紀元前の主要人物の考察から文献上の「伊恵須」への接続・証明が出来る所までお伝えしましたが、今回はその続きである「西暦」の元となったAD1年生まれのイエス・キリストについての考察になります。
『九鬼文書の研究』には「佐男登美命」の孫が「伊恵須」と書かれていました、この伊恵須とは「家基王」こと「鸕鶿草葺不合尊」だとも考察した通りですが、実は鸕鶿草葺不合尊はAD1年生まれでは無い事が最初から想定されています。
それは私のホツマツタヱの年号解読において神武東征が行われてた年が「AD119年」だと特定済みだったからです、神皇記には神武東征の最中に鸕鶿草葺不合尊が薨去した事が書かれていますので、亡くなったのはAD119年かAD120の頃の事になります。
飛騨の口碑には「末子相続」である事が書かれ、国常立尊や国狭槌尊王家の代数に対し「高皇産霊尊」の代数は極端に少なく、王家の継承は長子だが、高皇産霊尊やイエス王などの複数の王家の中から相続される「大王」の様な立場は「末子相続である」ことが強く疑われます。
その上で、先の『但馬故事記』からは『ホツマツタヱ』に出てくる「アマテル」の人物を特定出来ると考えます、それは瀬織津姫の夫がソレに該当すると考えられ、『但馬故事記』では瀬織津姫(若草苗女命)の夫は「御年」と書かれていますので、この御年がアマテルに相当する人物となります。
小野氏の氏神として伝えるのは「天下春命」ですが、天下春命は思兼命の息子として伝えられ、ヒルコが母親と想定していました、ツマリ但馬故事記の系図はコレまでの考察と一致します。
そしてホツマツタヱの年号解読(※卑弥呼の特定にも使用したものです、因みに卑弥呼=世襲足媛)からアマテルの生年はAD6年orAD7年となりますので、兄の「大香山富命」はAD7年より前に生まれた事は確実になります。
次に『因幡國伊福部臣古志』から「イキシニホ」の父親は大己貴命足名槌、母親は天照大神としていますので、母親はヒルコだと想定されます。(ヒルコは向津姫と書かれているので、アマテラスの一人と強く疑われる人物です。)
父親の大己貴命・足名槌は養子に入った後の情報と考えられ、他の情報や考察から大年(須波佛陀)の実の息子であり「五十猛」の事だと認識される人物でもあります。
この人物に相当する人物を『但馬故事記』に求めると「大香具山富命」しかいないとなります、加えて『イエスのミステリー』には「イエスの弟が王位を継ぐ」描写が残されていたと記憶しますので、末子相続により継いだ王位というのが「アマテル」だと考える事が出来ます。
もう一つ、超古代の日本人の王家や王朝には「王名(おうめい)」という名跡があり、代々同じ王名を襲名する様子が竹内文書や徐福の伝承、高皇産霊尊の名乗りや今回のイエス王などに見られます。
つまりはAD1年生まれのイエス・キリストとは五十猛のこととなり、鸕鶿草葺不合尊はその息子で「家基(伊恵須)王」とも名乗りエジプト王家における王名を継いでいると考えられます。(だから間違いにはならないし、複数のイエス王が居ることへの説明にもなります。)
史料と解釈を示し、考察を加えた結果を論拠も示さず非難する人達は歴史研究そのものを否定する人物として逆に避難されるべき人物であり、そのような人物の示すものは信用が出来ないものと考えるべきでしょう。
私の研究が現時点において「独自性が過ぎる」というのはその通りだと自認しております(笑)、しかしながら私の示す成果が間違いというのはお門違いの話です。
ご先祖達は科学や真理を世界に示し、多民族の信頼を勝ち得て「聖王」として君臨していたと思います、子孫の私が同じことを出来ても不思議な事では無いでしょう!?
まずは足下の日本の歴史を正しいものに改めねばなりません。
龍海
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