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出典:『クシェーメーンドラの作品中の仏伝の研究』

著者:岩井昌悟

 この「釈迦族の起源」は真実を語り、他の情報と併せて龍海にはハッキリと元になった王族を理解出来る情報源になっています、釈迦族を研究する人には有益な情報となると思います。

注意:発音記号は再現出来ないものもあったので、参考程度にして下さい。

「(27)釈迦族の起源

 ある一つの、長大で、繁栄する家系が、立居振舞が優美なる(美しい円形の)、功徳を積むことを好む(糸で連ねられるに相応しい)、清浄な光線でまばゆい光を示す、健康な(真珠からなる)、世の飾りである宝石[である人]を生む。(1)

 かつて、カピラヴァストウで、ニャグローダ樹園に安住していた世尊・如来に、釈迦族の者たちが、自身の家系について尋ねた。(2)

 彼らに尋ねられた彼(世尊)は、清らかな知見を目連に擾けてから、彼に、自身の家系の起源を最初に語ることを委任した。(3))

 彼(目連)は、智眼によって過去をありのままに見て、想起して、被らに言った。「釈加族の起源をお聞きなさい。(4)

 この全世界が、かつて、水からなり、一つの大海であった時に、風との接独によって、水(payas)が乳(payas)のようになった。(5)

 その水が、濃厚性によって、徐々に凝固した時に、色・味・触・声・香からなる大地と

なった。(6)

 そこに、業の尽きたことによって、光音天から落ちた 、そのままの容貎をそなえた、精神と体力において勝れた衆生たち(sattväh)が、[大地の]味を指で味わい、それに対する渇愛によって甚だ惑わされ、食物の害より、[体が]車くなり、[肌が]乾き荒れて色褪せてしまった。(7-8)

 大地が、順次、彼らに食物(anna)を産出した。そして、迷闇によって荒廃した彼らは、十地と家を所有した。(9)

 彼らの指導者は、人地の守護(kşitipälana)において、損害から護ること(kşatitrā-ņa)から、クシャトリヤ(kşatriya)であり、多くの人々によって尊ばれ(janasyamahato matah)、「マハーサンマタ(Mahāsammata)という名であった。(10)

 彼の偉人なる子孫に、栄えあるウポーシャダ王があって、花のような名声は萎れることなく、まるで大洋にあるサンゴのようであった。(11)

彼の子は、胎生ならざる、転輪聖王・マーンダートリで、世に唯一の王である彼の家系は偉人であった。(12)

 千の家系をもつ彼の家系にクリキ王があって、世尊・カーシュヤパが、彼(クリキ)の心を清らかにした。(13)

 彼の子孫にイクシュヴァーク[王]、そして、その[子孫に]ヴィルーダカ[王]があった。彼は、一番下の子に対する愛情から、上の子たちを追放した。(14)

 それから、全員が一緒になって、自国に対する切望をなくした王子たちは、大仙・カピラの住処に行った。(15)

 彼らが、子供であるが故に、声高にしゃべって瞑想時の障礙になるので、彼(カピラ仙)は、他所に、カピラヴァストウという名の、彼らの都を化作した。(16)

 時を経て、[ヴィルーダカ]王は息子[たち]に対する愛情から、悔やんで、大臣たちに「彼ら王子たちを引き戻してくれ」と言った。(17)

 大臣たちは皆、彼(王)に言った。「王よ、彼らは、最上の都を獲得し、子孫を有して非常に繁栄しております。引き戻すことはできません」(18)

 このように、彼らの父親が[息子たちを引き戻すことの]できる(sakya)、できない(asakya)を考察した時に、彼らは「シャーキヤ」という名になった。彼ら(ヴィルーダカの息子ら)の内ヌリプラが子孫を残した。(19)

 彼(ヌリプラ)の家系において、五万五千人の王が過ぎ去った時に、栄えあるダシャラタ王があった。(20)

 彼の子孫にシンハハヌ王があって、戦においては、象のような諸王が、獅子のような彼に太刀打ち出来なかった。(21)

 彼の長男がシュッドーダナで、次男がシュクローダナ、その下がドローノーダナ、末子がアムリトーダナ。

 四人の娘は、シュッダーという名の[娘]とシュクラーとドローナーとアムリター。

シュッドーダナの息子が、世尊と次男のナンダ。(23)

 シュクローダナの二人の息子が、ティシュヤという子と、それからバドリカ。また、ドローノーダナの二人の息子が、アニルッダとマハット。(25)

 アーナンダとデーヴァダッタという二人がアムリトーダナから生まれた、シュッダーの子がスプラブッダ、そしてシュクラーの子がマーリカ。(25)

 そして、ドローナーの子がバドラーニ、また、アムリターの子がヴァイシャールヤ。 世尊の子息がラーフラである。彼(ラーフラ)で家系は完結した。(26)

 以上のように、智慧に満ちた彼(目連)によって、輝かしい家系が正しく語られるのを聞いて、釈迦族の者たちは、世尊の威神力によって生じた卓越により、清らかになった。(27)

 以上でクシェーメーンドラ作、ボーディサットヴァ・アヴァダーナ・カルパラターの第27章「釈迦族の起源」を終わる。」

出典:國學院大學学術情報リポジトリ「K-RAIN」

   中央アジア神話と日本神話

作成者:作成者: ヴィツェル, マイケル, 松村, 一男

  『中央アジア神話と日本神話


龍海:トルコのギョベクリテペ遺跡にも関わっている牡牛神の末裔がメソポタミアを開いた9500年前の事を綴った内容と考えられる、この牡牛神が牛頭天王の原点であり、頭に角を生やした兜を被った者達の原点だと思われます。

・素戔嗚尊(牛頭天王)

・ツヌガアラシト(角がある人)

・バイキング


2.原初の牡牛

『リグ・ヴェーダ』(3.38)にもイランの『アヴェスタ』にも原初牡牛が見られるが、日

本にはない。しかし以下の議論で重要となるので、推定される再建形を記しておく。

 原初、二人の男と一頭の牡牛がいた。彼らはマヌとイェモスという双子であった。

マヌは最初の神官で、イェモスは最初の王だった。マヌはイェモスを犠牲として、体

を解体し、それぞれの部分から世界を創造した。ついでマヌは牡牛を犠牲とし、解体

して、それぞれの部分から食用となる植物と家畜を創造した。最初の死者となったイェ

モスは死者の王となり、彼に続く者たちのための王国を開いた。

この要素の日本神話との関係は不確実である。また、京都の北野天満宮に見られるスサ

ノヲと牡牛のつながりが関係するのかも不確実である。」

 竹内文書は記述スタイルが他の古文献と違うことが多く、また信じられないような不思議な事も書かれていますので、理解できない研究者から「偽書」(※古史古伝とも)の烙印を押されていた事は多くの人が知っていると思います。

 しかし本を書けるほどの研究者の目線で見れば、この様な偽書を作る方がマトモな本を書くよりもシンドイのです、あらゆる時代のあらゆる地域の伝承や神話を調べ上げなければ書けない内容なので、現代人でも不可能に思える内容なのです。

 私も偽書では無いとは早々に気づきましたが、でも最初は理解する事は不可能でした、だから他の古文献を研究し、古代の人の繋がりを特定し、そのような世界観であったかを理解して初めて理解出来るようになったのです。

 幸いにも上古第23代に数えられる「天忍穂耳尊」はホツマツタヱに即位年が書いて有ります、このホツマツタヱの年号解読をしなければ正確なものは分かりませんが、私は女王卑弥呼の証明時に年号解読を済ませていましたので「AD47年」と容易に導き出す事が出来ます。(※添付するホツマツタヱ年表を参照のこと)

 竹内文書を天皇家の「万世一系」という思い込みのまま素直に読むと、直列に読む事になりますので、これを16年/代で逆算した時には「天皇の皇位継承を直列として考えた場合」の通りの結果になります。

 積み上がった時間は上古第一代紀元前6609年と凡そ信じられない結果です、天神第七代~上古第三代までに書かれている内容は中国の大王である、伏羲女媧神農黄帝に比定できる内容ですので、中国五千年の歴史という通りで3600年ほど誤差があり、直列にカウントする事は間違いだとスグに知る事が出来ます。

 神皇記を読むと日本の高皇産霊神は中国から来た徐市(じょふつ、=徐福)本人でその息子が国常立尊国狭槌尊と書いていますので日本の天皇家の祖となっている事は容易に想像が出来ます。

 徐一族とは本姓を「嬴(えい)」とする始皇帝と同じ姓の一族で、黄帝の系譜である事が分かっていますのでもともと日本人だと分かります、そして始皇帝の威を借りて日本の天皇を簒奪した可能性は最初から考えていましたが、今回の解読から天皇の地位は高皇産霊天皇へと譲位しましたが同時にイサナ支配者)という意味のイザナギイザナミという立場を作って上皇の様な立場へと変化した様子も分かりました。

 徐市系の4王家(高皇産霊・神皇産霊・天之常立・国之常立)は何れも神武天皇の時に統一され王家を閉じたと仮説をたてます、そしてホツマツタヱの年号解読から神武天皇の即位年がAD119年と分かりますので、誤差を考えてAD120年とし320年で20代の天皇が居たことから16年/代という天皇の在位年数の平均値を求めました。

 また神皇産霊天皇の代に大食作(おげつ)が徳島県の京柱山に仙洞し国内の統治が始まった事が書かれています、大宜都比売命(大月姫)の先祖に当たると思われる女性ですが、その後に天皇になったのが宇摩志阿斯訶備比古遅天皇になります。

 宇摩志阿斯訶備比古遅尊はスグに亡くなり在位期間が短かった天皇と伝わりますので、これも太陽王家の天皇位の簒奪に怒った月皇后家の女王による皇位の簒奪と思われます。

 月皇后家は母系氏族なので女王が立つ度に分家しますが、その様子が階段状の代数として現れていますので、この事からも高皇産霊天皇からは天皇家の並立状態だった事が分かります、よって紀元前200年からは天皇家が並立状態で存在したものと考えました。

 この結果を逆算して上古第一代を求めると紀元前3512年となりますが、ギルガメッシュの考古学的な年数では4700年前が定説とされ、神農と思われる上古第一代812年も差異があり整合性がとれません。

 次に注目すべきは上古第三代が中国の黄帝に比定できる点です、上古第一代にも「黄皇主孫守護」と書かれ、黄帝であるような書き方が残ります、そして中国では黄帝神農の息子と伝承されていますので、一人は誰か分かりませんが上古第一代~上古第三代親・子・孫と判断できますので王家の並立状態と考えました。

 その結果は図の通りで上古第一代はBC2680年となり見事にギルガメッシュの存在した年数とのわずか20年の誤差となった訳です。

 ギルガメッシュ叙事詩を分析してもギルガメッシュの父親はウトナピシュティムと書いており、東の果てに居た事が書かれ、ギルガメッシュは会いに行った事が書かれています、そのウトナピシュティムノアだとするのも定説になっているようです。

 中国の猫族神農の末裔と伝承していますが、同時にノアの息子の「ヤペテ」の末裔でもあると伝承しています、その事から竹内文書の考察をする前から「ノア=伏羲」とする結論で出ていましたので、今回の竹内文書の考察からの導きでは無いことを示しておこうと思います。

 今回示した王朝並立図は結果がありきで作られたものではなく、色々な文献を元にした知識や考察結果を利用した結果、妥当な結果が生まれたと考えるべきものになります。

 この結果が示すものは『竹内文書』に書いている事は信用出来るという恐ろしい事実です、書かれている内容は世界史の概念をひっくり返すものになっています、エジプトのファラオの中に日本人の王がいたり、イエス・キリストお釈迦様が日本人である事など、全世界の常識が壊れるのです。

 しかし古代史に真摯に向き合った結果ですので研究者としては受け入れる以外の選択肢はありません、多くの人が真実を知り、その上で世界とどう向き合っていくのか考えて欲しいと思います。

 龍海

 私の歴史考察では度々出てくる「熊一族」について書こうと思います。

 前にブログの方で「磐一族」や「星一族」とルーツを同じくするのでは無いかと考察をしましたが、このたび具体的な熊一族が興った時の伝承を見つけましたのでご紹介しようと思います。

『熊一族と岩一族と星一族について総括する』

  熊一族と言われても具体的な人物を上げないとイメージ出来ないと思います、一番有名なのは「素戔嗚尊」でしょう、ですが素戔嗚尊とは複数の人間が名乗った称号ですので、個人的には祖佐之男命アヌシャカ(祖佐男命)、須波佛陀(素戔嗚尊)、須佐之男祖佐之男(※祖佐之男について私の記述では祖佐男命と書いてきましたが、太加王が今後頻繁に登場して来る事が予想される事もあり、整理するため表現を変えますね。)の五人がいる事を確認しています。

 この5人は文献上から直接的に理解できるような素直な書き方はありません、古文献を複合的に考察し、個人の別を分離して初めて見えてきた5人になります。

 最初に熊一族のルーツから書いていきましょう、それは金達寿著の『日本の中の朝鮮文化3』の58ページにそれは書いてありました。

 「朝鮮建国神話から

 天帝(神)の子桓雄(ハンウン)は父のゆるした天符印、すなわち風師、雨師、雲師の三職能神をあたえられ、三千の部下を率いて太白山に天降った。すると、そこにいたと虎とが人間になることを望んだので、これにヨモギとニンニクとをあたえ、百日のあいだ日光をさけて穴居するように命じた。だが、虎はその命にそむいたので人間となることができず、熊のみ願いかなって人間の女性に生まれかわった。そこで桓雄はこの女性(熊)をめとっ

て、壇君を生んだ。壇君は王位をついで都を平壌にさだめ、その国を「朝鮮」と号した。

 これが壇君神話のかんたんなあらすじで、その都の平壌はのち高句麗が都としたところでもあった。以後、かどうかは知らないけれども、朝鮮語コム(熊)はあの動物の熊をさすと同時に、「聖なる」という意味をもつことにもなったのである。インコム(人熊)というときはそれが「王」ということになり、コン(公)ということもこれからきたものだったと思われる。

 それだったから、古代の日本では高句麗のことをコマ(高麗)といい、あるばあいは当時の百済、新羅など朝鮮全体をさしてコマともいったが、それもこのコム(熊)からきたものではなかったかと思う。それ以外、朝鮮をさしてなぜコマといったか、理由がわからない。神社にあるコマ(狛)犬もおなじである。」とあります。

 上記は『朝鮮建国神話』として伝わるもので、日本人はほとんど知らない話だと思います、私も朝鮮の民話は少し調べていますが、載っていなかったものです。

 よく歴史解釈において日本のルーツは朝鮮だというのも、この建国神話に由来するのだと思います、日本人としてはこの熊の末裔が素戔嗚尊だと聞かされると、朝鮮側がそう言うことにも理解できると思います。(※檀君も日本人だと分かる話が後で登場します。)

 ですが真実はもう少し複雑なので、皆さんの常識を壊していきたいと思います。(笑)

 『神世の万国史(竹内文書)』という本を今、分析・解読中ですが、この本の天神第七代に書かれている神様(人間の天皇)は中国の伝承にある「伏羲と女媧」で間違い無いと考えます。

 二人は兄妹である事が竹内文書に書かれていますので、「夫婦」であるという伝承は否定されます、私はこれまで天御中主神から太陽王家月皇后家に分かれたと解釈してきました(※神皇記に由来する解釈)が間違いだったようです。

 竹内文書には明らかに天神第七代の二人から「太陽」になっている事が書いてありましたので、太陽王家とは「天御光太陽貴王大光日大神」を始祖とする王家で、月皇后家とは「天御光太陰貴王女大神(月神身光神)」を始祖とする王家の事だと言えます。

 そして、この二人から出た皇子皇女が婚姻した最初の大王が上古第一代の天皇です、この男王は中国では「神農」と伝わるため有名です、この神農の子孫である苗(ミャオ)族の伝説では「ヤペテ」の子孫だとも伝わりますので、「神農ヤペテ」と解釈できます。

 ヤペテとはユダヤ名で父親は大洪水を生き残った「ノア」になります、という事は「ノア=天御光太陽貴王大光日大神」となり、中国に伝わる洪水伝説の元になった人物であると理解出来ます、そして世界各地にも伝わる洪水伝説もノアの子孫が拡がって伝えたと理解出来るのです。

 問題としてはノアが日本人だと自分では考えていた点にあるでしょう、東の果てから世界を支配していた大王本人が日本人である事を意識していますので、世界の頂点に立っていたのは日本人なのです。

 なぜ熊一族の事を書いているのにノアの伝説になったのか? 当然ながら重要な関係性があるのです、まずは以前の解釈から作った系図情報を見て貰いましょう。(『日本人の系譜』を参照のこと)

 朝鮮の建国神話では「壇君」でしたが、日本では「檀君」と伝える人物がいます、それが「太加王」です。

 朝鮮の建国神話と同じ事を伝える具体的な人物が文献上に存在しているのです。

 その文献は『支那震旦国皇代暦記』と呼ばれ、中国から来た徐福が伝えたとされる文献になります。

 この文献に書かれている内容は竹内文書と違う部分があるのですが、サスガに5000千年前の情報が正確に伝わる方が異常だとも言えますので、古代からの伝承としては類を見ない内容になっています。

 この中の神農の次男、朝天氏の孫として登場するのが「太加王」です。

出典:『支那震旦国皇代暦記』

神農氏の二男、東洲の国王、朝天氏の孫、新羅王の四男、太加王は一族郎党八千余人を引きつれて、祖先の国、蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国に向かい,ここを征服し、祖国の大王となり、全世界を従え全世界の大王と成ろうと、目市木を日本国に渡り国王の大日留女尊を計略を以って妻にし、諸国を従え大王になることを計画しましたが、一族郎党は皆殺しになったため、国王大日留女尊に従い、義兄弟の契りを結び、大日留女尊を姉君と敬い、国王より太加王を改めて祖佐之男命という諱名を賜り、祖国蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国の守護神になったと、言い伝えられております。

 支那震旦国皇代暦記では「祖佐之男命」となった事が書かれています、これは紀元前2世紀にもよく似た話が伝わっていて、最初は一つの伝承が2つの時代に分かれて伝わったものかと思いましたが、今回、竹内文書のBC2Cより前の天皇の項に「檀君国」の存在を確認しましたので、上記の伝承もやはり真実だったと言えると思います。(これまでは半信半疑だった....)

 この初代の祖佐之男命の母親が「」という部族名を作ったのですから、歴代の素戔嗚尊熊一族というのも納得ができますよね!

 私の研究から釈迦族の「アヌシャカ」は神皇記には「多加王」として登場し、アマテラス女王の妨害をした為に、連れてきた一族郎党を全滅させられ出雲に封じられた話が伝わります、支那震旦国皇代暦記と酷似する内容ですが時代としては2000年以上離れているのです、そして多加王は後に「祖佐男命」という名前を賜る事も同じです。

 この時にアマテラスは岩戸隠れをしたので、岩戸隠れとは私の研究から「亡くなって後にご神体を山とし、岩戸を立て祭祀する」という意味だと分かっていますので、その謎も今解いている最中です。

 再び現れたアマテラスとは大宜都比売命の事で夫は須佐之男、出雲口伝で知られる富家に伝わる祭祀の方法が龍王族のものとは違い、かつ山の名前が「熊野山」でしたので須佐之男とは熊一族だと認識していました。

 そして大宜都比売命の姓は「」である事がキレイに残っている人物です、だから「熊野」とは熊一族野の女王が婚姻により強力な連立政権を築いた証であり、その時に「星野」なども誕生したと考えられるのです。

 この事から「」とは檀君国を建国した初代の祖佐之男命の名跡を継ぐ者であり、現代人から見て動物の名を冠する原始的な一族という意味では無く、朝鮮に伝わる通り、5千年近い歴史を誇る「聖なる名乗り」だったと考える事が出来るのです。

 だから出雲王朝の初代の大己貴命である「祖佐之男八島士奴美)」と二代目の「須佐之男兄八島士奴美)」の子孫たちは「スサノオ」を名乗っていた可能性が高いのです、同時に彼らは祖佐之男命(太加王)の名跡を継ぐ大王でもあるのです。

 後の熊襲蝦夷もこの熊一族を主力とする反乱だと言えると思いますが、それは宇賀神である高皇産霊尊の系譜が男王を継いだ事への反発だと思います。(※別の表現としては女王家をないがしろにした為だと思います。そして女王家の方が強かった!)

 日本の歴史を作ってきた「熊一族」は女王家と共に発展してきた一族だという事が出来ると思います。(※月皇后家の男王

 あっ! 書き忘れていましたが、須佐之男とは「月弓尊」でもあり、月読尊に習合されている人物の一人です、父親は須波佛陀でこの人物が初代の「月夜見」と思われます、「白人根命」でもあり不合朝の「禍斬剣彦天皇」でもありますので、エジプト王朝の大王でもあり、徳島県剣山ユダヤ遺跡とされる磐境神明神社(白人神社)は須波佛陀に由来して名付けられた山であり神社だと思います。

 この名称からも分かる通り、熊一族というのは月皇后家男王宰相)でもあったのです、ナンデ熊一族は忘れられているのかが不思議だと思いませんか?

 龍海

 今回、「」の付く名乗りとは「エジプト・イスラエル」に由来するものではないかと仮定して調査を行いましたが、結論としてはエジプトにおける「禍教」に関係のある名乗りだとする事にしました。


 エジプトには先行研究から「首切り」がある事を知りました。


1.罪人及び敵への処罰による首斬(くびきり)

2.神へのイケニエとしての首斬

3.葬送儀礼としての首斬


 今回の調査で多く出てくる表現は「禍斬」でした。

 これを象形文字の意味から捉えると一目瞭然です。


(象形文字から取った漢字の意味)

」・・・神に捧げる台の上に人間の骨を供える

」・・・車で轢き斧で切る軽蔑の名前


 象形文字の意味をとると漢字の元の意味を知る事ができます、紀元前の人物名に使われる漢字の意味を象形文字から知るという手法は私の提唱するものですが、ひとえに象形文字を生んだ種族が日本人であるからです、言語の違う異民族とのコミュニケーションを行うにあたり生み出されたものが「象形文字」だった事は明らかだろうと思います、現代のピクトグラムも日本人が生み出したとされますが、同じ事を数千年前から生み出していたのも日本人なのです。

 これらの考察から「禍斬」とは罪人を処罰し、神へのイケニエとして捧げていた人物が名乗るものだった事が推測されます。

 日本における「」は禍津亘理命が最後で、神武東征に登場しますのでAD120年頃までは日本でもイケニエを捧げる禍教を信仰する勢力があった事が知れます。

 禍教とは『神代秘史資料集成 天之巻』に記録される日本由来の三大宗教として登場し他には「佛教八十教(耶蘇教、キリスト教)」が登場します。

「仏教ヤソ教アヂチノ禍教ナリ必ズ我國萬國ノ棟梁大御國ナリ棟梁天皇ナリ必ズアジチノ佛教(ホトケノヲシヘ)ヤソノ教ノ禍ルトコロ受ケズ我神ノ道ヲ許コト棟梁ノ天皇又御國ノ為ナリ我子孫必ズ今後遺言ヲ堅ク守天皇國ノ為ニ守護  紀竹内平群眞鳥」

 この記述から日本人は「禍教」と認識していた事が分かります、よってエジプトに発信地とする日本由来の禍教に準じた名乗りであると解釈する方が適当だと考えます。

 この事は紀元前後頃の日本人の宗教観には3つの大きな派閥があり、国教の在り方も争点の一つとなっていた事が分かる重要なものです、日本の神道とは1万年近い聖王がそれぞれに生み出した「教え」が発展して宗教となり、紀元前に於いても大きく3つの勢力に分かれ争っていたと考えるべきだと思います。

 以下には調査の結果を並べますので、必要な方は参考にしていただければと思います。

 龍海

*****『神代の万国史』第2版*****

『神代の万国史』「天神第七代ノ一」

○天八雷禍斬主の尊

○天禍斬矛剣四はり剣創造知命

『神代の万国史』「天神第七代ノ二」

○天日禍斬祓津彦尊

『神代の万国史』「上古第二代」

○日竹内神幸禍虫猛(けもの)斬尊

○天日梅神幸禍祓尊

『神代の万国史』「上古第四代」

○禍黒人(まがくろびと)

(天雷禍窓即滅主尊)記述無し

○皇子官軍大将天雷禍窓師滅主尊

○日竹内神幸禍虫猛斬尊

○天八雷禍斬主尊

○梅神幸禍尊

○天日禍斬祓津彦尊

『神代の万国史』「上古第七代」

○天日禍斬法主尊

『神代の万国史』「上古第十二代」

○天日大禍斬道開尊

『神代の万国史』「上古第十四代」

○禍鬼人

『神代の万国史』「上古第十六代」

○大禍斬法主尊

○禍神

○八十万禍斬祓尊

『神代の万国史』「上古第十九代」

○火ノ禍功彦命

『神代の万国史』「上古第二十一代」

○大禍津日命

『神代の万国史』「不合朝第十代」

○禍斬剣彦尊

『神代の万国史』「不合朝第十一代」

○禍斬剣彦天皇

(朝日禍斬太神宮)記述無し

『神代の万国史』「神倭朝」

※第二十三代~第二十五代が抜けている

*****『神代秘史資料集成 天之巻』*****

『神代秘史資料集成』「天神第七代」

○天八雷禍斬主尊

(天禍斬矛剣四はり剣創造知命)記述無し

○天日禍斬祓津彦尊

『神代秘史資料集成』「神皇第二代」

○日竹内神幸禍虫猛斬尊

○天日梅神幸禍祓尊

『神代秘史資料集成』「神皇第二代」

○禍黒人

○天雷禍窓即滅主尊

○皇子官軍大将天雷禍窓師滅主尊

○日竹内神幸禍虫猛斬尊

○天八雷禍斬主尊

○梅神幸禍祓尊

○天日禍斬祓津彦尊

『神代秘史資料集成』「神皇第七代」

○天日禍斬法主尊

『神代秘史資料集成』「神皇第十二代」

○天日大禍斬道開尊

『神代秘史資料集成』「神皇第十四代」

○禍鬼人

『神代秘史資料集成』「神皇第十六代」

○大禍斬法主尊

○禍神

○八十萬禍斬祓尊

『神代秘史資料集成』「神皇第十九代」

○火ノ禍切彦命

『神代秘史資料集成』「神皇第二十一代」

(大禍津日命)記述無し

『神代秘史資料集成』「鵜草第十代」

○禍斬剣彦尊

『神代秘史資料集成』「鵜草第十一代」

○禍斬剣彦天皇

○朝日禍斬太神宮

『神代秘史資料集成』「神倭二十四代」

「仏教ヤソ教アヂチノ禍教ナリ必ズ我國萬國ノ棟梁大御國ナリ棟梁天皇ナリ必ズアジチノ佛教(ホトケノヲシヘ)ヤソノ教ノ禍ルトコロ受ケズ我神ノ道ヲ許コト棟梁ノ天皇又御國ノ為ナリ我子孫必ズ今後遺言ヲ堅ク守天皇國ノ為ニ守護  紀竹内平群眞鳥」

*****『神皇記』*****

『神皇記』

○禍津亘理命

*****『九鬼文書の研究』*****

『九鬼文書の研究』

○大禍津日命+(別名)八十枉津日命

      +(別名)大屋比咩命

      +(別名)瀬織津比咩命

 従来の歴史的解釈では小野妹子が最初にあり、小野毛人小野毛野と続くとなり、近江の小野神社に由来して和邇氏の支流として認識されて来ましたが、それは中世より前の研究がほとんど行われてこなかった為に解釈を間違えていて、小野一族とは和邇氏よりも前から存在している事は明白な証拠が残っていました。

 私、小野龍海はご先祖の小野吉子(五代目の小野小町)の実在性を証明すべく歴史研究を始め、小野小町の謎を解く過程に於いて小野一族への理解が必須だった事もあり、研究テーマを「ご先祖の実在性を証明する」と変更し、主に直系のご先祖を調査研究する事にいたしました。

 以下はその結果を要約し一般の皆様にも理解していただける表現にしたものです、個々の歴史的証明の過程は「小野龍海のAmebaブログ」や「小野龍海’s歴史塾(HP)」で確認していただければと思います。

 まずは「小野」という名前の由来ですが、三人いると思われるアマテラスの三人目、一般的には「瀬織津姫」の名前で知られる「撞賢木厳之御魂天疎向津姫(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」の姓が「小野」であった為に、瀬織津姫の支配する領域が「小野」と呼ばれ地名へと変化し現代まで残る事になったようです。

 最古の小野は徳島県名西郡神山町神領本小野で祖母の倉稲魂(イザナミ・龍姫さま・豊受姫・豊受大神)、祖父の神漏岐、母の大宜都比売命(アマテラス・竜王姫・草野姫・野神)の共同支配する「鬼籠野(=小路野,おろの)」の中で分家したのが始まりのようです。

 撞賢木厳之御魂天疎向津姫という名乗りは本来の意味が隠されており、「賢木(=倉稲魂と大宜都比売命)・伊都(=須佐之男)の御魂天疎向津姫」と読み、意味は「月皇后家の女王の倉稲魂・大宜都比売命・須佐之男(父親)の魂を受け継ぐ」という意味で最強の女王としてあった女性になります。

 月皇后家とは4200年前頃の話です、日本の天御中主神は全世界を支配した大王として天神を2つの王家に分け「太陽王家月皇后家」に分け、お互いに伴侶を出し合う天神の王家として定めました、太陽王家の紋は「日輪に十六光線」とし、月皇后家は「月輪に五三の雲」に定めました、出雲の枕詞「八雲」は月皇后家の紋に由来しています。

 天御中主神が世界を支配したという表現は大げさなものではなく、旧約聖書に残るユダヤ名「ノア」は天御中主神の別名であり、分かっている範囲でも全大陸に行っている様子が残っており、旧約聖書やキリスト教、九鬼文書や竹内文書に残る「五色人」という概念は日本人が科学や宗教(神と共にある暮らしの教え)を世界にある為政者に説いていた為で領域を支配する「」の上に立つ「聖王」としてあったと伝えます。

 紀元前3世紀の終わりに中国にあった「徐市(じょふつ)」は同族の「始皇帝」が中国全土を統一したので、その威を借りて日本の大王になりました、それが高皇産霊神と呼ばれる存在です、その後息子の高皇産霊尊神皇産霊尊が天皇として皇位を継承しますが、その前の皇位継承者が「釈迦族」だったと考えられます。

 釈迦族の血統を正統に受け継ぎ、かつ月皇后家の女王大月氏を率いる女王でもあった「大月作(おけつ)(大月姫)」が日本へと帰り国の統治が始まり、そこから興った日本の女王家の足跡が宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこじ)天皇の王家になります。

 国内は権力の綱引きが行われていたようですが、これに終止符を打ったのがイザナギイザナミアマテラスアマテル天疎日向津姫という三代続けた女王の存在です、イザナギもイザナミもアマテラスも称号であるため名乗った個人は複数人がいるものの、個人名としては「倉稲魂(イザナミ)→大宜都比売命(大月姫・アマテラス)→瀬織津姫(天疎日向津姫)」と認識されているのが日本の歴史になります。

 よって小野氏とは紀元前後頃に生まれた瀬織津姫の子孫が「小野」を名乗った事に由来する氏族になるのです、重要な事がもう一点あり、小野氏とは最終的に月皇后家の女王家を継いでおり、「母系氏族」だった事は是非知って欲しいと思います。

 簡単にいうと母親が「小野」ならば子供も「小野」を名乗ると考えれば分かり易いと思いますが、アマテラスの直系子孫なので日本最強の氏族でもあります、よって父親に力があっても「小野」を名乗りますので、小野家には「菅原小野家」とか「橘小野家」という具合に父方の姓も系図に残す様子が見られます、これなども小野を名乗るが父方の姓も伝えるという特殊な一族だと思います。

 相模(神奈川県)の小野は瀬織津姫の養子に入った天忍穂耳尊の領地であったと思われます、瀬織津姫の実子の「久々伎若年命」も行動を共にしていたと考えられ、武蔵一宮には小野神社の祭神として「天下春命瀬織津姫」が祀られています。

 余談ですが天下春命(アマテル・御年)の兄、天表春命は別名を大香山富命といいAD1年生まれのイエス・キリストに比定される人物になります、そして出雲に伝わる乙子狭姫の伝承は瀬織津姫の事だと思われます、また瀬織津姫は幼名を「若草苗女命」としている事も分かっています。

 更には大宜都比売命の父親はお釈迦様ことゴータマ・シッダールタです、祖母は日本名を神大市姫龍王族としての名前はシャカラ龍王、引退してからは「龍宮」と名乗った女性になります、うらしま太郎竜宮城は歴代の龍宮の城で実在したものになります。

 祖父は宇賀神とも呼ばれる初代鵜茅葺不合尊です、この初代の鵜茅葺不合尊が九州にウガヤ王朝を築き出雲王朝と双璧をなす実質的な日本の大王であった人物になります、その頃の日本は海外から侵略を受けていた為、九州に主戦力を置く必要があった為、富士山から鹿児島県の霧島へと遷都した事が古文献に書かれています。

 この豪華すぎる先祖をバックにつけて君臨したのがイザナミアマテラス天疎日向津姫(瀬織津姫)とひとまずは認識しておけば良いかと思います、そしてつい先日見つけたのが龍宮の母親が「保食神(うけもち)」という女性である事です、徐市(高皇産霊神)の息子で国狭槌尊の娘がウケモチ(保食神)ですが、龍宮の母親はウケモチ(保食神)としては四代目頃の女性になります。

 これが小野一族の成り立ちになります、次に瀬織津姫以降の小野一族について書いていきましょう、「おの」という名前は色々な漢字が当てられましたが天足彦国押人命の頃には「小野」の漢字を当てる事で統一されていった様子があります。

 天足彦国押人命とは春日親君と呼ばれた人物で春日氏の祖となる人物です、息子に和邇日子(わにひこ)がいますので、和邇氏とは和邇日子以降を指す言葉と思われます、どうして和邇氏の下に小野が入ったのかは、古代の王家の中に「造化気万男天皇」という王家が神武天皇の擁立を認めていない様子が残されています、ちょうど卑弥呼の擁立の頃に王家を閉じていますので、卑弥呼を擁立した王家が「造化気万男天皇家」ではないかと推測しています。

 もともと女王家の分家と考えられるのと、合流の条件として大王家として迎える事を約束していたのでしょう、神武天皇の系譜と合流して新しく大王家を作るにあたり、武力として支援に入ったのが小野家だった訳です。

 そしてその女王卑弥呼とは神武天皇から数えて5代目の孝昭天皇の皇后である世襲足媛になります、天足彦国押人命とは世襲足媛の息子になりますので、卑弥呼も小野氏の先祖になります、その後に和邇氏は応神天皇・神功皇后の皇位継承の時に仲哀天皇の皇子側につき滅んだ為、和邇氏の後を小野氏が継承したと考えられます。

 近江の小野神社に和邇氏の最後の大臣である「米餅搗大使主命」が祀られている理由は米餅搗大使主命系小野氏が跡継ぎとして祀った為で、もともと最強氏族でしたが、中興の和邇氏も継承した為に更に強くなったと言えると思います。

 因みに出雲素戔嗚尊(多加王・須波佛陀・須佐之男・祖佐男命の習合名)の後裔として日御碕神社で祀るのも小野氏です、他にも塩土老翁を祀る塩竈神社の小野家、建御名方を祀る諏訪の小野家など日本の歴史上、有名な男神の祀る小野家は現代にも残っているのです。

 話を相模に戻します、小野一族は相模武蔵と広がっていき、古墳時代には全国に散らばっていた事が分かっています。

 超古代は神(人を導く存在)の区分を3つに分けていたと考えられ天神空神(※広義では天神)、地神の3つで、女王家は「空神」の立場にあったと考えています、これは神社の狛犬の角でも表現されていると思われ、天神は「両方角無し」、空神は「角あり・角無し」、地神は「両方角あり」としてあるように見えます、しかし現代では狛犬の角の意味を宮司も知らないので、壊れて作り直す時に角が無くなったり、逆に生えたり(笑)する例もあるようですので、古い様式が伝わる所は参考になると思います。

 その神の区分は神武天皇の擁立時に再編成されて「天神」と「地神」に分けられ、天神大王家が天皇家、地神大王家が小野家になったと考えます、その頃は地神に祭祀権があり上位の存在であった事が原因であると考えていますが、天皇家の紋が後に「十六菊」へと変化したのは天皇家も「地神」になった時からだろうと思います、その頃に小野家は国家祭祀の立場を返上したのだと思います。(※これは小野榛原にあった小野家が山体崩壊で滅んだ時ではないかと推測しています。よって小野榛原にあった小野家が実は本家で日本の歴史を伝えていた家である可能性が高いと思われます。)

 天神王家(天皇家)と地神王家(小野家)の違いは、天神は「中央集権の王家」と位置づけ、地神王家は「部族連合国家(今なら地方分権国家)」を統治する意味と、聖王として海外の日本人勢力の上に立つ存在であったのではないかと今は考えています。

 地神王家として地方の政治を担っていた小野一族ですが、天神王家が世界の流れである「律令制」を導入するにあたり、中央政治へと参画させる為に生まれたのが「小野妹子」だと思われます。

 天皇家の血を引く小野妹子は遣隋使として有名になっていますが、特使として選ばれた理由は「日本最大・最強の一族」の氏長者として、天皇の代理を務めるのに最も相応しい背景があったからだと言えます。(※加えて次の唐王朝は日本人による王朝なので、隋王朝を挑発する意図もあったと今は考えています。)

 そして律令制を導入する事で名目上は地神王家としての小野は名目上失われました、代わりに天皇家を家臣を超える立場から補佐する新しい関係性が築かれと考えます。

 しかし実体としては、依然として地方の王であり、中央とは違う意見も持っていた為、もっぱら地方豪族と仲良くしていた様子しか見えません。

 小野一族は全ての家が国司待遇で、各国の「目代」であったと考えます、中央の官吏としても小野氏はありましたが、小野妹子から四百年ほどで中央政治から手を引き、平安時代中期には地方政治に専念するようになったと思います。(同時に地方の豪族が中央の官吏の横暴に不満を持ってきていて、天慶の乱などが起こる様になっていました。小野氏は中央と地方のバランスを強権を使いながら調整していたと考えます。)

 中央政治の腐敗は進み、藤原氏、平氏と天皇家の王臣家が中央政治を私物化した結果、同じく王臣家の「源氏(※背後に小野家)」が蜂起して平家に勝ち、天皇家による中央政治に対抗して、「鎌倉幕府」が起こります。

 しかし、この時は西日本はまだ小野氏が強い力を持っていて、朝廷側の勢力として機能していました。

 次の室町幕府の時に足利尊氏の勢力は小野氏主導の朝廷方勢力を大きく上回り、小野氏は地神王家としての歴史に幕を閉じます。(天皇家を助けようと軍勢を起こしますが、足利勢がそれを大きく上回った事により、戦争を回避、この時に足利側からも、「小野氏は何も悪く無いので、天皇家と共に滅びるのではなく、生き残る様に」と説得されたのではないかと推測しています。)

 その後の小野氏は室町時代を通じて朝廷側の臣としてあり、徳川幕府の時には朝廷の権力が解体された為、幕府の臣とならず、多くの小野家が「豪農(郷士)」として名字を持ったまま、農家に転じたのはひとえに「地神王家」であった一族だと皆が知っていて尊重された為だと思います。

 歴史から見えることは小野一族は私腹を肥やす事無く、皆が幸せに暮らせるよう役割を果たしてきた様に見えます。

 小野の名前は二千年もの長い間名乗り続けた誇りある名字だと言えますが、歴史に名を残すのは、「大きく良い事」をした場合や、「大きく悪い事」をした場合などですが、平和に平穏に過ごした場合は「歴史に名前が残らない」のです。

 小野一族は日本の平和に貢献してきた事を、もっと多くの人が知るべきだと考えます、そして名前が残らなかった事をもっと「誇って良い」のだと思います。

 小野氏について正しい姿を描いている本は今のところありません、しかし丁寧に歴史を紐解き、残されている手掛りから謎を解いた時、上記の様な真実が初めて見えてきました。

 歴史に名を大きく残さない「小野」は日本の歴史を作ってきた名家なのです。

 龍海

 この史料は神皇記や富士史に大きく影響を与えたと考えられる古文書の内容になります、読み手の力量に寄っては多くの示唆を得られるものと思われますので、広く知って貰いたいと思いテキストデータに起こしました。(龍海)

 令和7年9月12日(更新)


出典:『富士古文献考証』 八幡書店

   「富士史」第四章 雑録部の項

「   第四節 太古に關する古文書

       (一)寶来山日向高地峰高間原神都實録

寳來山ハ高砂山トモ言又ハ世界第一ノマレナルカタチノ山ナルニヨリ不

二山ト言也コノ山ニ(切レテ見エズ)ノ五男七男來リ止座子孫繁昌仁テ豊アシ原水穂

ノ洲ト言又ハ不二山ヨリ外八面カクレナク日仁向島モ山モナキニヨリテ大

日本州ト名附給ナリ(切レテ見エズ)國狭槌尊父ノ靈ヲ南方高座山峰ニ祭リ給ヒ高座

山ト名附給ヒ北ノ高峰ニ母ノ靈ヲ祭り神座山と申給ナリ乃チ彦火火出見尊

コノ二祖神オ高皇靈尊神皇靈女尊と祭リ給フツマノコトヲ御カミサント言

コトハコノヰヨリ始ナリ(切レテ見エズ)神印寶ケン御鏡ヲ奉献ケ祭ナリ神印トハ

太神多加王トケヰヤクシタル寶印ノ玉ナリ鵜草葺不合尊筑シニ神都ヲ不二山

高間原ヨリウツシテ居ナカラ三カンヲフセグ仁ヨリテ三カン始外州ヨリセ

メクル者一人モナクオダヤカ仁ス代居トコロニ豊武彦尊ノトキニ至テ中州

ソムキミダレハンス仁ヨリテ豊武彦尊諸將ヲ引ツレ來リ中州オ平ラケ中州

仁都ヲ移シ新羅王ノ四男王人ヲ筑シヨリマ子キ國法ヲ立月ヲ目當プ仁月ヲ

定メ一ヶ年ヲ定メ豊武彦尊ヲ位ニ附セ東征ノ功ヲ定メ可美眞手命天日方命

奇日方命オ申食國政大夫トナス稚根津彦命ニ國中ノ神祇祭掌セ民ノコトヲ

治メシム豊武彦命位ニ附テ神武天皇ト申給フナリコレ人皇紀元一年ノ始ナ

リ同四年四月九日神武天皇諸將ヲ從ミヤコヲ出立至シ同二十二日不二山高

間原仁付給ヒ同二十五日ヲ大祭日ト定メ小室ノ地宮守乃宮ニテ天照大神始

諸乃天神仁祭テンシキヲ行ヒミヤコ仁カヰルナリソレヨリ年々四月二十五

日仁ハ勅使ミヤコヨリ來リ祭天シキ至スナリ人皇七代孝靈天皇五庚申年四

月初申ノ日不二山ノケムリミナタイ不二山明現レ給ヨリテ諸人怖キ居處仁菊

花開姫尊ノ魂魄現レナンヂラ怖クコトナカレ我ハ此山ノ主トナル者ナリト

言テウセ仁ケルアト仁ハ石ノ上仁鏡乃コリアルバカリナリ同天皇七十三年

秦ノ徐福始皇帝乃命ヲウケ天シクビシヤウリ州ヨリ薬師如來ヲモトメ長ヰ

キノ薬オ不二山ヨリ取マイラントテ男女子共五百余人ヲツレ日本仁渡リ不

二山ニ來リ中央ニ登リ大室ノ原仁止小室住高座山峰仁保藏ヲ立藥師如來ヲ

納給フナリ五百余人乃男女子共大室中室乃地ニテ蠶子ヲ始ルナリ此レ當地

蠶子織子乃始ナリコレヨリ東國ニテハ織モノ仁テキモノヲコシライキルコ

ト始ナリコレマテハ高間原ノ神々ハ小室ノ大柏木乃葉ヲフヂニテツナギテ

居ルナリ人皇八代孝元天皇二年秦ノ徐福中室ニテ死シ給フ此ノ日二月八日

ナリ中室摩呂山峰ニ葬ルナリ人皇十代崇神天皇六年不二山高間原ヨリ天照

大神ヲ始メ諸天神乃靈ヲ大和國笠縫乃サトニ移シ祭リ給ナリ同天皇同年六

月十五日吉備彦命勅命ヲ司テ當高間原仁來リ高座山西澤菅原ニ國狹槌尊夫

婦ニ父母ノ靈ヲ寒川神社ト祭リ小室ノ地御崎峰ニ伊弉諾伊弉册尊月讀命蛭

子命祖佐男命諸懸息ノ靈ヲ幸燈大明神ト祭小室ノ地ノ宮守ノ宮仁大戸道尊

大己(切レテ見エズ)ヨリ代々大己貴命夫婦子孫代々面足尊惶根尊子孫代々少彦命上

筒男中筒男下筒男命阿東祖命子孫代々八百萬諸懸息ノ神ノ靈ヲ宮守ノ宮ニ

祭オキテコノ宮ヲ宮守神社ト名附泥土煮沙土煮尊ヨリ月讀尊葦津姫尊子大

山祇尊加茂津姫尊子孫代々山オ守居宮仁右子孫ノ靈ヲ山守神社ト祭ルナリ

宮守神社ハ神代始メヨリ代々宮ヲ守國政ヲ司取給居宮ナリ山守神社ハ泥土

煮オ始神代始ヨリ大山ヲ守山オ司取給居宮ナリ大己貴尊不二山四方ノ國

ヨリ牛馬鹿十分ノ一ヲ取立宮守至ス居トキ大山祗尊馬ヲヌスミ牛ノカハオ

カブリ山中オ乃リアルキ馬モカハモ捨テモドリ毋葦津姫命ニシカラレ明日

ヒロイニ行モトメ來ルナリ乃チニ諸神コノマネヲシテカブリモノヲ馬仁乃

リトバセ捨諸人仁ヒラハセルナリ此ヲ山神祭ト言ナリ南高峰乃高皇靈産ノ

命乃靈仁祖佐男尊オ合祭高座山ト申ナリ西高峰乃神皇靈女尊靈仁國常立尊

靈オ合祭神座山ト申ナリ東高峰仁ハ天照大神ノ靈ヲ祭リ御祖代山ト名附ナ

リ北高峰仁ハ道祖作田彦命ヲ祭道祖峠山ト名附ナリ人皇十二代景行天皇二

十五年武内宿禰當小室仁來リ宮守神社ノ大柏ヲ見テイワク我モコノ柏木ノ

ゴトクヰキ長ラヒテ皇家仁ツトメルシルトシテ柏ノ三葉オ取テ幡印ト至シ

東国仁下リ同四十年大山祇遠孫阿曾王東國ノ諸將ト議シ都オ東國仁再建

至トテ政コトオソムク仁付日本武尊ニ命司東夷征バツ仁下ル福地川ニテ

フセカントテ東國乃諸將福地川ニ出陣シ尊オアザムキヤキコロサント計ト

モ奪仁ハカラヒ東兵ミナヤキコロサレタルニ付尊ハ福地山高間原小室ニ來

リ休足至シ居ル内妃岩戸姫女子オ生コレヲ福地姫ト名附火打石オ副妃トモ

仁記太夫仁アツケ尾張仁文オヲクリ相模出舟ニテ上總仁コシ安房下總常奥

羽オメクリ下野武蔵ヲ通リ相模ヨリ足抦山オコシ阿曾山峠ヲコシ小室仁來

レハ記太夫新宮オ立テ岩戸姫親子オヲク給仁ヨリテ供々幸シ居リ仁ヰマリ

ノツクバオ立テヰク夜カネツル從士カゝナイテ夜仁ハ九々ノ夜日仁ハ十日

ヨト言ナリスペテ山東ヲツクバト言ナリ阿曾山峠ノモトノ宮ナル仁ヨリテ

サカオリノ宮ト名附給フナリ尊ハ笹子峠オコシ海ノ國仁入ルナリ御ヰ仁シ

ヱ峠ト乃チ仁言ナリ福地姫ハ祖佐男命乃三男阿東祖命遠孫記太夫乃嫡子佐

太夫乃室トナリ三男二女オ生コノ二女ビ女ニシテ菊野姫櫻山姫ト言ナリ人

皇十五代前神功皇后五十四年武内宿禰乃咄オキヽ福地山高間原オ見テ參ラン

トテ小室乃地ニ來リ記太夫乃宮ニ休足至シ居内譽田別尊ノ二子明仁政元佐

太夫ノ二女仁幸シ一夜乃チギリ深ナリ小室ニ止ナリ明仁王高座山西菅原乃

大塚ハ諸人福地山ヨオ拜ノ塚ナルカ笹ノ中仁大クモ住人オ取ル仁ヲイテヨ

オ拜ノ人止ムトキヽ塚オワリクモヲ取給ナリ人皇十六代應神天皇甲午五年

大山祗尊遠孫阿曾王国政オソムキコロサレシヨリ山守役立ズシテ居仁ヨリ

テ明仁王仁山守オ勅命ニテ申付給ヨリ大山守王ト改名至大日本山守部定山

オ司取給居同天皇三十七丙寅年六月二十五日三國第一山ノ勅カクオ武内宿

禰使者ニテ明仁政元乃二皇子仁賜宮守神社仁明仁政元阿東祖尊遠孫佐太夫

宮トヲ三神戸ト定メ大山オ守ラセ阿曾山惣神社オ司取セ給ナリ

人皇十代崇神天皇六年六月中勅命ニテ當福地山中央高間原オ天神ト定メ小

室中室大室元祖三十六神宮オ阿曾谷三十六神戸ト定メ不二山オ福地山ト改

メ給四季ノ祭日オ定メ春ハ桃澤祭夏ハカキツ祭秋ハ菊里祭冬ハ靑木祭四月

初申同二十五日九月九日大祭日ト定メ給ナリ

人皇十六代應神天皇三十七年六月勅命武内宿禰司取來リ御祖代山峰乃天照

太神オ中室湖上麻呂山峰徐福乃墓乃トコロ仁引移シ天照太神オ始メ天兒屋

根命天太玉命天鈿女命石凝姥命作田命高照姫命下照姫命並秦徐福始徐幅

乃懸息ノ靈祭リ中央乃左方仁天照太神同右ノ方仁除福太神天照太神左通リ

仁右七神オ祭摂社ト申給ナり徐福太神右通仁徐福ノ懸息オ祭リ給摂社ト申

給ナリ大日本神都元始太社ト申ハコノ不二山高間原ナリ

 大山祗尊子孫代々ト祖佐男尊子孫代々乃言申傳オ大山祗尊ノ遠孫源太夫

 ト祖佐男尊乃遠孫記太夫乃咄モノカタリオ應神天皇三十七年八月中大山

守王カキ記シオクナリ

(古交書ノ裏面ニ)

 應神天皇皇子大山守王嫡孫十三代幅地記太夫崇峻天皇二年八月十日代々

 日記ヨリ出シ記ナリ

 私も以前は五十猛石凝姥命とは同一人物だと考えていた時期がありましたが、一般的には「」の字が使われる事の多い為、女性であるとの解釈が大勢を占めていますが、鍛冶は男の仕事であり女性は就けない職業でもあった事はよく知られています。

 この謎の多い石凝姥命について具体的な人物像を掴みましたので、ご紹介しておきたいと思います、『富士史』第二章 本紀の中にそれは登場します。

 『富士史』は少し創作的な部分もありそうですが、基本的に富士山周辺に伝わる古文書を三輪義煕氏が研究し、総合的な解釈として述べているもので、基本的に史料に基づくものだと認識できます、その中にある寒川彦が四国で亡くなったとする描写に該当する地を見つけたので(※他では無い情報)、史料に基づくと考えられます。

 「第七 笠砂の碕」(※本文は富士山の所として書いていますが、鹿児島の笠狭の宮跡の事では無いかと龍海は推測しています。)という項に、「赤気男命」という人物が登場しますが、この人物は改称して自ら「赤心入舟金山男尊」としています。

 また「第八 杜若花」の項で、赤気男命を「石保利土目(いしほりどめ)」と称する事が書かれており、金山男尊金山彦と考えられる事から、鉱石を掘る官職から「石保利土目命」(※石凝姥命)、お釈迦様の子か孫に当たるので「金龍」の子孫と考えられ、「」という一族の山津見の名乗りとして「金山彦」と名乗った事が推測されますので、二つを総合すると「金山彦石凝姥命」という事が成り立ちます。

1.鍛冶はの仕事

2.八咫鏡の制作(鍛冶師の仕事)

3.金山彦は鉱山の神と認識されている

 以上の通りで、石凝姥命にまつわる矛盾を解消してくれる存在になります、よって龍海は「石凝姥命金山彦」という説を提唱します。

 龍海

2025/08/25(更新)

 日本の部族に関して調査をしている人は私しかいない可能性があります、というのも地域を示して出雲族とか隼人族という言葉はあっても、紀元前にあった日本の部族は動物などをシンボルにしていたのでほとんど知られていない為です。

 『神皇記』には「」などの動物が登場しますが、これは部族名を比喩して表現されており、部族を指す言葉として動物名を使っていた事が推測されます、その中で日本の三大部族と呼べるものがあります。


ナーガ族(竜・龍・釈迦族・龍王族)

熊一族(熊野)

狼一族(高龗・闇龗・木野山様・才ノ神・狼一族・イヌ一族・天狗族ほか)


 この項では狼一族イヌ一族について述べておきたいと思います。

 イヌには部族名の違いの他にも属性として「地神天神空神十二支」などがあり、例えば空神イヌであれば「天狗族」だとか、十二支イヌならば「(イヌ)」などの細かい部族の違いもあると思います。

 狼を祀る木野山神社岡山県高梁市木野山神社が元であり、本来の祭神は「高龗闇龗」と考えられ、この二人が「」と伝わる事から「狼を祀る神社」として知られています、龍海の考えでは高龗(たかおかみ)・闇龗(くらおかみ)の二人共に部族は狼一族ながら龍王族の血を引いており「雨を降らせ、止ませる神様」として多くの神社で祀られています。

 雨を降らせる権能は龍神龍王)によるもので、伝承地の様子を聞くと人工降雨の方法を知っていて、日照りの場合には雨を降らせる神事を司っていたと考えられる事から、狼一族の中で龍王族の眷族としてあった部族が高龗闇龗と考えます、そして木野山様闇龗の息子と考えられ、八大龍王の居た岡山県に土着していることを考えても龍王族の眷族として行動していた事が考えられます。


 龍王族系の神社には100%近く「磐座(いわくら)」がありますが、木野山神社には磐座縦岩(※龍宮系の神社にある最古の鳥居)もありませんでした、よって龍王族の眷族ではありましたが祭祀は狼一族のものだったと考えられます。

 姓を「」とした一族も居た事が分かっており、狼山が二つ山口県島根県の奥出雲に山名として残ります、姓を狼としたグループは地神と推測しますが、決定的な情報は見つけていません。

 天神狼一族(略して「天狼」)は「漢数字の一族」と考えており、BC2C頃から存在し、最初は熊本県にいた様子が残っています、BC1Cイザナミ(八倉姫・倉稲魂)の時に最も強い勢力を誇り戸一族との復姓である「八戸」の地名が最も多く残ります。

 漢数字は分家する毎に数字が増えていきますが、戸一族との復姓を調査した時に分かった姓として「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、二十、三十、四十、五十、百、千」まで確認できました、だから千利休なども天狼の末裔と考えられます。

 イヌの一族は独立した一族なのか、狼一族の支流なのか明確な答えはありませんが、龍海は狼一族の支流と今は考えています、イヌの一族には「(イヌ、軍用犬、狩猟犬)・(イスラエルのジャッカル)」の3つの漢字で分けられる部族があり、それぞれに成り立ちが違うと考えます。

 天狗族は青森県に「天狗は赤人の大将」と伝える事から赤人(アラブ人やヘブライ人)を指す事やキリストの墓など、イスラエル系の事を伝えているのでイスラエルに由来する部族と考える事が出来ます。

 「(イヌ)」という漢字を象形文字から解釈すると「犬と区別すべき動物」という解釈になりますが、イスラエルにはキツネに似た「ジャッカル」という動物がいますので、龍海ジャッカルを「」と書いたと考えています、キツネとよく似ていると書きましたが、それを補足する情報も残っています、『日本書紀』には「天狗」と書いて「あまつきつね」と読ませていますので、狗(イヌ)とは天にいるキツネと認識していたようです。

 実際には動物名のを部族名とした「天狗族」が居るわけですが、イスラエルに土着したのはヤコブの息子達です、ヘブライ人の人数を調べると200万人もいたと推測されており、日本へと帰り天狗族となったのはヤコブの子孫達とヘブライ人との間に生まれた子で家臣の扱いだった人達と考えられます。

 私の研究では釈迦族龍王族と名称を変え日本へと帰って来ていますが、インドでは釈迦族は滅ぼされたと伝えています、これは釈迦族の居なくなった国をコーサラ国が譲り受けただけで、別に攻め殺された訳では無い事を突き止めています。

 同じようにイスラエルAD70年頃ローマによって支配されていますが、その前のBC1C頃にイスラエルを率いていた日本人は大挙して移動しており、残っていたヘブライ人を支配したのが真実では無いかと考えます。

 龍王族の総数は5万人規模と考えていますが、この中のかなりの人数がイスラエルからの天狗族と考えられます。

 才ノ神は部族名を「才ノ神」としますが分家すると身体の部位を名乗り「才ノ神-足名」とか「才ノ神-手名」とか名乗り、「」などの身体の部位を名字や地名に見かけたら才ノ神の一族と考えて良さそうです、手名槌足名槌とは才ノ神-手名槌一族を率いる職名と考えられ、因みに手名槌は『神皇記』の記述が正しいと考えだと龍海は考えています。(※因みに伊斯許理度売命も女性と考えられていますが、龍海は男性だと考えています。)

 突厥に伝わる伝承に「突厥人は匈奴の別種(古くに分かれた同種異族)で、姓は阿史那氏という。」と伝え、日本の狼一族に生まれた子供が阿史那(あしな)と名乗り、突厥を率いたと解釈できます、この阿史那(あしな)=才ノ神-足名の事では無いかと龍海は考えていますが、恐らく正しいだろうと踏んでいます。(※匈奴の中にも日系の匈奴があったと認識しています。)

 最後に犬一族ですが、祭神として「天活玉命」や「大縣大神玉姫命」などの名前が見える事から、龍王系(※玉一族は龍宮の孫と考えられる一族)と考えられ、BC1C~AD1C頃より姓を「」とし十二支の「(イヌ)」も犬一族の眷族としていた様子が福井県の大野市犬山などに残されていました。

 義経のチンギス・ハン説なども日本人とモンゴル系との結びつきが強かった事を物語っていると考えられ、真偽はともかく、全くあり得ない説では無い可能性を秘めていると考えられます。(※でも時代が合わなかった気がしますので、義経の息子か孫ならあり得るのかも...)

 とりあえず現在、分かっている事を文字にしてみました。

 古代史を考える上では十分では無いかと考えます、漢数字の一族は現代でも新潟県に集中して住んでいますので「越の国」との関連が強く疑われます。

 今後の皆様の研究にも期待します。

 龍海

 竹内文書のウガヤ王朝王名表に登場する女性の称号の中に「」を「ひみ」と読ませている事例があり、もしかして「ひみこ」とはただの(なまり)なのかと思い始め、気になったついでに考察した結果を載せます。

 そもそも卑弥呼(ひみこ)とは「日女(ひめ)(みこと)」と同じだとする説が有力なのですが、私はもう一歩踏み込んで「日女巫女(ひめみこ)」を意味する造語を世襲足媛が作って「卑弥呼(ヒミコ)」と名乗ったと考えていました。

 もう一つ気になっている事が「」と「」を竹内文書では書き分けている点にあります、ウガヤ王朝だけなのか、他の場合もそうなのかは、そういう目で読んでいないので気づけて無いですが、今回はウガヤ王朝の王名表の中だけで考察しました。

以下、ウガヤ王朝の女性の称号のピックアップ

73代 多多良五十鈴媛(たたらいそすずひみ)

72代 なし

71代 3人全員 媛

70代 6人全員 媛

69代 足形媛(たるかたひみ) 他9人全員 媛

68代 豊建日若媛(とよたてひわかひみ) 他4人全員 媛

67代 5人全員 媛

66代 皇后に媛が付かない、他5人全員媛

65代 なし

64代 6人全員媛

63代 3人全員媛

62代 3人全員媛

61代 児屋豊姫尊、他7人全員媛

60代 五人全員媛

59代 7人全員媛

58代 久米照媛(くめてるみつ)※「照」の一文字で「テルミツ」の可能性がある、他2人全員媛

57代 6人全員媛

56代 2人全員媛

55代 2人全員媛

54代 1人媛

53代 3人全員媛

52代 11人全員媛

51代 4人全員媛

50代 神足別国押之姫(かんたるわけくにおしのひみ)、他1人媛

49代 半蔀姫尊、神足別国押之女尊(※姫が付いて無い)、他6人媛

48代 松永の姫命、他3人が媛

47代 天皇1人が媛

46代 豊耡姫尊、豊櫛玉姫(とよくしたまみ)、依取姫命、他2人が媛

    ※3人が姫

45代 なし

44代 なし

43代 種姫尊、サヨナギ姫尊、ヌシ姫尊、サナ姫尊、アケ姫尊、由布種姫尊、玉之屋姫尊、ユサヲ姫尊、若玉(わかたま)イスギ之女、媛はなし

    ※姫が8人

42代 鶴舞媛(つるまいひみ)天皇

41代 7人全員媛

40代 神楯媛(かんだてひみ)天皇

39代 夏媛(なつひみ)皇后、他14人が媛

38代 2人が媛

37代 3人が媛

36代 4人が媛

35代 1人が媛

34代 言待姫尊、他6人が媛

33代 3人が媛

32代 4人が媛

31代 3人が媛

30代 3人が媛

29代 3人が媛

28代 復姫尊、神豊実姫尊、長浜姫尊、島姫尊、中津姫皇后、一人だけ中臣媛尊

    ※姫が5人、媛が1人

27代 5人が媛

26代 2人が媛

25代 3人が媛

24代 4人が媛

23代 1人が媛

22代 豊秋媛(とよあきひみ)皇后宮(もなや)、他媛1人

21代 タミアラ大足長姫尊、ミロイ足姫尊、他媛1人

20代 秋媛(あきひめ)皇后宮、他3人が媛、市井依姫命、志賀之万雄姫命、朝霧姫命

19代 1人が媛

18代 1人が媛

17代 1人が媛

16代 11人が媛

15代 14人が媛、山積之女命、小色幸玉姫尊

14代 4人が媛

13代 奇需女命、他6人が媛

12代 幸玉姫命、小色幸玉姫尊、他4人が媛

11代 玉足頴撰尊(たまたるかいえり)皇后宮、他10人が媛

10代 千足媛(ちたるひめ)天皇、他10人が媛

 9代 千種媛(ちくさひめ)天皇

 8代 光徹笑勢媛(ひかりとほりいひせひめ)天皇

 7代 櫛豊媛天皇

 6代 八千種媛(やちくさひめ)皇后宮、他6人が媛

 5代 八耳媛(やつみみひめ)皇后宮

 4代 五十鈴姫(いすずひめ)皇后宮、他1人が媛

 3代 玉昭姫命、噱楽姫命[噱楽(ゆらぎの)媛尊]、上照媛(うはてるひめ)皇后宮、他2人が媛

 2代 橋立媛(はしだてひめ)皇后宮、高山姫命、上照媛命、照媛命

 1代 大ストラヘ姫命、キネア姫命、スマトラ姫命、滝灯王姫命、玉依比売皇后宮(ごだいのみや)、玉依毘女命、玉依比売命

 全部読んだ方はご苦労様でした。<(_ _)>

 考察レベルにすると作業に時間が掛かるのでシンドイのですが、今回のはやって良かったと思います、読む方も新発見がある方が楽しいと思いますので、期待されていると思いますが、新発見というか、今回は新認識と呼んだ方が良いでしょうか。

 女性の称号に概ね三種類、「(メ、むすめ)、(キ、ひめ)、(エン、ひめ・ひみ)」の三種類がある事が統計処理から分かります。

 次に「(ひみ)」と読ませ始めるのが22代から後だとも分かります。

 22代なので逆算すると紀元前30年頃では無いかと推測します、この頃に誕生した女王と推測出来るのがイザナミ(倉稲魂)かヒルコ(向津姫)でしょうか、皇后宮を「もなや」(※イスラエル系に感じますね)と読ませているのも一人だけで、豊秋媛(とよあきひみ)だけです、初代のときには皇后宮を「ごだいのみや」(※后内宮かな?)と読ませているので明らかに風俗の違う読ませ方だと思います。

 部族ごとに少しずつ文化が違い、王家の娘を「」(ひめ)と表現する部族が主流派で、その中で途中からインド系はひみ)を女王家の称号としてする慣習が定着していったと考える事が出来そうです。

 この考察の下地として太伯系の姓が「(キ)」である事があります、「」をつける女性が少ない理由は太伯系の血筋である為と考えられます。

 それから漢字の意味を象形文字から見てみると、「」は「二つの乳」の象形と「両手をしなやかに重ねた女性」の象形から「子を養い育てる事が出来る女性」、「ひめ」を意味すると書かれています。(※象形文字の「姫」を調べてみて下さい。)

 「」はそのまんま女性を意味しているようですが、厳密にいうと「子を産んで育てる事が出来る女性」という事なので、その意味は「意味深」です、子を産んで育てられない女性は...となりますよね。

 次は「」ですが、「両手をしなびやかに重ね、ひざまずく女性」の象形と「あるものを上下からさしのべてひく」象形から「心のひかれる美しい女性」と意味が書かれています。

 「」の方は礼儀作法を備えた高貴な女性という印象を受けますね、この私の解釈が的を射ているような気がします、だから「」を使う人が多いというか、誰かの判断で女性の称号として「」を使い分けているのかもしれません。

 噱楽姫命の名称が項が変わるとヒメの漢字が変わっていました、「噱楽姫命[不合朝第三代]→噱楽媛尊[不合朝第三代-続]」、ランクアップしたような変更で本人か父親の位階が上がったような書き方をしています。

 「」を使うという意味は「女王」を意味していると思います、だから最初は太伯系の姫に産まれたが、出世して一国の女王となった可能性があると考えます、

 とりあえず、仮説としてはこの様に考えれば良いかと思います、特に「ひみ)」は途中から生まれた語彙で決して一人が名乗ったものでは無さそうだということだと思います。

 卑弥呼とは「日女命(ひめのみこと)」を名乗る一群から分かれ「日女命ひみのみこと)」と読ませるグループから出た世襲足媛の作った女王天疎日向津姫天皇)の造語としたいと思います。※他の人には卑弥呼が無いので(龍海説

 しかし可能性としてはアマテラス瀬織津姫)も卑弥呼の一人だった可能性がありますね、そうなるとアマテラス卑弥呼だとする説も満更嘘では無いとなりますが(笑)(※文字の上だけでの話ですが....)、世に言う卑弥呼魏志倭人伝に載る卑弥呼ですので、ウソとなりますのでご注意を!

 龍海

出典:『九鬼文書の研究』「Ⅰ 熊野修験行者之精神と道しるべ」P.9

「むかし北海の国に坐(ま)しし武塔神(たけあらきのかみ)、南海の国の神の女子をよばいに出でますに、日暮れたり。彼所(かしこ)(備後国、疫隅社のほとり)に将来二人ありき。兄を蘇民将来という。いと貧窮(まずし)かりき。弟を巨旦将来という。富み饒(ゆたか)にして屋舎(いえい)一百ありき。ここに武塔神、宿所を借り給うに借しみて貸しまつらず。兄蘇民将来貸し奉る。即ち粟柄を以て座(むしろ)となし粟の飯などを以て饗し奉る。饗し奉ること既に畢(おは)りて武塔神出でませり。

後に年を経て八柱の子を率いて還り来まして詔り給はく。我れ之れがために報答(むくい)せんとおもう。汝子孫在りやと問い給う。蘇民将来答えて申さく。己れ女子(むすめ)と斯の婦(おみな)と侍(さむら)うと申す。即ち詔(の)らく。茅を以ちて輪を作り腰上(こしのほとり)に著(つ)けしめよと。詔のまにまに(随)著けしむれば、即夜(そのよ)に蘇民と女人(おみな)二人とを置きて、皆悉く殺し滅ばしてき。即ち詔はく。吾は速須佐能雄神(はやすさのおのかみ)なり。疫気(えやみのけ)在らば、汝蘇民将来の子孫と言いて、茅の輪を以て腰の上に著け、詔の随々(まにま)に著けしむれば即ち家在(いえな)る人ども、将(まさ)に免れむと詔り給ひき」

出典:『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』安倍晴明著

「前略 ・・・・・・ここに南天竺の傍らに一の夜叉国あり。広遠国(出口聖師著には日本国に該当するという)という。その国の鬼王を巨旦大王と名づく。天王(筆者註 ・・・牛頭天王。以下同じ)彼の門に到りて宿を乞う。鬼王許さず。天王去りて千里の松園に至る。一の賤女有り。天王問うて曰く。汝室宅有りや。女の曰く吾は則ち巨旦の婢なり。東一里、曠野の中に蘇民将来の庵あり。貧賤にして禄乏(ろくとぼ)しと雖も、慈愛の志を抱く。宜しく彼に往きて宿を求むべし。天王東に向って彼の野中に到り、彼の庵を見る。主は老翁なり。天王宿を問う。将来笑って曰く。貧賤の家豈若干の眷属を留めんや。天王曰く。我独り宿せば則ち可なり。時に将来梁の茎を席となし、天王を坐せしむ。又一瓢を持てり、瓢中の粟半器に過ぎす。瓦釜に煮て楢の葉に置き天王及び眷属に餐す天王悦びて曰く。汝が志足れるかな大いなるかなと。其の志に感じて千日を報ゆ。翌日天王南海に至らんとす。将来曰く。我に一の宝船有り、名づけて隼鶏と曰う。行くこと速かなり。天王彼の船に移り須叟にして竜宮城に到る。竜王快然として天王を奉じて長生殿に移し、頗梨采女(はりさいじょ)に合歓せしむ。餉饗日久しく已に三七余歳を経て八王子を得たり(八王子の名前を省略)。以上は八将神なり。その眷属、八万四千六百五十四神。然して後に天王后妃及び八王子、諸眷属を率いて、広遠国に到り、彼の鬼館に入り諸々の眷属と共に乱入して彼の一族を没敵すること沙揣を蒔くが如し。彼の賤女を助けんとして、桃の木の札を削り、急々如律令の文を書し、彼の牒を弾指して賤女が袂中に収め、然して此の禍災を退かしむ。然して後に、彼の巨旦が屍骸を切断して、各々五節に配当して、調伏の威儀を行い、広遠国を蘇民将来に報し、然して誓って曰く。我末代に行疫神と成らん。汝が子孫と曰はば妨碍すべからざるなり。

二六の祕文を授け、末代の衆生、寒熱二病を受くるは則ち牛頭天王眷属の所行なり。もし此の病を退んと欲せば則ち、外に五節の祭礼を違へず、内に二六の祕文を収めて、須らく信敬すべし。

その五節の祭礼とは正月一日の赤白の鏡餅は巨旦が骨肉、三月三日の蓬莱の草餅は巨旦が皮膚、五月五日の菖蒲の結粽(ちまき)は巨旦が鬢髪、七月七日の小麦の素麺は巨旦が腱なり、九月九日の黄菊の酒水は巨旦が血脈なり。総べて蹴鞠は頭、的(まと)は眼、門松は墓験(しるし)、みな是れ巨旦調伏の儀式なり。今の世に至って、神事仏事、皆な此れを学んで法例と為すなり・・・ 中略・・・金神とは巨旦大王の精魂なり

云々」