2025.02.12 01:11桃太郎の異伝、『謡曲未完集 吉野津宮』『未完謡曲集』 吉野津宮 磐山トモ わき次第 御代を守りの神なれや。(繰り返し)、歩みをいざや運ばん、こゑ「抑是は当今に仕へ奉る臣下也。詞「扨も備州吉備津宮は。隠れなき霊神(上杉本「霊社」)にて御座候。殊に御釜鳴動のよし君聞召及ばれ。急(※)(ぎ)見て参れ(上杉本※印以下「聴聞いたし奏聞申せ」)との宣旨を蒙り。唯今(上杉本「備州」入る)吉備津宮へと急候、上(歌) 折をえし、洛陽(ハナノミヤコ)を立出(で)て、(繰り返し)、行衛(へ)かすめる山崎や。兵庫(上杉本「武庫」)の、山風長閑にて、須磨や明石の浦伝ひ。磯うつ浪も高砂や。猶しほ(を)れ行旅衣。吉備の山辺に着にけり、(繰り返し)、(上杉本「しかゝ」とあり) して二人一声 真金ふく...
2025.01.23 21:50牛窪記 徐福伝 故説事 熊野三所大権現之事、唯一両部ノ伝区々其神跡決シ難シ。サ レドモ霊験正シキ故、日本第一大霊ノ勅額アリ。家秘ノ旧 記ニ伊ザナミノ尊火ノ神ヲ産給ヒテカン去リ給フトアレ バ、是熊野山ノ本主也。證誠殿相伝ノ事ニ付テ、密義有。 一座者秦国徐氏之霊也。津絶海之詩ニモ、熊野峯前徐福祠 ト述テ、大祖高皇帝ニメサレテ尊和ヲ得シトカヤ。徐氏和 国ニ来ル事ハ、奈始皇帝海上ニ遊ビ給、方士除市ヲ召レ、 不老不死ノ術ヲ習給フ。徐市曰、海東ニ三山有。爰ニ神仙 ノ宝薬アリ。採テ奉べシトイフ。皇帝悦給。徐市者広学 秀才ニシテカクレナキ賢士ナレバ、私諂濫政ノ世ヲ辞テ遠 ク潤徳ノ州望。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮 城也ト聞テ、薬求メン為ニ艤スルト偽テ、ヒソカニ聖典...
2024.12.28 08:36北原(きとら)神社 由縁書略記 これは〒522-0016 滋賀県彦根市武奈町にある北原(きとら)神社にある案内板の由縁書略記をテキストに起こしたものです、竹内文書の記述から手がかりを探していて見つけたもので、竹内文書との一致を見せる情報になります、「重要」だと思い資料化したものになります。「北原(きとら)神社 『由縁書略記』 御祭神 三神 生命継承権憲邪 せいめいけいしょうけんけんじゃ 植物の元生産親様 しょくぶつのもとうみおやさま 皇親神漏樹命 すめらかむつかむろぎのみこと 動物の元生産親様 どうぶつのもとうみおやさま 皇親神漏身 すめらかむつかむろみのみこと 人間 皇祖初代・伊邪那岐尊 いざなのみこと 御鎮座 約七百二十万年前 [由緒] 今から...
2024.10.09 05:21イスキリスの遺言令和6年10月2日 出典:『超図解 竹内文書』 「🔯イスキリス、クリスマスの遺言 ・天国の言葉にて記し。 ・天国神倭十一代垂仁天皇即位二十九年シハツ月、立三日。 アジチ国ユダヤ、カルバリの丘に難に合う汝が弟イスキリ、汝に代わり て三十三歳死す。イスキリス王、五日蘇りて再立す。 ・八日曰(いわ)く、予言す。五色人よ今より先の代千九百三十五年より天下土海 と乱れ、統一の天皇天国にある。 ・汝が天国へ帰る、汝が天国へ来たりて六十六年目汝が自身に作る像神宮 へ納め祭る。汝が霊を今より先の代必ず大神宮神主孫々の代祭り願う。 ・神主武雄心親王へ遺言願て、汝...
2024.08.28 06:09小野 光右衞門 岡山県浅口市金光町の大庄屋であった小野光右衞門についてご紹介をさせて頂きます。 小野光右衞門は大庄屋として知られますが、その生まれは平安時代中期頃、藤原純友の乱があったおりに、この乱を鎮圧した小野好古の後裔にあたります、小野好古の子が讃岐へと土着し、そのまた後裔が天文年中(1532~1555)に、現在の岡山県倉敷市玉島長尾に移住します、そしてこの長尾の小野家の末裔として生まれた事に始まります。 私は讃岐に土着した小野好古の子の家を「讃岐好古小野家」と呼んでいますが、私の研究ではこの小野家は小野好古へと嫁いだ小野小町の末裔になると考えています、好古に嫁いだ小野小町は埼玉県深谷市で生まれた小野小町と考えられ、通称などは分かっていません、小野小...
2024.08.22 08:03浦島太郎に考察を加えると歴史が見えてくる件。 やっと「浦島太郎の伝説」を考察する時が来たと思います、平安時代初期の丹後半島において浦嶋子を祀る浦嶋神社(宇良神社)を建てたのは、何を隠そう我が家の先祖、小野篁です。 この物語は小野篁の時代では謎を解くのは不可能でしたが、現代ならば可能となっていると思いますので今回の挑戦となった次第です。 今、浦島太郎の伝説をざっと読んでみた感想として、伝説の元となった話は相当古いだろうという事です、それは七世紀の人物、伊余部馬養もこの話を記録していた事が分かっていて、その内容は丹後半島に伝わるものと同じであった事が書かれているからです、またその内容は既に「神話」のように変質していましたので「相当古い」という考察になりました。 伝承の形態としては、私には「普通」に見...
2024.07.06 04:43『神皇記』の神武東征を書いた部分 第一編神皇之卷 神皇 第一章 總説 神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊(うがやふきあわせず)、諱(いみな)彌真都(みまつ)男王尊(ホツマツタヱでの斎名は「カモヒト」)、即位六年六月二十日、全國、地大(おおい)に震ひ、山岳崩潰、黒泥(こくでい)噴出。翌年、天下大(おおい)に餓(うえ)う。神皇諸々の皇族を率て、全國を歴巡して救恤(きゅうじゅつ)(困っている人に見舞いの金品を与えて救うこと)ましましき。 三十六年六月、禍津(まがつ)亘(わた)理(り)命(※注一:八十禍津日の子孫で越の國の亘理から大和の名張に来た)は、神皇第四十六代鵜茅葺不合尊、諱種越彦王尊、五世の孫、真佐勝彦命(新羅王朝の大王か?)を奉して反(かえ)す。 木山國(きやまくに)の初世太...
2024.06.21 09:39四代目の小野小町、小野重子 五代目の小野小町を研究の出発点とした場合、ハッキリと年代別に色々な小野小町がいたことが浮かび上がってきます、備中の伝承では小野小町が「大同四年(809)」に生まれたと伝えていますが、これは小野吉子の事では無い事は明らかでした。(小野篁が延暦二年(802)の生まれなので、さすがに6・7才で子供は作れなかったと思います。(笑)) もちろん最初は誰の事か分かりませんでしたが年代から小野篁の妹ではないかとの推測は容易でした、『玉造小町と小野小町』の中で植木学氏が「重子」について触れており、その情報源がどこにあるのかを求めた所、大江文坡著の『小野小町行状伝』にある事を突き止めました。 小野小町行状伝はたぶんに物語的なので「読み物(小説、作り話)」として扱われて...
2024.06.20 06:20相撲の起源もメソポタミアだった 私がまだ若く、歴史なんかに興味の無かった1988年当時に行われた「シルクロード大文明展」の本、『シルクロード・オアシスと草原の道』を見ていて見つけたものですが、紀元前3000年前に作られた青銅器、日本人なら誰しもが分かるこの姿、「まわしをつけ、がっぷり四つに組む男達」、この青銅器が見つかったのはメソポタミアのトゥトゥプにあったニントゥ神殿だそうです。 本での紹介は控えめでしたが、相撲の起源と結びつけたいが、証拠が無くジレンマが感じられる文章で、書いた人もさぞ相撲のルーツだと言いたげでありました。 イラク博物館のファウズィー・ラーシド博士の説明によると、「シュメル人のレスリングはAKITI(アキトゥ)祭という新年の祭で行われた。・・・・レスリングの勝利...
2024.06.10 07:16岡山県の桃太郎伝説(龍海’s 新解釈) 岡山県の桃太郎伝説は有名すぎて、すっかり定着した感がありますが、本当は違う解釈が正しいと思われる事を是非ご紹介しておこうと思います。 元となる史料は先行研究、『吉備の伝説』(土居卓治編著:昭和51年刊)に載る内容をベースとしています、私は土居氏が既に桃太郎伝説を解く鍵を見つけていた事を知り、これは是非、謎解きへと昇華せねばと思いご紹介するものです。 まずは、それ程長く無いので、『吉備の伝説』の中の「吉備津彦命と温羅退治」の項を既存の概念と違いを確認しながら読んでみて下さい。「吉備津彦命の温羅退治 吉備津彦命と温羅退治は岡山県でも最も有名な伝説である。伝説は成長するもので観光旅行の盛んな現在では、さらにいろいろ尾ヒレ話が加わっているが、かなり古い姿が『...
2024.05.13 06:24美作の小野お通 世に有名な真田家と関係する小野お通と同じ時代で同姓同名の小野お通という女性が岡山県津山市にいました、津山には小野小町の領地があった事や、小野小町の家があったこと、そしてその末裔として津山押入の岸本家に生まれた「小野お通」が岸本を名乗らず「小野」を名乗り数奇な人生を生きていた事が世に出る事になると思います。 かくいう我が家は湯郷(ゆのごう)にあった小野小町の家の末裔だったようですので、小野お通は身内という関係になります。(我が家の口伝から) 私の小野小町の研究においても「巫女的能力」を有した小野小町が代々同じ名前を名乗っていた経験がありました、小野お通においても3人の小野お通が居た事を確認しています。※小野お通→小野おづう→小野お伏(おいぬ※お通に...
2024.05.11 06:26吉備の国とは、きび龍王の名に由来する インドに居た龍王達が日本に渡来していた事に気づいて数週間(短っ!)、龍王山の調査は途中ながらも、概ねの結果と、傾向は見えてきました、そして「吉備の児島」の解釈から娑伽羅(シャカラ)龍王が日本語では「キビ龍王」と名乗っていた事が分かったと思います。 私は岡山県倉敷市の児島とは「シャガラ龍王の児(こ)、善女龍王」が継承したから「児島」になったのではないかと仮説を立てていました。 仮説のキッカケは児島の龍王山には「龍王山・児島竜王山」の2つの名前が伝わっていました、そして山の中腹には「善女龍王」が祀っていたので、龍王=シャカラ龍王(善女龍王の父親)、児島竜王=善女龍王という事が分かり、シャカラ龍王の児だから「児島」となったのだと思ったのです。 今、考えても...