とした方が適切だろうと思います)、「伊余部」とは「伊予部」とも書き古代からの部族名でもあります、名前から考えて「伊予津彦」の為の部(べ)の民と考えられますが、伊予津彦は1世紀の人物なので、伊予部もその頃には存在していたとわかります。

 では、伊予部一族がドコに居たのかわかるのか?

 実は知ってたりします(笑)、岡山県総社市下原に「伊与部山」という山があり、この地域にいたと推測出来るからです。(山歩きした事があるので知っていました。(笑))

 1世紀頃は伊予(愛媛県松山市)あたりに居たと思いますので、岡山県へと入ったのは2世紀前後でしょうか?


[浦島が住んでいた所]

 住んでいた所は伝承により様々です、出てくるキーワードとしては、

・筒川 ・水江 ・住吉(すみのえ) ・丹後国 ・与謝郡 

 などですが、筒川や丹後国や与謝郡などは浦嶋伝説が表に現れた所が与謝郡だった事に由来していそうです。(なぜそう言えるのか、今回は有力地が既に想定されているからです。)

 なので、最メジャーな丹後国には外します(小野小町でも秋田県が有名ですが実態は全く違っていました、伝承では全く伝説の知られていない所が正しい事が多く、最初に書いた、伝説が隠したい事ならば、その地域には伝承されていないと考えられるからです。)

 注目すべきは・住吉・水江でしょう、住吉は何故か「すみのえ」の読ませているのは恣意的な誘導を感じます、住吉はそのまま「すみよし」で、かつ地名では無く「海神」を意味すると考えます。(隠語として綿津見三神を祀る住吉にした)

 つまり地名としては「水江(みずのえ)」だろうと考えられます、実は岡山県倉敷市に水江という古い地区があり、この地にすんでいたと推測されます。(図2 古代の水江を参照のこと))

 全国の「水江」という地名を調べたところ、13件のヒットがあり、他の所を調べると「他は全て古代は海」だった事が分かりました、コレにより水江とした場合には岡山県倉敷市が最有力地になります。

 あとは全国に残る地域の伝承ですが、背景として必要な要素を考慮すると該当する場所は無いのでは無いかと考えます。(全部調べたわけではないので、ご勘弁を、それだけ吉備に集中して地名が集約されているのです。)


[浦島太郎について]

 浦島太郎についても「浦嶋子」と伝えたり、「浦嶋の子」と伝えたり様々です、浄瑠璃では、「すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。」とあります、具体的に伝えていて信憑性はありますが、肝心の「誰」かは伝えておらず、授かった子が「主人公の浦嶋太郎」と書いていますので、本名は違うのだと思います。

 では古代に「浦嶋」という姓はあったのか?

 島名に残る「浦島」を調べると、熊本県天草にある「御所浦島」が「浦一族」の島で綿津見を構成していた部族でありそうな事が分かりました。(※御所は後付けと思われる内容が伝わっていたので...)

 なので「浦島◯◯」という人物が居た可能性は高いと考えます。

 名字として「浦島」を調べた所、現代でも四千人程おられるようなので、浦島という名字であった可能性は高いと考えられます。


[亀について]

 亀については他の説話でも龍神の助けによって亀の背で休んだ事が厳島縁起などに書かれていますし、浦島太郎の話でも龍宮や綿津見の隠語がでてきますので、龍王と関係する「亀」の事だと思われます。

 実際には亀を助けた訳では無いのでしょう、恐らく古代では龍王と亀とはセットのような関係で龍宮と共に亀がいた事から話の中に組み込まれた感じがします。

 話によっては「亀比売(かめひめ)の夫」も登場していますので、私の解釈で良いように思います。

 古代史の解釈から「亀」をシンボルにしていた一族があり、他の伝承でも「亀」として扱かわれているのが太伯系の大一族です。

 大一族も大龍王となって綿津見(海神)を構成していると考えていますので、亀とは大一族を表現しているとして良いと思います。(綿津見としての名乗りは「大島」。)


[龍宮城について]

 浦島太郎が連れて行かれた所としては「常世の国」or「龍宮」・「龍宮城」だと大きく二分されているようです。

 龍宮とはシャカラ龍王の称号で、初代龍宮の龍宮城とは岡山県倉敷市広江にあった事を私が突き止めています。

 また常世の国とは「異世界」と解釈する向きがありますが、私の解釈では海外で暮らしていた日本人が日本の事を常世(蓬莱)の国と表現していたと思いますので、綿津見を構成する龍王達が目指した所と混同されているように思います。


[饗応者(乙姫など)]

 浦島太郎をもてなしたのが、乙姫、海神の娘、女人亀、亀比売の夫、七人の童子(昴七星)→八人の童子(畢星の星団)ですが、いずれも龍宮城の主である龍宮(シャカラ龍王)ではありません。

 当時の風俗から考えても、誰が対応したとしても、もてなしたのは龍宮(シャカラ龍王)となると思います、だから龍宮城の主が誰か分からなくなった後代に、それを知らなかった人物が加えた話ではないかと推測します。

 しかし単語には共通点があり、何れも綿津見(海神)と関係している点です、それと龍宮が加わった理由は、この元となった伝承が岡山県の南、龍宮の城があった児島の海域であった事を知る者によって、龍宮城や乙姫などの情報が付加されたように見えるのです。

 では「浦島」を名乗りそうな人物が岡山に居たのかが疑問として挙がります、実はもう見つけており、今は「吉備の中山」と呼ばれる山が超古代は「浦島(豪族としての名乗り)」の本拠地だった島だと思われるのです。

 桃太郎の物語では「鬼の温羅(うら)」と伝えますが、八徳寺(元々は波津登玖(ハツトク)神社)や艮御崎(うしとらおんざき)神社の祭神は「温羅命」となっています。

 吉備津彦命とは「吉備の彦」という意味であり、複数の部族が構成する吉備という国のリーダーという意味になりますが、個人名は別に「ワカタケヒコ」という名があります。

 温羅命という名乗りも「温羅(うら)一族のリーダー」という意味であると考えると、姓を「浦(うら)」としていた可能性は高いという事になり、綿津見としては名乗りを「姓+″島″」としていたという仮説が他の事例の検証からも証明されつつあります。(私の中ではホボ確定しています。)

 吉備の中山には「浦」という地区名も残されています、これは港・海辺という意味ではないかという指摘があると思います、私もその通りだと思いますが実は逆ではないかと考えます、「津、浦、泊、湊、水門(みなと)」などの言葉のうち、綿津見としてあった部族が陸地の浜辺へと土着した時に地名が部族名の「浦」となり、時代を経ていくうちに「海辺」を表す言葉となっていったという事です。(三重県の津市などがあるのも同様の理由からと考えます。「津」という部族が居た。→津島≒対馬?))

 言葉の意味が出来る前に「浦」という部族があり、綿津見としての名乗りが「島」を付けて「浦島」と名乗ったと私は考えて居ます。(同じく山津見は「姓+”山”」となり、浦一族ならば「浦山」と名乗り、山名も「浦山」となる訳です。)

 それに基づいて地名が残っていれば「現在の、陸地の吉備の中山=海の中の浦島」であった可能性は高いと考えられます。(豊(て)島=豊龍王=姓は「豊」、高島=高竜王=姓は「高」という具合に、島名と綿津見としての名乗りの相関関係を現在検証中ですが綺麗な相関関係が見えています。)

 では「浦島太郎」とは何を元にした伝承なのでしょう?

 私は賀茂建角身命が倉敷市の連島の北にいて、玉依姫が連島の南に子供といた事を知りました、そしてその子供は死んだことにされていて、隠したい存在である事も知りました。(実際には子供(稲飯命)は生きています、伝承では、「賀茂川で遊んでいたら朱塗りの矢が流れて来て身籠った」と父親を明らかにしていません。)

 玉依姫の祖父は豊玉彦であり、豊玉彦は龍宮であった事が文献にも伝えられていますので、浦島伝説の龍宮城とも関連があります。

 そして浦島太郎とは浦島部族の長男という明示があり、玉依姫と八大龍王の末裔の浦一族との婚姻という意味があった事を示し、それは両者の同盟を示していると考察します。

 その玉依姫は鵜草葺不合命へと内侍として再婚していますので、浦一族との同盟が破棄されたか、玉手箱の話の通り、ウェルナー症候群のような早老病に掛かった事を伝えているのではないでしょうか?(ウェルナー症候群以外にもハッチンソン・ギルフォード症候群など、10の疾患が知られており、20才を過ぎた当たりから急激な老化が始まる病気のようです。)

 私の結論としては、浦島太郎という物語は創作されたものでありますが、1世紀頃に起こった奇怪な病気(当時は「祟り・呪い」だとされたと思います)と龍宮の存在、龍王という上位の立場の者に起こった事から隠すような動きがあり、噂が一人歩きして、物語の素地となる話を伝えたものではないかと思います。(近くに住んでいた伊与部一族はそれを聞いたので記録を残したと推測できます。)

 だから龍海が浦島太郎の物語を再表現するならば、

「龍宮の支配する吉備の国に八大龍王の裔で「浦一族の若者」がありました、綿津見を構成する一族の長男だったので皆からは浦島太郎とあだ名されました、浦島太郎は玉依姫との婚姻が決まったので倉敷市の水江に住み、当時の龍宮(豊玉彦)の孫娘、玉依姫と婚礼をあげ、玉依姫の住む連島(つらじま、古名:都羅島)元へ通ううち、子供を授かりました。

 跡継ぎも生まれた浦島太郎は龍宮と共に三年ほど遠征に出かけました、そうして三年後に帰って来た時には白髪の老人へと姿が変化していました。

 人々はそれを玉一族(亀)の呪いの箱(玉手箱)を空けたからだと噂しましたが、一緒にいた龍宮はそうでは無い事を知っています。(徐々に老人になっていった)

 浦一族からは老人のようになった息子と玉依姫の婚姻解消が申し出され、玉依姫は鸕鶿草葺不合尊の内侍となりやがて皇后として神武天皇を生みました。

 そして浦島太郎の事は皆をして腫れ物をさわるように噂だけが一人歩きをするようになりましたとさ。」

(by 龍海)


龍宮城:初代の龍宮の城、でも龍宮(豊玉彦)と一緒に居た事が元。

乙姫:玉依姫 ※乙姫は別に居た。

浦島太郎:浦一族(名乗りは浦島)の長男

玉手箱:早老病の発現(→婚姻の破棄、当時は呪い)

浦島太郎の居た所:倉敷市の水江

関係者:亀(大一族)、住吉、綿津見

(図の「浦島太郎の地図」を参照の事)

 吉備の中海には浦島伝説を構成する地名が揃っています。


 龍海

   第一編神皇之卷 神皇

     第一章 總説

 神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊(うがやふきあわせず)、諱(いみな)彌真都(みまつ)男王尊(ホツマツタヱでの斎名は「カモヒト」)、即位六年六月二十日、全國、地大(おおい)に震ひ、山岳崩潰、黒泥(こくでい)噴出。翌年、天下大(おおい)に餓(うえ)う。神皇諸々の皇族を率て、全國を歴巡して救恤(きゅうじゅつ)(困っている人に見舞いの金品を与えて救うこと)ましましき。

 三十六年六月、禍津(まがつ)亘(わた)理(り)命(※注一:八十禍津日の子孫で越の國の亘理から大和の名張に来た)は、神皇第四十六代鵜茅葺不合尊、諱種越彦王尊、五世の孫、真佐勝彦命(新羅王朝の大王か?)を奉して反(かえ)す。

 木山國(きやまくに)の初世太記頭(はつせたきかしら)、長髄彦を惣司令となし、白木(しらぎ)國(一、作新羅國、又、白國。)より多くの軍師を語(かたら)ひ、中國(なかつくに)を根據地として全國を略取せむことを企つ。

 六月十五日、神皇皇族初め諸大神を高千穂の宮に集へて征討の事を議らしめ給ふ。即ち先つ軍船二百六十艘を造り、皇族をして各部署を定め、諸將軍兵を軍船に分乘して、本島大陸八方の水門より攻入らしむ。

 賊魁(ぞくかい)長髄彦、河內原の高座山(兵庫県西宮市のことか)に據る。今や、天の神皇の巡幸、皇族の巡撫(じゅんぶ、各地を巡って人心を鎮め安んずること。)を聞き、大に恐怖し、白木人と議(はか)り、兵を伏せて之を防きぬ。

 針美(はりみ)(播磨)に着御ましませる皇太子海津彦五瀬王命は、賊情(賊軍の様子)を詷(とう)(適切な意味は不明だが、見定める意か)はむとして河內川の水門より、孔舎衛坂(くさえさか)の坂■(本?)に着御ましまさむとするや、伏兵俄に起る。

 皇太子終(つい)に痛手を負ひ給ひき。

 淡木(あき)(一、作安記。安芸のこと、広島県)に着御ましませる。

四皇子日高佐野王命變を聞き赴き援ふ。皇太子尋て(ふつうに)神避りましぬ。乃ち海上より、急を東北巡幸中の父神皇初め、各地に着御ましませる皇族諸官神に報しにき。神皇大に驚き、即ち海上より伊瀬崎の多氣の宮に着御ましまし給ふ。されと、賊の大軍に遮られ、西國に巡幸ましますこと能はす。各地より、皇族諸官神赴き援ふ。以て神皇を守護し奉る。乃ち、四皇子日高佐野王命を立てて、皇太子となさせ給ふ。

神皇は伊瀬口より、皇太子は久真野口より、挟み撃たせ給ふ。然るに、久真野口戦途に利あらす。伊瀬口征討の途次、偶々神皇、陣中に於て暴かに神避りましぬ。士氣索然(さくぜん)として振はす。則ち皇太子、檄(げき)を四方に飛はし、以て義に赴かしむ。是に於て、全國齊(ひと)しく兵を催し、以て義に赴(おもむ)きぬ。

 即ち、尾羽張大主尾羽張明照雄命を東海惣國の元帥となし、東海口より、諏訪大主諏訪建勇命を東山惣國の元帥となし、大湖口より、出雲大主出雲大神主命を北越惣國の元帥となし、丹馬・針間の兩口より進軍せしむ。賊の雄師漸(ようやく)く潰(かい)を告け、東海口第一に陥(おちいり)り(望ましくない状態になる)、東山口第二に陥り、針間口第三に陥り、丹馬口第四に陥る。明照雄命等、竟(つい)に賊の總大將真佐勝彦命・禍津亘理命を斃しぬ。而して、皇太子宇陀の國見の長髄彦を攻めさせ給ひ、皇兄稲飯王命等、牟婁の鬼山の白木軍を撃たせ給ふ。皇兄は、白木軍と海上に戦ひて彼我共に沈滅し給ひ、皇太子は長髄彦を討ち平け給ひて、竟(つい)に天下を平定ましまし給ふ。是に於て、都を大和國畝傍山の橿原に尊めさせ給ひき。是を神武天皇となす。

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文中の出典:伊勢の度会の二見の文書

「ナガスネヒコの本当の祖先は「八十禍津日の命の三代目の子孫であり、禍津虚張の神の21代目の子孫である、禍津亘理彦の命という。越の国の亘理に居て、いろいろと悪さをしていたので、第17代ウガヤ天皇(16代という説もあり)に追い払われて、大和の名張の山中(奈良県名張市)に隠れた。登美彦はその子孫なので、宇陀の覇精高の上と呼ぶ。」と、書かれているのです。」

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「  第四章 後記 人皇

     第一節 人皇創業

      第一 東征の部署

 人皇第一代、神武天皇は、宇家澗不二合世、神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊、諱彌真都男王尊の第四の皇子にましまして、幼名を日高佐野王尊といひ、諱を神日本磐余彦火火出見天皇と稱し奉りぬ。

 初め天皇の皇太子たりしとき、父神皇と共に東征にあり。神皇は伊勢口より、皇太子は久真野口より、賊軍即ち真佐勝彦命を奉して反せし長髄彦・禍津亘理命等を、征討せさせ給ふ。然るに、吾久真野口は、戰途に利あらず。伊勢は、征討の途次、神皇陣中に於て暴かに神避りましぬ。是に於て闇黒の世となり、士氣索然として振はす。賊軍大に喜び機失ふ可からすと。乃ち、八方の口々の要害の場所に陣を張り、呼譟して來り攻む。矢石雨の如くに下る。皇太子、四方の皇軍に合して、縦横奮ひ戦はしむ。然れとも、賊軍、兵勢日に加はり威力益々熾なり。則ち、皇太子、檄を四方に飛はし、以て義に赴かしむ。即ち、諸大國の初世太記頭より諸区國令に、又、區國令より諸小國司に、小國司より諸郷首に、郷首より譜村戸長に、逐次飛檄を移してけり。是に於て、全國齊しく、兵を催し、以て義に赴きぬ。

 天別天之火明命五十世の孫、尾羽張大主尾羽張明照雄命を、東海惣國の元帥となし、武甕槌命五十三世の孫、日田地大主日田地武男命、經津主命五十三世の孫富佐地大主富佐地香取雄命の両神を、副帥となし、東海諸國の各初世太記頭、並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、東海口より進軍ましまさしむ。旗甲野を蔽(かぶさ)へり。

 建御名方命五十三世の孫、諏訪大主諏訪建勇命を、東山惣國の元帥となし、稚武王命五十四世の孫大湖大主大湖佐久彦命、味粗託彦根命五十三世の孫、陸奥大主陸奥津彦命の兩神を、副帥となし、東山諸國の各初世太記頭・並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、大湖口より進軍ましまさしむ。 旗幟天に彌る。

 祖佐男命五十五世の孫、出雲大主出雲大神主命を、北越惣國の元帥となし、犬已貴命五十四世の孫、丹馬大主丹馬但波氣命、大物主命五十六世の孫、針間大主針間(はりま)宍粟(しさは) 彦命の兩神を副帥となし、北越諸國の各初世太記頭並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率るて、丹馬・針間の兩口より進軍ましまさしむ。士氣益々奮揚せり。

 賊軍は、要衝に占拠し、墻(しょう)を高くし溝を深くして之を防く。既にして、雨軍相接して吶喊(とっかん)鋭を争ふ。矢石飛ぶこと雨霰の如し。皇軍殊死して戦ひ、伏戸を越え流血 を渉りて奮撃す。賊の雄師、漸く潰を告け、関塞守をそ失ひける。皇軍、勝に乗して進む。勢風雨の如し。諸將、牧馬(ぼくば)(令制で、諸国の官牧が飼養している馬。)の首を並へて前に立ち、叱咤戦を督して追整す。或は弓にて射殺し、或は剣にて突き斃し、或は石劍にて打ち砕く。暴風の草木を吹き荒すが如し。東海口第一に陥り、東山口第二に陥り、針間口第三に陥り、丹馬口第四に陥る。諸將、益々馳騁(ちてい)(馬に乗ってかけまわること。)曲折剣を舞はして指麾(き)す。軍兵之に從ひ、轉闘(てんとう)(各所にめぐり戰ふこと。)長馳(ながばせ)(長いみちのりを一気にかけること。)向ふ所前なし。賊兵、彼にも石劍にて亂打せられ、此にも剣にて突き斃され、枕骸(ちんがい)(折り重なった死)原野を蔽ひ、僵屍(きょうし)(硬直した死体。)山谷を埋めてけり。帰降する者は、大将分は首を断ち、兵卒は顔に入墨して放ちぬ。東海口の元帥尾羽張明照雄命は副帥日田地武勇命と、更に進んて、大粟津口の圍を撃ち破り、賊の惣大將真佐勝彦命の本營を指してそ突進しける。勢疾風の如し。乃ち、石の大劍を打ち振りて急に接すれは、副將禍津亘理彦命は、惣大將を守護して遁れ走り、賊兵四散しで亦抗する能はす。吾兩帥、轉闘長駆向ふ所前なし。賊十八將、遂に亦四方に遁逃しけり。吾両帥、追撃して竟に、賊二大將を日榮山の麓に追及す、即ち元帥明照雄命は、大石剣を打ち振り、賊の惣大將真佐勝彦命を、脳天より骸骨まて微塵に打ち砕く。又、副帥武勇命は、亦賊の副將禍津亘彦命を同しく微塵に打ち砕きぬ。是に於て、東海口と東山口とを堅め居たる賊軍は、遁れて日榮山に立籠り、丹馬口・針間口をめ堅め居たる賊軍は、赤遁れ阿多後にそ立て籠りける。則ち東海・東山両道の官軍、沓り至り日榮山をそ八重十重に囲みける。乃ち四面より、肉薄して急劇攻め寄せ、伏戸を踏み越え殊死して戰ふ。即ち東海東山兩道を堅め居たる賊將、悉く戰死し賊兵悉く出てゝ降る。降れるもの、皆入墨して之を放つ。日榮山悉く平く。尋て、東海・東山両道の皇軍は、丹馬・針間兩道の皇軍と兵を合して、阿多後山を圍み、總攻撃を開始しける。實に暗黒七年三月十八日なりき。(以上、開闢記、火男記、神都録、神武記、人皇記。)

     第二 丹生本營と日高宮

 皇太子は、時に丹生(にう)の本營に在しましぬ。一日、皇族大久米命・高座日多命を勅使として、高天原に上らしめ、神祖神宗天つ大御神を祀り、國賊退治の祈願をなさしめ給ふ。又、丹生の川上にて高天原の天つ大御神を初め諸々の天神地祇を親ら祷祀(とうし)(いのり祀ること。)ましまさむとし給ふ。然るに、祭器なし、因て埴土を天香山に索(もと)めむとし給ふ。偶々宇陀國司弟猾(おとうかし)は、密に兄猾(えうかし)及び加志國司阿加伊呂等の陰謀を企つることを以聞して、其之を索(もと)むるの危險なることを奏しぬ。而して弟猾は、宇須彦と共に舆(うま)(意味:うまや車※中国語)に、天香山の埴土(はにつち)を採り来らむことを請うて去る。乃ち宇須彦は老翁に、弟猾は老嫗(おうな)に、各姿を扮裝して至る。途中果して虜賊之を遮る。乃ち翁嫗を見て、賤陋(せんろう)(身分や人柄などがいやしいこと。)なりとなし、嘲り咲(わら)ひて道をそ讓りける。

 皇太子、常に以爲(おも)(意味:~と思う。※中国語)らく、長髄彦は實は白木人(一、作新羅人。)なりと、之と欵(かん)(意味:懇ろである。※中国語)を通するもの亦國賊なり。國賊即ち家兄(かけい)(兄=五瀬命)の仇敵なり。何そ征討せさるへき、と詔り給ひき。漸(ようや)くにして宇須彦・弟猾、埴土を採り來りて之を獻(けん)す。皇太子大に悦ひ、乃ち祭典の陶器を作らせ給ふ。宇須彦、丹生の川上の榊を掘り來りて、祭典の料に供す。皇太子、丹生の川上の武禮加奴に清筵を張り、親ら天神地祇を遙拝ましまして、國賊を退治せむことを祷祀ましましき。又、磐竃二手抉を置いて、搗米を炊き飴を作り、且つ厳瓮を丹生の川に沈めて祈誓ましまししに、孰(いず)れ吉兆あり。皇太子、御感斜(ななめ)ならす(意味:とても感心されて)、則ち、皇兄稲飯王命・三毛野入野王命をして海濱を守らしめ、親ら諸皇弟皇子を從へ、南島筑紫の軍兵を率ゐ(い)て、海陸共に進軍せさせ給ふ。兵勢日に加はり、士氣益々奮揚す。進んで多太須の屯に向はせ給ふや、山峡より毒烟靉靆(あいたい)(意:毒けむりが雲のようにたなびいてきた)たり。乃ち皇太子、大石劔を拔き左右に打振り給へは、俄に風向變(へん)して賊軍に向ふ。白木人、爲めに苦み遂に營を捨てて走りぬ。

 偶々(たまたま)大久米命・高座日多命は高天原より還りて、神劔を皇太子に献上し奉る。皇太子、乃ち其由を問はせ給ふ。兩命、對(対)白したまはく、吾等勅を奉して高天原に上り、諸々の天つ大御神を初め天照大御神、並に高皇産靈神に、神勅神託を祈願ましましけるに、乃(すなわ)ち建雷命の佩劔、世司布都の神劔を授かり、又八咫烏を以て、皇軍の嚮導(きょうどう)(先に立って案内すること)たらしむ、との神託を授かりにき。則ち、神劔を奉持して還りませるに、今や皇の安座(あんざ)(くつろいで座ること。)屋の棟に八咫烏數多(あまた)止りて鳴きけるを視(み)たりし、と奏しけれは、皇大子御感いと斜ならす。時に忽然御惱(意味:怒る,腹を立てる。※中国語)痊(い)ゆ(癒える)。皇軍、勇躍奮ひ立ちぬ。

 皇大子、湯野崎の水門より上陸し、先つ要衝を相して行宮を建て給ふ。其地を日高と名つけ、其宮を日高の宮と稱し奉る。勅して海陸の將校を選み、且つ其部署を定め給ふ。即ち皇太子、親ら大久米命・手研耳命・中臣道之臣命以下二十二將を率ゐ(い)て、宇陀の國見に向ひて、賊魁長髄彦を征しまさむとし、高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命をして、中臣道足命以下十九將を率ゐて、牟婁の鬼山に向ひて、白木(一、作 新羅。) の賊徒を征せしめむとし給ひき。發するに臨み、稲飯・三毛野の兩皇兄に詔りたまはく、諸兄等、奮戦激闘して此白本(ママ)(木)の賊徒を塵にすべし、若し誤りて遁走せしめなは、天地神明共に容ささる所の罪なるべし、と嚴に宣り給ふ。乃ち發す。皇大子は、大久米命等と共に、皇軍を率ゐて進みます。軍容蕭然、兵威大に振ふ。八咫烏、之か郷導たり。名草・日野・岩川の農神等、馬數百頭を獻し、軍に從はんことを請ふ。八十坂に至る。兵勢日に加はり、威力益々熾(おこす)なり。

 贄持頭の子加奈宇伊呂は、吉野川に網代を作り、川魚を捕りて之を獻す。皇太子詔りたまはく、汝小國司・郷司・村主等の狀況を知れりや、對白したまはく、能く之を知れりと。乃ち、之を郷導となしぬ。(以上、神武記。)

     第三 牟婁の鬼山征討

     第四章  後紀 人皇

 高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命は、皇軍を率ゐて進み給ふ。乃ち、先つ御木 山に白木軍(一、作新羅軍、又、白軍、以下略之。)を攻む。白木軍、固守して之を防く。皇軍鼓躁して齊しく進む。山岳為めに震ふ。白木軍、大に毒烟をそ送りける。高座日多命、乃ち彼の 神劔を以て打振り給へは、風忽ち方位を變す。白木軍、爲めに苦しみ走りて鬼山に退く、皇軍勝に乘して進む。勢風雨の如し。白木軍又、遁れて三木浦に走る。錦村戶長今登志麻、賊軍に應し農賊を率ゐて皇軍と遮り戦ふ。皇軍、擊ちて之を斃す。白木の殘軍破れ走りて、海陸に跨り陣す。而して残兵を集む。稲飯王命、更に別隊の將大雷真志津命を遣はして、外五將と強兵五百騎を率るて、長髄彦の背後を突かしむ。乃ち進んて、曾根山に到る。賊軍亦鬼山に據れる白木の勇兵を進めて之を拒く。吾六將、強兵を率ゐて叱咤戰を督す、衆奮激先を争うて進み、殊死して戦ひ、竟に之を敗る。連戦轉闘、以て數ヶ所の賊壘を抜く。是に於て、白木軍遂に錦浦にそ走りける。此日、皇軍の死傷合せて二千餘神、賊徒戦死する算なし。稲飯王命・三毛野入野王命は、春加々眞津命外三將と、曾根の水門に軍船六艘を艤裝して、將に錦水門に白木の賊軍を攻めむとし給ふ。忌部若道命本陣に就きて言したまはく、臣既に備ふる所の海兵あり、以て先陣たらんと請ふ。兩命之を許し給はす。忌部氏又、言したまはく、臣嘗て侍從長たりし故にや、今日、皇太子海津彦五瀬命、固く請うて止まさるものありと。乃ち之を許す。翌朝黎明、七艘の軍船を集めて、三木浦及錦浦を望みしに、白木の軍船影跡たになし。浦の漁農曰く、前日既に去れりと。稲飯王命、憤怒して宣りたまはく、吾皇祖は天つ神にして、御母は海神の女なり。如何そ賊に海路を許すへき、諸軍続けと云ひ拾て、一艘の龍船に打乗り、疾電の如くそ追ひ行きける。三毛野入野王命初め、春加々眞津命外三將、二千餘の強兵を五艘に分乗して、稲飯王命の後に從ふ。舳艫(じくろ)相(あい)銜(くく)む。(意味:多くの船が続いて進むようすをいう。)行くこと飆(ひょう)(つむじ風・暴風)雨の如し。須臾(すゆ)(わずかな時間)にして、津久島沖の海原にて白木の賊船にぞ追ひつきける。乃ち賊船と相接し吶喊(とっかん)(※突撃に移る前に、士気を高めるために、指揮者の合図に応じて声を大きく張り上げること。)鋭を争ふ。流矢飛ぶこと雨霰の如し。惣大將稲飯王命、舳上に立ち大音上にて、高天原の神祖神宗諸々の天つ大御神を初め、八百萬の天神地祇を呼上け、祈りて宣りたまはく、神力を以て神國の大敵を退治ましまし給ふべしと。神劔を頭上に捧げ、遙に海原を見渡せは、這(これ)は如何に、周國の白木兵を援はんとして、舳艫(じくろ)千里海を蔽ひ、旌旗(せいき)(色鮮やかなハタ)萬里天に彌るあらむとは。其衆寡敵せさものあるを知り、乃ち又祈りて宜りたまはく、神あらは速に暴風を起し、以て數多の賊船を覆へし給ふべし。予は、海原を驅廻りて數多の賊船を覆へすべし。と直に、頭上に捧けませる大劔を八方に打ち振りて、復(ま)た頭上に捧げて之を大海に投しましぬ。三毛野入野王命、此を見て天神地祇を祈りて、亦神劔を打振り天を拝して、頭上に捧けて、大海に投しましぬ。此の状を見て、春加々眞津命・太玉七峡谷命・御雷折彦命・忌部若道命の諸將、強兵二千を率ゐて、雨霰の如く飛ひ來る流矢を事ともせす、吶喊(とっかん)鋭を争ひ奮激殊死して、賊船を四方八方に乘踰(のりこ)へ、飄忽震蕩(ひょうこつしんとう)(意味:いきなり激しく揺り動かすこと。)風雨の歪るが如く、短兵急に接す。一以て千に當(あた)らさるなし。賊兵逡巡、魂褫(うばわ)れ氣沮(はば)む。偶々黎明南西より風大に起る。忽ち又、北西より暴風遽(にわか)に来り、我船初め、數多の賊船と共に、皆な津久島に吹き附けらる。我兵、大賊を上陸せしめじ、と大劔を舞はし殊死して縦横奮ひ戦ぶ。偶々辰巳東なる未曾有の大暴風に變し、忽ち數多の賊船悉く沈沒しけり。我軍惣大將稲飯王命初め、三毛野入野王命・春加々眞津命・御雷折彦命・忌部若道命等、並に強兵二千五百神皆沈滅し給ふ。賊船は白木の軍船五十餘艘、周國の援船五百餘艘なりといふ。 (以上、神武記。)

     第四 宇陀の國見征討

 皇太子は、親ら皇軍を率ゐ、作田彦命(※猿田彦の事)の裔贄持命を郷導として進み給ふ。行々兵を収め、伊日加呂井戸に至る。兵威大に振ふ。岩押別命の裔吉野無勇呂、亦兵を率るて、来り謁す、以て先鋒となす、偶々大熊現れ、我軍の前を走る。恰も郷導をなすものの如し。是より先、木日山奈衛の山賊伊須久里、疑を賊魁長鑑彦に通し、今や皇軍の来ませるを知り、道路に陥阱(かんせい)(落とし穴)を設け、澤々谷々に伏兵を潜めて之を待つ。彼の大熊、乃ち先つ阱に陥るや、跳ね躋(のぼ)りて大音聲にて三度叫ひつ。忽にして、深々谷々より、數萬の熊沓り求り、其潜める伏兵數萬を塵にしにき。皇太子、大に悦ひ給ひて、乃ち、久真野山を熊野山と名つけ給ふ。其地を菟陀穿といふ。一日、中臣道之臣命奏すらく、勝主別命を遣して兄猾(えうかし)を召し出さる可し。と乃ち之を召す。兄猾遂に來らず。却て大殿を造り、密に押機(※カタパルトらしい)を設けて皇太子の臨御を請へり。皇太子、潜に間者をして之を詗(うかが)はしめまししに叛形既に顕る。是に於て、底土照田命・岩折春蒔命に勅し、遣はして兄猾の一類を皆な殿內に押入れしむ。果して、皆な押機に打たれて死しける。其屍を斬刑に處す。此の所を血原といふ。弟猾(おとうかし)大に悲歎(ひたん)して曰く、兄猾謀反の爲め、祖先の功も今や水泡に歸しなむ。冀(こいねがわ)くは、其子猾足をして此家を立てしめまさむことをと。皇太子、勅して之を免させ給ふ。弟猾夫婦、大饗を皇太子に獻(けん)す。皇太子、悦ひて宜りたまはく。吾征討の成りなむは、専ら軍兵の力ならむと、乃ち其饗を分ち賜ふ。我軍大に振興しにき。進みて宇陀の十知に至る。十知國司兄磯城麻、馬手坂に女軍神を、弓手坂に男軍神を備へ、又、大路小路に赫炭を置きて、其奥にそ陣しける。此所を磐余といふ。太玉若道命奏すらく、八咫烏に勅し、遣はして兄磯城・弟磯城を說かしめらるべしと。乃ち之を遣す。兄磯城八咫烏を射る。矢外れて、其子若磯城呂に中りて死す。又、太玉若道命、八咫烏をして弟磯城を説かしむ。弟磯城竟(つい)に畏れて降る。則ち、賊情を悉く自白しつ。即ち、賊魁長髄彦は國見岳に、兄倉下・弟倉下は高座山に、赤銅身津呂は吉野佐多木に據れりと。速玉山田命・山城柏木命奏しまつらく、今曉(こんぎょう)(意味:今日の夜明け。)、宇陀の山上に赤氣あり黑氣之を包めり、恐くは、賊四方に起りしならむと。積羽若菱守命、進んて賊情を詗(うかが)はむことを請ふ。乃ち遣はす。須臾(すゆ)(意:わずかの時間)奥にして歸り復奏すらく、曾宇國の畑田村戶長伊木三呂は西山に、和仁坂の古瀬村(一、作巨勢村。)戸長龜子武呂は南山に、保曾江(一、作細江。)の仲見村戸長猪子興呂は北山に、高尾張の農賊伊佐古奈彌呂は南西の間に據りにけりと。皇太子、御感殿科ならす、御製を賜ひき。甘美眞遅命奏しまつらく、臣の佩剣は、長髄彦の希望する所のものなりと聞く、臣請ふ、此を以て長髄彦を欺き以て之を斃すへし、とて其謀を具状し奉る。皇太子、乃ち之を免し、太玉大苔命を附して之を遣はし給ひき。

 一日、皇太子勅して、賊攻撃の部署を定めましき、即ち皇子手研耳命・中臣道之臣命は忍坂より、積羽若菱守命・速玉山田命は佐多木より、水分幡彦命は畑田より、御雷百花建命は和仁坂の巨勢より、岩折春蒔命は保曾江の仲見より、手力國守命・雷茂羅志命は高尾張より各進軍せしむ。發するに臨み約すらく、宇陀の十市の烽火(ほうか)(のろし)を合圖に、攻撃を開始すべしと。又、軍令して詔りたまはく、降る者は殺す可からず、遁る者は追ふ可からずと、乃ち發す。忍坂攻撃軍の副將中臣道之臣命は偶々大將皇子手研耳命に一策を獻す。乃ち是に從ふ。即ち道之臣命は椎根津彦命と共に降神と稱し、兄磯城足(一、作兄磯城麻、又單兄磯城。)を欺きて饗す。酒酣(たけなわ)にして、中臣氏起ちて歌舞す。皇子手研耳命、機を見て賊將兄磯城を斬る。兩將衆を麾(さしまね)き、奮撃(ふんげき)(力をふるい攻撃すること。)激闘して、悉く其餘黨(よとう)(残りの徒党))を斃す。是に於て、忍坂竟に平く。乃ち、皇太子御製を賜はり、之を賞せしめ給ふ。

 積羽若菱守命・速玉山田命は、賊將赤銅三津呂を佐多木に攻む。賊山野に火を放ちて拒(こばみ)き戦ふ。皇軍乃ち兵を潜めて、間道より遶(めぐ)りて其背後に出つ。衆吶喊之を突く。賊狼狽為す所を知らず、却て前面の火勢に困み、遂に吉野川の上流にそ逃れける。皇軍、追撃して之を塵にせり。此所を[首木]といふ。時に宇陀山上に烽火起る。諸軍齊(ひと)しく進む。呼譟(中国語らしい、たぶん群れ騒ぐの意)して從横奮ひ闘ひ、竟に悉く賊壘を抜く。會々暴風起る。乃ち火を山野に放つ。煙焔天を掩(おお)ふ。數萬の賊軍、悉く焚死しにき。西山の吉野の農神に、廣麻なるものあり。野田の賊將日志清呂を射つて之を斃し、其首級を揚けて吾分大將水分氏に獻す。乃ち、賞して名を廣麻正と授けぬ。南山の賊將龜子無呂、敗走して馬より落つ。巨勢國の農神等、撃ちて其首級を執り、吾大將御雷氏に獻す。乃ち賞して之に酒肴を賜ふ。又進みて、北山の賊將猪子興呂、並に其黨二百二十騎を斃しぬ。乃ち、吾大將岩折氏之を賞して、酒肴及ひ紙の大幣を賜ひき。

 南西の賊將伊佐古奈彌呂は、土農の歸順多きを察し、自ら其營を焼きて高尾山に奔る。吾大將手力氏、其子手力早薙命・手力須久身命の二神に、謀を授け賊の背後を突かしむ。賊將前路に走る。大將手力國守命、野山に火を放ち、單騎追ひて之を踏み殺しぬ。土神、皇軍に酒饌を饗す。乃ち、大將賞して紙の大幣を賜ひき(以上、神武記。)

 東海・東山・北越・北陸・四道の皇軍は、伊瀬・伊賀・山背・宇治·瀬多・大坂・小坂・淀戶・大湖・丹馬に充満して、旗幟天に彌(わた)る。以て阿田後山の大賊を包圍して、之を攻擊せむとそしける。

 一日、阿田後山の賊黨等、深山數ヶ所に火を放ち、以て皇軍を欺き、密に木日國(一、作紀日國。)日高地方に奔(はし)らむことを企つ。會々(たまたま)(意味:ちょうどその時)暴風大に起り、數萬の賊軍却つて悉く焚死したりけり。是に於て、東北地方の皇軍、犬山を越え、漸(ようや)く益々山間・泉地・木日地方に進軍し來り、又、各所の壘より引上け來れるもの日に多く、山野に闊(かつ)咽(えつ)(たぶん、むせび泣く聲が広範囲に響く様)す。雲霞の如し。威力益々熾なり。遂に賊地、を十重二十重に圍みてけり。乃ち皇太子は、大久米命と大挙して賊魁長髄彦を國見山に攻む。日月の御旗、綵繢(さいき)(彩りのある絵絹)として旭日に炫(かがや)く。 全軍に鼓して徐に進む。天地爲めに振ひ、山岳爲めに・崩れむとす。大地震大雷の如し。賊軍、魂褫(うば)はれ氣沮(はば)み隊伍を擾(みだ)して逃走を始む。則ち皇太子、直に、龍馬(りゅうめ)(意味:きわめてすぐれた駿足の馬。)を進め、鳴鏑矢を以て賊の軍門を射らせ給ふ。時に、甘美笑眞遅命、謀計を以て既に長髄彦を欺きて其陣中に有り。暴かに大劍を打ち抜き、長髄彦を責めて告りたまはく、逆賊天地も容れす、皇の謀計ともお知らすして、吾に欺かる、亦命なり。吾嚮に、詔命を奉して此に來れるものなり。今や乃ち、汝を斬りなむとすと。長髄彦答白まつらく、吾か運命爰に窮る。何そ汝を煩さむや。と竟に自ら縊(くび)れて死す。賊兵一萬黨除識悉く降る。則ち、強賊の首なるもの七百十三賊は、太玉大苔命皆な之を斬る。其他の餘賊は、何れも皆な顏面に入墨をして之を放つ。長髄彦の二男髄太和尾呂、間道より南に走る。乃ち捕へて之を斬る。是に於て、賊軍悉く言向和平(ことむけやわ)しぬ。乃ち、皇太子初め、大久米命外三十八將、振旅して日高宮に凱旋ましましき。

 牟婁の白木軍征討將軍高座日多命は、又、日高宮に凱旋して、稲飯王命以下六將、官 兵二千五百神入水の狀を以聞す。時に闇黒の世十三年十月三十日なりき。(以上、神武記。)

 五代目の小野小町を研究の出発点とした場合、ハッキリと年代別に色々な小野小町がいたことが浮かび上がってきます、備中の伝承では小野小町が「大同四年(809)」に生まれたと伝えていますが、これは小野吉子の事では無い事は明らかでした。(小野篁が延暦二年(802)の生まれなので、さすがに6・7才で子供は作れなかったと思います。(笑))

 もちろん最初は誰の事か分かりませんでしたが年代から小野篁の妹ではないかとの推測は容易でした、『玉造小町と小野小町』の中で植木学氏が「重子」について触れており、その情報源がどこにあるのかを求めた所、大江文坡著の『小野小町行状伝』にある事を突き止めました。

 小野小町行状伝はたぶんに物語的なので「読み物(小説、作り話)」として扱われていると思いますが、同じ立場の私から見れば、この本は大江文坡の小野小町研究の集大成として「物語の体裁」をとった研究書だとハッキリと言えると思います。(大江文坡の書いている小野小町の情報量が地域の伝承量とはかけ離れている事から証明できます。)

 私の研究でも大江惟章に嫁いでいる小野小町(菅原道真の孫と推定)がいますので、もしかしたら大江文坡も小野小町の末裔と聞いていた為に、ご先祖の小野小町のことを知りたくて調べて回った成果を誰しもが分かる形に押し込んだものだと思います。(私も研究成果を書くと、読み手には訳の分からないものになりそうだとする、同じ結論になりました。)

 小野篁と仲の良かった妹の名前は「重子」だと分かりましたが、勿論これだけでは小野小町であるとは言えません。

 実際にはかなりの時間を掛けて謎を解いたのですが、三代目の小野小町が鳥取県の伯耆町小町から出ていた事や、妹尾家の伝承(小野小町の位牌)、伯耆町小町の「小野小町の伝承」、雲光寺の位牌、備中の伝承から伯耆町小町の「小野小町の墓」は四代目の重子のものだと確信をしました。

 三代目の小野小町の墓は最初は和歌山県に作られ、その後に恐らく小野吉子によって随心院の東の林の中に移されていましたので(小野小町の墓は今でもありますが、看板が消失していて、随心院でも把握していないようです。)、鳥取県の小野小町の墓は三代目のものではないと証拠が出そろった事も理由としてあります。

 その上で、鳥取県の小野小町伝承を紹介すると、『とっとり民族文化論』伯耆文化協会 2008.5.5

 文は坂田友宏氏です、

「二 岸本町の小町伝説

 それではまず、岸本町小町に伝わる小町伝説の紹介から始めたいと思う。

 小町の集落を離れて三〇〇メートルほど行くと、大山を望み、箕蚊屋平野から日本海を見下ろす眺望のよい村はずれの岡の上に、「御前さん」と呼ぶ五輪塔と、その傍らに「小野小町」と刻んだ板状の自然石の石碑が立っている。

 そして、その横には、「奉納大乗妙典供養塔」と刻んだ天保十一年(一八四〇)の銘を持つ高さ三メートルあまりの石塔もみえる。

 この村に伝えられている伝承によれば、い小野小町は、父の小野篁が隠岐に流されたとき、その後を慕ってここまで来たが、この地で行き倒れた。それを村人が介抱して助けてやったので、その縁でそのままこの地に住み着いたという。

 村の上手にある溜池のほとりの字名は「寺ノ上」であるが、村の人たちはここを「堂屋敷」とも呼んでおり、小町が住んでいた屋敷の跡であるという。

 また、この池は「化粧井戸」と呼ばれ、以前はもっと小さな池であったが、ここで小町が化粧をしたと伝えられている。

 この土地の人となった小町は、やがてこの地で亡くなったので、村人たちは彼女が当地にやってきたときの気持ちを推し量って、隠岐の見渡せるところに墓を作り、今にいたるまでその霊を弔ってきた。

 なお、御前さんの五輪の一番上の空輪をぐるぐるまわして、下の風輪とこすりあわせて石の粉をつくり、それをいただいて顔や手につけると美しくなるといわれ、また、悪病除けや学問向上の願いもかなえられるという。」とあります。

 伝承研究の場合、内容をそのまま受け取っては駄目な事がほとんどですが、伯耆町の伝承も小野小町を一人のこととして伝えていますので、辻褄を合わせるために内容が書き換わっていることは、「三代目の小野小町が小町地区で生まれ、その娘で小野篁の妹の小野小町が葬られた、その遺骨を持って来たのが小野篁の娘の五代目の小野小町」と知って読むと「元の伝承がどう変化したのか」が容易に分かると思います。(読み返してみてください。)

・屋敷や化粧池の情報は三代目の生まれ育った家。(たぶん妹尾家)

・篁と来たのは篁の娘、五代目の小野小町である小野吉子(墓は備中に有り)。

・墓→小町で死んだ事になる。

・死んだ小町は小野篁の時代の女性。

・墓が隠岐の島が見える所にある事は「小野篁を見守っている」

・雲光寺(鳥取県西伯郡南部町)の元となった祠「雲光」を建てたのは小野重子

 これに追加する情報として小野小町が開基したと伝承する「雲光寺」の位牌にある卒年、「承和五年午四月二十九日」は、なかなか出発しない遣唐使一行に強制的に出発させる為の「勘発使」が太宰府に送られ、これにより遣唐使一行は六月には出発しましたが小野篁は乗船拒否をしています。

 また小野篁と小野重子が仲が良かった様子は『篁物語』にあり、市井(しせい)では小野篁と妹の重子は恋愛関係にあり、重子は小野篁を慕っていた為に食事が摂れなくなって亡くなった事になっていたようです。(本当の事情が明かされる事は無かったと思われます。)

 もう一つ、備中に残る文書には嵯峨天皇の女御にも小野小町がいた事を伝えていました、そして小野小町とはただの娘にあらず、地神大王家の女王であり巫女的能力を宿す者が小野小町となり、ほとんどの者が大なり小なり霊験譚を残しています。

 これらを総合して考えた場合、史料として残る物の背景は次のようなものであったと推測します。

 四代目の小野小町は、父に嵯峨天皇の先生をしていた小野岑守、母は鳥取県伯耆町小町に生まれた三代目の小野小町で、生まれた所は現在の京都府山科区の随心院の地となり(他の伝承の分析結果)、生まれた年は大同四年(802)となります。

 小野篁は「野狂(やきょう)」とあだ名される程、大男であり弓馬が得意で、とても賢く博学で、とても難しい男でしたが、そんな篁を慕う妹が「小野重子」でした、重子は嵯峨天皇の頼みから後宮へと入り氏女、「小野小町」として嵯峨天皇の妻となります。(推定される妻となった年の一年後には、嵯峨天皇が上皇になっていますので、主に嵯峨上皇の離宮にいたと考えられます。)

 小野篁には年も近い政敵として藤原良房がいました、小野篁の時代では既に「遣唐使」の意義が無いと言われ始めていましたが、仏教勢力の後押しを受けて、藤原良房の命により強行される事になり、小野篁は大使を務めるには十分でしたが、良房は藤原常嗣を大使に起用し、小野篁を敢えて遣唐副使に任命します、これは穿った見方をすると遣唐副使として死んだ小野石根と同じ事を期待しての起用ともとれます。

 その頃の遣唐使船は大型化されていて、渡海を失敗するような造りであった事が佐伯有清氏の『最後の遣唐使』を読むと分かります、つまり高確率で死ぬ事が想定されていたにも関わらず、行われた遣唐使であった事が前提としてあった事が、遣唐使一行が出発しなかった様子からも分かります。(二度の渡海失敗で、船に問題がある事を皆が感じていたからだと思います。)

 楊貴妃の時にも言及しましたが、小野篁は漢詩の師匠の「白居易との邂逅(かいこう、意味:思いがけなく会うこと。)」という目的があったので、公務で唐へと渡れる事は誰よりも喜んでいたと思います、そんな小野篁が病気を理由にしたとはいえ、渡海を中断させたからには背景にはただならぬものがあったと推測されます。

 なぜなら小野篁は当代きっての教養人でもありましたので、天皇からの命令を断る罪の重さを誰よりも知っていると同時に、個人的にも渡唐したい理由があったからです、他の人間の説得を聞く様な従順な人間では無い事は明らかでしたので、小野篁が渡海を中断させるに至った理由には、天皇からの命令よりも重いものがあったと推測出来るのです。

 私は性格的に小野篁と似ていますので(家族からも似ていると言われます。笑。)、この時の心情が分かる気がするのは、小野重子が神憑りして神託を授かり、海に出れば死ぬと告げられていたからではないかと思います。

 小野篁も神懸かっていたと口伝していますので、小野篁にも神様からの直接的な働きかけがあったハズです、それでも出航しようするので(頑固一徹)、妹の小野重子を使い、留まらせたのではないかと推測します。

 可愛がっている妹からも言われ、そして重子の死を聞かされた篁は、流石に考えを変えたのでしょう、それが「病気を理由に辞退」ですが、朝廷はこの奏上を取り上げなかったようです、これには実は伏線があり、前回の遣唐使では遣唐大使の佐伯今毛人(いまえみし)が病気(たぶん仮病と言われています)を理由に遣唐大使を辞退して、大使不在のまま遣唐使が実行され、帰りの船で小野石根が亡くなっているのです。

 この仕打ちに小野篁は藤原良房が自分を殺そうとしている事に気付いたのでしょう、小野篁とは地神大王家だった小野氏の氏長者で気性も荒かったと思います、当然、小野氏に呼応して動いてくれる豪族は多くいます、この時に事情を知った小野氏からは朝廷討伐(主に藤原氏)の機運が高まっていたのだと思っています。

 ここで一番慌てたのは嵯峨上皇です、小野重子からも遣唐使の中止を訴えられていたでしょう、しかし藤原良房の最大の後見人が嵯峨上皇であったので(嵯峨上皇の娘壻)、この時の嵯峨上皇は藤原氏と小野氏の板挟みになっていたと思います、小野篁へは「自分がどうにかするから大人しくしていて欲しい」と連絡していたと思われ、朝廷に直接的に働きかけ小野篁の裁判に無理矢理、関与していった事は史実として残る通りです。(表向きは怒った事にしていますが、本当は上皇には朝廷に口を出す権利が無く、権利があるのは仁明天皇でした。しかし仁明天皇の言うことは藤原良房が聞かなかったと思います。)

 小野篁が隠岐の島へ流される時も、真冬の判決(12月15日に遠流が決定)でしたが、のらりくらり、半年を掛けて伯耆町へ着いた頃には夏前の頃だったと思います。(ここでも死ぬ確率が高くなる動きがあります、冬に隠岐へ渡る場合には海が荒れて死ぬ可能性が高いからです、時期をずらしたのも嵯峨上皇が根回ししたと思います。)

 表向きに残る資料からはたどり着けない背景ですが、伝承ベースからはこのような解釈が可能になります、どちらが史実に近いかを判断するのは、これを読む皆さんになるかと思います。

 龍海

 私がまだ若く、歴史なんかに興味の無かった1988年当時に行われた「シルクロード大文明展」の本、『シルクロード・オアシスと草原の道』を見ていて見つけたものですが、紀元前3000年前に作られた青銅器、日本人なら誰しもが分かるこの姿、「まわしをつけ、がっぷり四つに組む男達」、この青銅器が見つかったのはメソポタミアのトゥトゥプにあったニントゥ神殿だそうです。

 本での紹介は控えめでしたが、相撲の起源と結びつけたいが、証拠が無くジレンマが感じられる文章で、書いた人もさぞ相撲のルーツだと言いたげでありました。

 イラク博物館のファウズィー・ラーシド博士の説明によると、「シュメル人のレスリングはAKITI(アキトゥ)祭という新年の祭で行われた。・・・・レスリングの勝利者が男神となり、高位の女性神官が女神を演じた。この聖婚は豊穣をもたらし食糧増産をもたらすと信じられていた。聖婚の花婿をつとめる者は、若いこととともに少し太っていることが必要であった。」と書いています。

 アキトゥ祭というのは四季毎に新年を迎える祭りで、ホツマツタヱの四倍暦の謎を解く時にも役だってくれた「概念」です。

 日本大百科全書には「相撲」の項で、次のような説明が書かれている、「悉達多(しっだるた)太子(釈迦(しゃか)の幼名)が相撲に勝って姫を得たことが、釈迦一代記の『本行経(ほんぎょうきょう)』にみえる。」とあり、古代のインドでは「争婚」という習慣があり、釈迦も争婚(相撲)をし「マンダラ姫」を手に入れたそうです。(釈迦も体格のしっかりした若者だったと想像出来ますね。)

 かつて貴乃花が「相撲はヘブライ語がルーツでシュモーと言った」事が取り上げられた事があったようです、これは川守田英二氏の説を引用したものらしく、「はっけよいのこった」がヘブライ語であると想定した場合、その発音どおり、「はっけ」「よい」「のこった」、という3つの言葉から形成されていると考えられます。

 まず「はっけ」は、ヘブライ語で「打ち続ける」「やっつけている」、という意味になります。

 次に「よい」という言葉をへブライ語にした際、川守田氏はヘブライ語で、「やっつけるよ!」「打つよ!」という意味に解釈しましたが、別の解釈では、「やっつける!万歳!」「打つ!生きる!」となるようです。

 最後に「のこった」という言葉は、ヘブライ語で「打ち倒す」、「強打する」を意味し、その語尾に、二人称で男性の「あなた」「お前」を付けると、「お前を打ち倒す!」「お前を叩きのめす!」という、激しい戦いの言葉となるそうです。

 シュメル人が日本人である証明が、一通り出来る現在なら、誰しもが相撲のルーツであると言うのはたやすい話になります。

 どうりで日本人が相撲を好きな訳が分かったような気がします、相撲とは神事であり、お祭りの時の最大のイベントで、屈強な若者達が集まりマワシを付けて、肉体一つで「男神」の地位を手に入れようと戦った訳です。

 娯楽の少ない時代で神様に奉納する神事で行われる競争なのですから、その盛り上がりはもの凄いものだったのでしょう、その魂の記憶が相撲を愛してやまない民族性を生み出したのだと思います。

 龍海

 岡山県の桃太郎伝説は有名すぎて、すっかり定着した感がありますが、本当は違う解釈が正しいと思われる事を是非ご紹介しておこうと思います。

 元となる史料は先行研究、『吉備の伝説』(土居卓治編著:昭和51年刊)に載る内容をベースとしています、私は土居氏が既に桃太郎伝説を解く鍵を見つけていた事を知り、これは是非、謎解きへと昇華せねばと思いご紹介するものです。

 まずは、それ程長く無いので、『吉備の伝説』の中の「吉備津彦命と温羅退治」の項を既存の概念と違いを確認しながら読んでみて下さい。

「吉備津彦命の温羅退治

 吉備津彦命と温羅退治は岡山県でも最も有名な伝説である。伝説は成長するもので観光旅行の盛んな現在では、さらにいろいろ尾ヒレ話が加わっているが、かなり古い姿が『古典文庫』の未刊謡曲集の刊行によって、最近明らかになった。これは金春禅竹(こんばるぜんちく)の弟、金春善徳が十五世紀の半ばころに作った「吉備津宮」という謡曲に取り入れられている。当時すでに都においてこうした説話が知られていたことはその成立がさらに古い時代にさかのばることを推測させるが、初源がいつかは明らかでない。この曲の中では次のように語られている。

 吉備津彦命は孝霊天皇第二の皇子イサセリヒコの尊といった。そのころ異国に吉備津火車(かしゃ)という悪者がいて、いつのほどかこの国にわたり、吉備津宮の西北にある総社市新山に四方一里の石の城をきずき鬼(き)の城(じょう)といい、ここにたてこもって、九州方面からの貢物をとりあげ、付近の住民を困らせるなど悪事を重ねた。朝廷はイサセリヒコをさしむけてこの城を攻めさせたが、城は弱るどころか、いろいろ不思議な神通力をあらわして抵抗した。互いに矢を放っと途中でその矢が食いあったので一度に二矢をつがえて放ったところ、一つは食いあい一つは火車の身にあたり、流れる血は川になった。今の血水川がこれである。火車は今度はキジになって逃げたので命はタカになって追いかけた。次にはコイになって淵にひそんだのでウになってくいあげた。そこで鯉くいのはしとう。そしてついに火車は逆心をひるがえし、首をのべて降参し、自分の名を君にゆずるというので、命は吉備津彦命と改めた。この鬼は末社に祀られることになった。こうして国も豊かに民あつく御世安らかに栄えたのである。

 この謡曲の中には温羅という鬼の名は出てこない。現在の社伝によると、『雨月物語』にのっていて有名な吉備津の鳴動釜については、退治せられた温羅の首をこのお釜殿のクドの下に祀ったところ、ある夜、命の夢の中で、「わが妻阿曽郷の祝(はふり)の娘阿曽媛にミコトの神饌を炊かせよ。もし何事かある場合それが吉事であればカマがゆたかに鳴り、禍があれば荒らかに鳴るであろう」と告けたことにもとづくとしている。現在ではこのお釜の鳴動の音によって吉凶を占い、病気平癒を祈っている。謡曲の中では、お釜鳴動の理由をきいてこいとの命をうけたとあるので、その話は都でも知られていたのであろうが、岩山の神は「この鳴動にてもなどか吉凶を知らざらん。上つ人、下万民に至るまで当社を崇め奉り、折々に備ふる供御の其志を謝せんが為の鳴動にて候」と答えているだけである。

 なお温羅退治に伴い矢喰宮・矢置石・血水川・鯉喰神社・鼓山などの伝説がある。また吉備津彦を桃太郎として、桃太郎の鬼征伐の話はここが本場であると主張する論考もいろいろ書かれている。妹尾(せのお)町には温羅の残党アカダマ・アオダマの伝説がある。」とあります。

 重要なポイントは「鬼とは温羅ではなく、吉備津火車(きびつかしゃ=きびのかしゃ)」という点にあります、「津(つ)」というのは格助詞で現代の「の」と同じ働きをしますので、「吉備(きび)の火車」という意味になります。(古代史の人名を見ていると、もはや感覚的には普通になってきます。)

 吉備の国というのはいつ頃から定まったという定説は今の所ないようですが、私の研究からシャカラ龍王の日本名が「きび」だった可能性が高く、地名になったのは後の話だとしても、紀元前1世紀頃、シャカラ龍王達が渡来してきてからの事だと思います。

 黄蕨(きび=黄色の蕨)という漢字も使われている為、当て字の漢字から物語が作られ(黄色の蕨がたくさんとれる所だから、みたいな内容だったと思います。)、この説の場合は蕨の突然変異種として扱われているようですが、私はそんなものは無いと思っています。

 きび龍王の「きび」とは「サトウキビ,砂糖」の事だと思われますので、私はもしかすると、サトウキビの漢字が「黄蕨(きび)」で、「黍(きび)」の漢字と区別した可能性がある事を今では推測しています。

 温羅は現在、「吉備津彦神社」の摂社として祀られていますので、悪い者では無いという根強い考えもあります、また「〇〇羅」という名前が龍王の子孫達に見られるため、「阿羅漢(アラハン)=羅漢(らかん)」=「仏の弟子」にある者が名乗ったと考えられ、吉備津彦神社および吉備津神社のある山は、現在、「吉備の中山」として有名ですが、吉備津彦神社と吉備津神社の間にある山は「龍王山」であり、山頂には「八大龍王神社」があって吉備津彦神社の元宮とされています。

 温羅(うら)という人物は八大龍王の末裔で龍王山を支配地としていたと考えられ、仏道修行をする行者でもあり、吉備の中山を拠点とし、ヤマト王権側に協力したと考えられる人物になります。(吉備津彦が吉備の王を継承した時に、温羅の娘を貰って、八大龍王神社の祭祀を継承したと考えられるからです。)

 しかし、吉備の国は八大龍王が統べる国であった為、吉備津火車が吉備の国の王だったと考えられます、その場合、温羅も立場としては吉備津火車と同じ事になり、まつろわぬ者と外部からは扱われていた可能性があると思います。

 次に「火車」という名称は、現在、妖怪として名前が知られています。

 古い文献には「土蜘蛛、両面宿儺、鬼」など王権の言う事を聞かず、盗賊などの犯罪を犯す者に付けられる名前だと考えられ、それらが後に妖怪へと変化していると思います、しかし他の文献では具体的な名前が出る事もありますので人間への蔑称だったとして良いでしょう。(土蜘蛛の〇〇と〇〇)

 温羅の首も本当は埋められていなさそうです、鬼ノ城は天智天皇の白村江の戦い後に百済の人間が築いた朝鮮式山城だと考古学的にも分かってきていますので、百済の王子と吉備津彦の末裔が結び付き阿曽媛(女)を巫女として入れた事が鳴釜神事と結びついたと考えられます。

 謡曲に出てくる「岩山の神」という人物が登場しますが、これは『びせいのむかしばなし』という本の中の「おにのさと」という話の中に「このあたりをおさめる、いわやまみょうじん」として登場し、吉備津彦命に鬼を退治してもらうように頼みに行ったと書いています。

 異なる2つの文献で、同じ吉備津彦の鬼退治とするテーマにおいて、同じ名前が登場していますので、実在の人間だと証明でき、かつ、謡曲の内容が史実に基づいている事を物語っています。

 最後に吉備津火車は「吉備津」の名乗りをイサセリヒコへ献上する事で赦されています、これは矢掛町にある鬼ケ岳温泉の伝承では、温泉にて傷を癒していたが、温泉が冷泉に変わり傷が治らなくなったので降参した話になっています。

 この伝承でも、鬼は殺されておらず、謡曲の内容と一致していて、鬼の首など獲っていないようです。

 以上のことから、岡山県の桃太郎伝説を龍海が史実として解釈した場合、「吉備と呼ばれた支配地域をもつ王が、ヤマト王権に逆らって九州の豪族の貢ぎ物を奪う行為をしていた為、犯罪者の烙印を押されヤマト王権側から「吉備津火車」という蔑称で呼ばれ、彦五十狭芹彦命(双子)の率いるヤマト王権軍と戦い負けたので、吉備の支配者という地位を彦五十狭芹彦命へと譲渡し、吉備の王の称号の「吉備津」を名乗る様になったので吉備津彦命(双子)となりました。そして吉備津彦命の名とともに、吉備の国の名前が後世の人に知れ渡ることになった。」としたいと思います。

 龍海

 世に有名な真田家と関係する小野お通と同じ時代で同姓同名小野お通という女性が岡山県津山市にいました、津山には小野小町の領地があった事や、小野小町の家があったこと、そしてその末裔として津山押入の岸本家に生まれた「小野お通」が岸本を名乗らず「小野」を名乗り数奇な人生を生きていた事が世に出る事になると思います。

 かくいう我が家は湯郷(ゆのごう)にあった小野小町の家の末裔だったようですので、小野お通は身内という関係になります。(我が家の口伝から)

 私の小野小町の研究においても「巫女的能力」を有した小野小町が代々同じ名前を名乗っていた経験がありました、小野お通においても3人の小野お通が居た事を確認しています。

※小野お通→小野おづう→小野お伏(おいぬ※お通に間違われている),美作の小野お通

 こうなると小野家の巫女の伝統とでもいいましょうか、巫女的能力を有して生まれた娘は同じ名を継承するというような傾向があります、そしてその巫女的能力が最も強かった女性が津山の小野お通でありました。

 では、津山の小野お通がどのような人生を歩んでいたのか、津山押入にある「白神大明神」の碑文を元にして昔語をしていきたいと思います。

「白神大明神とは、美作國の東南條郡押入下に邸を構える人、岸本彦兵衛尚俊の娘である小野お通の事をいいます、母は小野氏で、小野お通が生まれる前、金色のカラス(※小野氏は神武天皇の時にも金鵄(金色のトビ)と表現される空神の系譜です。)が岸本家へと飛び集まりました、カラスは家に二日ほど居た後に飛び去ったそうです。

 慶長六年(1599年)四月十三日にお通は生まれました、ちょうど夕方の事でありました、奇しき光が部屋に満ち、家の人は皆生まれた子が非凡な者であることをその様子から知ったそうです、お通は幼き頃よりエレガントで美しい娘で、顔などは人が見惚れ程美しいく、容姿が整っていて美しかったそうです。

 それでいて全く妖艶な色気というのは無く、賢く聡明なことが、様々な技藝を学ばずとも詳しく知っていた事からもうかがい知ることが出来たそうです。

 五歳にして和歌を上手に詠み、七歳にして機織(はたおり)も極めて上手であったり、十歳にして大人が読む様な書物に精通しています、そして十六歳の時には京の都で一番の身分が高く、家柄が非常に貴い人が、その美しさや聡明さを伝え聞き、妻にしたいと礼を尽くして求めてきたそうです。

 父の尚俊はこれを許し、結婚の日をえらび使者を帰しました。

 結婚式の当日の事です、夕刻の夫婦固めの盃を交わす段になった時です、花嫁であるお通がどこに居るのか分からなくなってしまいました、家の人々は大いに驚いて、人を四方八方に分けて探させたましたが、その手がかりは無く困っていたのですが、その同じ日のまだ夜もなかばの事です、お通はすでに家へと還ていたのです。

 京の都より津山の押入村までは凡そ五日程は掛かります、両親や親戚は集まってきて、どうして途中で還って来たのかと責め尋ねたそうです、お通がさも大した事じゃないかの様に言うには、両親の決めた婚姻なので子どもの私として拒むことは出来ないと考えたそうです。

 しかし俗な夫の嫁になど絶対に成りたくないし、お通としても我慢出来そうになかったので、ひとまずは形式通りに婚姻の場に居ましたが、夫婦固めの盃の時にその場を去ってきたいきさつを語るではないですか。

 両親は人を都まで走らせて経緯を確かめると、お通が帰ってきた時は即ち婚礼の時のことで、この時初めて父母兄妹はお通に神通力が有ることを知ったのです。

 そしてこの以後はたびたび神通力を発揮するよになるのです、お通は全ての祟りをとり除き、災いを祓いたいと思って、不思議な霊妙をもって病を治していったそうです、お通の名前は大いに遠近に広まって有名になりました。

 十八歳になった年にお通は、父母の元を辞し他国へと旅に出ることにしました、岸本姓を名乗らぬ罪を敢えて冒し、母氏を稱え小野お通と名乗ったそうです、天正の頃の話として、「小野お通という者有り、和歌を善くし、神本人とは別人なり、神との相關あらず。」とあるのは、豊臣秀吉の北政所の右筆であった「小野おづう」又はその母の「小野お通」の事だと分かりました。

 ※この二人は直接的には津山の小野お通とは関係ありませんが、最初の小野お通が浄瑠璃を発明しています、この小野お通は京都の小町小野家の血筋の可能性があり、小町小野家の血筋としては係累である可能性があるのです。小野小町と同じようにややこしい関係になっています。

 津山の小野お通が京の都に参った時のことです、お通のことが時の帝(天皇)に報告され知られる所となり、帝はお通を宮中に召して、はからずしもお通に会うことになったそうです、そうした所、唐突にお通は帝に言ったそうです、「すぐに祟りを取り除く儀式をしましょう」と、お通は帝の病は龍蛇の祟の爲であると見抜いたそうです、妾はこの祟りを祓う力がありますと帝に告げ、そこで十二天壇を日御坐(ひのおまし、清涼殿の東廂に畳二枚を敷いた所)に於いて作り、壇毎に水桶を置き、金銀色の幤帛(へいはく)を奉り、香を焚き神饌を供え、お通は衣装を整え壇前に立ちます、符を書き咒(まじない)を誦(とな)え、しばらくの間、桶の中に水が湧くという怪現象も起きました、そして小さな蛇が湧き上がり出て、たがいに咬み殺して死んでいったのです。

 帝の病気は快癒に向かい大いに喜ばれて言ったそうです、神通力を持つとは非凡なことである、顔や容姿もまた非凡である、朕は汝を本当に天女が姿をかえてこの世に現れる事だと知った、よって天皇が自筆にて書いた「白神大明神」と神号、之を賜うことになったそうです。(白神大明神の名前の由来)

 お通はこの後に后に召されて後宮に住むことになりました、容姿のあでやかで美しいさまは後宮第一の美人としてあったそうです。

 遂に帝の恩寵に惠まれ得て、宮中では皆が認めるほどの天人(天上界に住む人間よりすぐれた者)と稱されたそうです、しかしお通本人はお金などに関心が無く、名声や名誉なども興味なく、天皇からの寵愛に於いても深入りしません、はでに歌舞宴樂を行っても好きなそぶりを見せません、人知れず宮中を出て行ったそうです、壁の上に和歌を書き記して云うには、

  住み慣れし大内山を降り捨てて

  身のさが隠す草の菅ごも

 帝はこれをご覧になって言います、「さが」は「嵯峨」とに通ず、嵯峨草菴に隱れしはこれの意味であろう、そう考えて家来達に命じてお通の居を求めました。

 帝の使いは嵯峨の地に条件にぴったり当てはまる、新しき小庵に見える家を疑いました、柴戸をたたき之を訪ねると、ちょうど出てきた年若い下女が家来の質問に応えて云うには、庵主は小野氏です、今家にいませんのでといいます、今日必ず身分の高い人の使いが来るから、来たらこの和歌でお返事するので渡しておくれと聞いていたそうです、下女はそこで和歌一首を使いの者に指し出します、和歌はいいます、

  求めなよ花も紅葉もおのづから

  しとふ心のうちにこそあれ

 即ち使いの者は(帝の元へと)引き返して奏します、帝はお通が人の多く居る所に住むという気持ちが無い事を知りました、そうしてお通は世間から隠れ住みたいという希望を遂げることが出来たのです。

 嵯峨に隠れ住んで三年、神、お通は益々名声を高くし、山をよじ登り溪をわたり鳥が翔び獸が走るが如くあったそうです、お通は近くにある京の名山、愛宕の甚だ最も険しく雲が聳つ坂道に、修行僧の疲勞している様子を憐み、一町(距離の単位)毎に一石を立てました、表に記す山道のおよその距離、凡そ我邦の里法、三十歩(「歩」は長さの単位で一間(百八十センチ)の長さ、歩数の事では無いが一町は六十間(歩)が正しいが、原文は三十歩となっており、漢文を作ったのは有名な儒学者である「山本北山」なので誤字か篆刻ミスと思われる。)を定め町と為す、故に之の町石の謂とす、今猶存しています。(※この町石は現在でも残っている事を私も確認しましたが小野お通が設置したという伝承は今のところ見つけられていません。)

 後にこの地には天皇が訪れるようになり、それに伴って賑わう事になり、お通は近いこともあって今の家が住みにくい所となってしまった思いました、そして嵯峨の地を去り故鄕の津山へと帰ることになりました、帰ってすぐの寬永七年(1630)庚午九月十三日病卒、この時二十九歳だったそうです。

 この日について父母親戚がいうには、我が子のお通が人間界における命数は己に尽きました、今日、永遠に別れることになるにあたり、前から決まっていた事であるから、悲しんだり憂いたりする事はないといいます、我が子は神が人として姿を変えたもので、体は滅する事になりますが、魂は此の地において岸本家の守護神と為しあたるといいます、辞世の歌は、

  いつまでか(も)散らで盛りの花やあらむ

  今はうきよに秋のもみじば

 村の西南に清淨の地を占い壙墳を修め(白神大明神の地)、遺物を蔵す、太上皇はお通の死を聞き、大いに哀れみ、美作の大名の森大内記長繼に勅して、墳上に祠廟を立ち神号は神親書(後水尾天皇直筆の神号書)は岸本氏に於いて存す者で、薬の処方のメモ・抜き書きが数多く有り、神の如しおだやかな生活をお通は尊奉する所の愛染明王を蔵しています、同国「鳥羽山万福寺(岡山県勝田郡勝央町植月北)」の僧は今なお靈験があるといいます。」


 以上が、碑文の伝える小野お通の事跡になります。

 ここからは研究の成果になりますが、『山州名跡誌』には京都府綴喜郡井手町にあった「玉章地蔵」を修理彩色した話が残っています。

 この地は六代目小野小町小野氏野が井堤寺(いでじ)の別当であった橘氏へと嫁ぎ、暮らしていた地である事が研究の成果として分かっています。

 小野お通は先祖の小野小町が活躍していた京の都でその足跡を辿っていた時に井手郷で小野小町の文張り地蔵である、玉章地蔵が穴が開いて壊れている事に遭遇します、天皇妃であった時と考えられ、修理の費用と地蔵堂を建立する費用を出してもらえた事は、天皇とお通の関係から考えると容易な事だったと思います。

 「山城国井堤郷旧地全図」には「小町墓地蔵」の文字があり、そこに「玉章地蔵」があったと考えられ、現代の地図では「玉川寺」のある場所が同じ地に該当する場所だと思います。

 それから碑文が徳川幕府の学者「山本北山」によって書かれている事に注目すると別の事が見えてきます、小野お通の弟が徳川幕府に仕えていた事が分かっています、徳川幕府に仕えるようになった理由にも小野お通が関わっている事は確実だろうと思います。

 しかし同じく幕下にあった真田家にも「小野お通」の伝承がありました、浄瑠璃の発明者や、北政所の右筆としての小野お通、天皇妃として霊験譚を多く残す小野お通、同じ時代に複数の小野お通がいて、その書や絵が有名になっていくにつれ、小野お通の正体をつきとめる動きが徳川幕府内において起こったと考えます。

 その証拠として、津山の岸本家から江戸の岸本家へと移された、小野お通に縁のある天皇家からの下賜された品があった事を「岸本佳一」氏が「後水尾帝と小野お通」の中で書かれています。

※本は『小野お通』土居由乃著で津山の図書館に納められています。

 この事から岸本家からは津山の小野お通の情報と証拠の品を、真田家からは小野お通の手紙と伝承を伝え、詮議した結果最低でも2人の小野お通が居たとする結論になった事を徳川幕府が保証する形で碑文の起草を山本北山にさせたと考えます。

 江戸の岸本家はその後、代官として栃木県真岡市に移り、同地に「岸本神社」を建てています、そして同地へは「岸本武太夫から 8 代の子孫という方から真岡市へ岸本武太夫像が寄贈され」と聞いていますので、像の寄贈者を辿れば小野お通の品が残されている可能性があります。

 また小野お通が直した玉章地蔵はおそらく彩色修理後には小町寺に安置されいる事が伝えられています、そして明治時代の廃仏毀釈により東福寺の塔頭、退耕庵に移されています。

 吉川英治の小説、『宮本武蔵』にも「お通」が登場しますが、吉川英治は津山に小野お通という女性が武蔵と同じ時代にいた事を知らないのに小説へ登場させた事を自身で語っておられます。

 そして小野お通の没後400年、係累の私が小野お通や小野小町の事を研究して世に出すことも一種の霊験譚として良いのかも知れませんね。

 龍海

 インドに居た龍王達が日本に渡来していた事に気づいて数週間(短っ!)、龍王山の調査は途中ながらも、概ねの結果と、傾向は見えてきました、そして「吉備の児島」の解釈から娑伽羅(シャカラ)龍王が日本語では「キビ龍王」と名乗っていた事が分かったと思います。

 私は岡山県倉敷市の児島とは「シャガラ龍王の児(こ)、善女龍王」が継承したから「児島」になったのではないかと仮説を立てていました。

 仮説のキッカケは児島の龍王山には「龍王山・児島竜王山」の2つの名前が伝わっていました、そして山の中腹には「善女龍王」が祀っていたので、龍王シャカラ龍王(善女龍王の父親)、児島竜王善女龍王という事が分かり、シャカラ龍王の児だから「児島」となったのだと思ったのです。

 今、考えてもこの判断は正しい様に思います、しかし今はもう一つ気付ける事があります、善女龍王は「」という一族を立ち上げたのだろうという事です。(たぶん姓を「児」にした。)

 筆頭龍王の児だから、「児一族」にしたなんて冗談の様なネーミングですが、結果としてそうなのだから我々は受け入れる他ないのですが、もうちょっと良いのが無かったの?って言いたくなりますよね。(笑)

 さて児島の地名ですが、伝える文献により微妙に違っています。

古事記   :吉備児島(吉備の児島

日本書紀  :吉備子州(吉備の子の州(くに))

ホツマツタヱ:きびのこ

先代旧事本紀:黄蕨(きび、きはら)児島

 この中で最古の記録は「ホツマツタヱ」です、だから平仮名(表音文字)で記録されていた為に、各部族で漢字が当てられ、後から漢字への解釈が書かれたと解釈出来ます。(各部族も各々の神代文字で記録していたと思いますが、どこの部族の神代文字も平仮名と同じ表音文字50音なのでホツマツタヱと一緒です。)

 そういえば、中国地方をホツマツタヱでも「サホコチタル国」とか「中つ国」という表現はあっても吉備の国とは言いません!

 しかし児島だけは「きびのこ」……

 そして、各々の文献の共通しているのは、「吉備の児(子)」という意味をちゃんと伝承していたようなんですよね。(記録した古代の人は知っていたが、中世には既に間違って解釈していた、つまり「きび」は地名では無い!となりますね。)

 じゃあ、最初期の吉備(きび)は地名じゃなく「シャカラ龍王の名乗り」となると思いませんか?

 桃太郎の話でも「吉備津火車(吉備の火車)」が名乗りの「吉備」(※この時代には既に地名になっていた可能性があります。)をワカタケヒコ(後の吉備津彦)に譲る事で決着していました、つまり吉備という名乗りを継承した龍王がいる事になります。(きび龍王

 吉備が姓なのか、名乗りなのか、私は穀物の「(きび、桃太郎のきび団子)」に由来すると思っていたので、ちょっと想定外でした。

 吉備黄蕨の語源とサンスクリット語の関係を調べても、何も出てきませんでしたので、違うようです。

 はてさてと思っていると、「サトウキビ」の記事に目が行きました、砂糖黍はインドネシア→インドへと拡がり、最初に製糖されたのは古代インドの北だと言われているそうです。(更に調べると紀元前4世紀には砂糖があったそうです、しかも甘味ではなく薬だったそうです。)

 それってネパールの事じゃないの?

 釈迦族のいたネパール(インド北部)、砂糖黍、古代から近世まで「超高級品」だった砂糖(薬)、それの原料である砂糖黍、支配者のシンボルとしては相応しいものの様な気がします。

 キビキビでも「サトウキビ」を名乗りに用いていたなら少しは理解出来ます(沖縄では今でもサトウキビをキビと省略して表現するそうです。というか、古代はキビと言えばサトウキビだったかも知れません。)、穀物としての黍じゃなく、「砂糖(薬)の発見者・発明者」としてキビ(サトウキビor砂糖かも)を名乗ったのかも知れません。

 砂糖の事を調べているとサンスクリット語シャルカラ(Sarkara)という事が書いてあり、これは「ル」を発音しなければ「シャカラ」となります、つまりシャカラ龍王とは日本語でサトウキビと同じ語となり、シャルカラそのものがシャカラ龍王によるネーミングに由来するかも知れません。

 そしてペルシャ語ではシャカルと発音するようです!

 つまり純粋なインド人はシャルカラと呼び、ペルシャ人はシャカルと呼ぶ、語源としてインドの日本人が砂糖(サトウキビ)を周囲にシャカラと教えていた可能性がある事が分かりました。

 私はシャカラ龍王が正しい発音だと思っていますので、キビ(サトウキビ)を龍王たちがシャカラと呼んでいた可能性は高いと思います。

 それならば日本人達はサトウキビの事を「キビ」と呼び、サトウキビの名前が龍王達のインドでの呼称がシャカラ龍王から付いたとするなら、皆が日本語でキビ龍王と呼んでいた可能性は高いと思います。(シャカラ龍王はインド由来の名前なので。)

 まさかの展開ですが、得てして根っこが一つである場合は正解が多いことがこれまでの経験でもありました、私はサトウキビもシャカラ(龍王)も日本語で同じ「キビ」だったとしたいと思います。♥

 一晩寝てスッキリすると、情報が整理出来ました、薬の開発日本人の発明とも言うべきものであることはメソポタミアの頃から分かっています。

 月王家の釈迦族キビを精製して「砂糖(薬)」を開発し、周りに居たインド人はそれをシャカラ龍王が作り始めたものとして、「シャカラ」と呼び、訛って「シャルカラ」とか「シャカル」と呼んだとする方が適切だと思います。

 つまり最初は釈迦族阿羅漢(あらはん)としてシャカラ(娑伽羅)龍王(これもあだ名のようなもの)だったものが、ちょうどお釈迦様の頃に砂糖が開発され、シャカラ龍王と同じ名がつき、日本人達はキビと呼んでいたのでシャカラキビとなり、日本では日本語でキビ龍王と名乗っていた為、「きびのこ」と記録されたが正解だと思います。(シャカラ龍王と名乗っていたが、シャカラ=キビと分かりキビ龍王となった可能性も可能性がゼロではないですね。)

 実際に吉備の国と呼ばれ始めたのがいつなのかは私も知りませんが、最初にキビを名乗ったのは上記の考察から娑伽羅(シャカラ)龍王として良さそうです、しかし娑伽羅龍王とはインドに伝わる名前ですから日本語ではありません。

 しかし日本語の名前を伝えるものがありませんので(キビ龍王は仮説)、娑伽羅(シャカラ)龍王と伝えるしかないのですが、その娑伽羅龍王が日本に来ていると気付き、何処に土着したのかと龍宮神社や龍王神社などを調べても顕著な傾向は見えませんでした、そしていわば直感的に求めたのが「龍王山」の地名でした。(岡山県には多くの龍王山があり、私も聞き覚えがあったので引っかかった訳です。)

 小野氏の祖先は「瀬織津姫」になりますが、瀬織津姫は「龍神」として有名なので、最初から龍とは縁がありました。(でも、何故龍神なのか理由まではわかりませんでしたが...)

 そして瀬織津姫の父親である、大山祇サクラウチを調べると月夜見(つきよみ)に繋がり、月夜見とは何ぞやと調べるとルーツはメソポタミアの大王の末裔である「天御中主神(ノア、伏義、ウトナピシュティム)」が紋章を「日輪に十六光線月輪に五三の雲」に定めた(天神を太陽王家と月王家に分けた事に由来すると考えます。

 スーパー縄文人たちはメソポタミア時代に既に「天,地」の陰陽思想を拡張子、「天,空,地」+「太陽,月」の組み合わせで人間をグループ分けしていました、それが太陽神ウトゥや大地の神エンキ、空神エンリルなどです。

 地神に属するものは「蛇,牡牛,亀,魚」などのシンボルを持ち、天神に属する者達は「北極星,金星,太陽,月,北斗七星」などをシンボルとし、空神に属する者達は「雲,鳥(鷹・鷲など),龍,キマイラ」となり、龍やキマイラなどの霊獣は「空を飛ぶ蛇やライオン」の概念に由来するものだと思います。

 そして月王家の日本での称号が「ツキヨミ(語源はたぶん、黄泉(ヨミ)[冥界])」だった。※太陽王家は「アマテルアマテラス)」です。)ことに繋がるのだと確信しています。

 そして月王家に属していそうで有名なものとして、「月をシンボル」にしていた事に名前が由来する大月氏族(カザフスタンのあたりが活動域)が浮かび上がり、これが日本人だと仮定すると、インドネパールなどは日と月の両方をシンボルとしている事に気付き、世界の国旗を調べると、太陽と月に分けた、その影響がどこに及んでいるか確認出来ました。

 日本の神道が「八大龍王」とか「〇〇権現」などの仏教系の神様を祀っている事から、神道とは初期仏教を含んでいると確信し、初期仏教をもたらしたのが釈迦族龍王達と分かった時に「龍王山」へと結びついた訳です。

釈迦族とはカザフスタンにいたサカ族と同じグループと思われますが、サカ族よりもドラヴィダ人寄りの血筋だと思われます。

 その過程から釈迦族龍王シャカラ龍王で、その子供「善女龍王」が児島を継承した様子から、児島シャカラ龍王の支配地だったと知りました。

 そして、倉敷市児島の伝承の中では「吉備子州吉備の子の州(くに)」が最も分かりやすい表現だと思います、児島とは吉備シャカラ龍王善女龍王という関係性である事が確認出来ました。

 そしてキビとはシャカラ龍王の日本語での名乗りであり、吉備という漢字も当て字で間違いないと思います(理由としてキビ(サトウキビ)の漢字が存在していなかったからと、キビの存在が日本では知られていなかったからでは?)、なので正確にはシャカラ龍王の名乗りは「きび」で、砂糖黍を「きび」と今でも呼び習わしている事や、砂糖(当時は薬)の精製が紀元前4世紀(ちょうどお釈迦様のころ)には始まっていた事や、医療や薬の製造が日本人から始まった事、そして砂糖の精製が行われたのは古代インドの北の方という事からネパールである事が強く疑われる事から砂糖の精製を行ったのがシャカラ龍王の可能性が高い事が分かりました。

 そして砂糖黍と砂糖はサンスクリット語で「シャルカラ」、ペルシャ語で「シャカル」と伝えられている事から、シャカラ龍王が砂糖を精製したので為に外部の人達から「シャカラ砂糖・砂糖黍」という意味になった事が推測出来ました。(他にも、熊一族が米を日本へと招来した為に古代語で米を「」と書く事例もあります。(語源からの推測です。)古代日本における発明者・発見者の名前で呼ばれる事例の2つ目ですね。)

 そして、シャカラ龍王は日本人なので、日本では砂糖黍の日本名「きび」と名乗り、きび龍王という名乗りが先の「きびの子の国」という伝承となったと推測されます。

 つまり吉備の国を構成していた人達とは龍王の子孫達であるとして間違い無いと考えます。(主に八大龍王の子孫

 その中でヤマト王権に反抗的な「吉備津火車」がワカタケヒコとの戦いに負け、名乗りの「吉備」を譲渡した為、吉備津彦吉備の国の支配者になった話が「桃太郎」のお話となって伝承されている事は周知の通りです。

 出雲は主に太伯系吉備は主に龍王系、そして両者と猿田族才ノ神が加わり一大連合軍は支配領域の海域に由来して「綿津見{たつみ、海(わた)統(つ)み}」と呼ばれ、結果的には出雲王朝を築く事になった訳です。

 日本という国は、龍王系太伯系徐市系クナト王系(才ノ神+猿田族)+熊一族、大きくはこの5グループの勢力争いで日本の歴史を作ってきた様に思えます。

 龍海