出典:『九鬼文書の研究』「Ⅰ 熊野修験行者之精神と道しるべ」P.9
「むかし北海の国に坐(ま)しし武塔神(たけあらきのかみ)、南海の国の神の女子をよばいに出でますに、日暮れたり。彼所(かしこ)(備後国、疫隅社のほとり)に将来二人ありき。兄を蘇民将来という。いと貧窮(まずし)かりき。弟を巨旦将来という。富み饒(ゆたか)にして屋舎(いえい)一百ありき。ここに武塔神、宿所を借り給うに借しみて貸しまつらず。兄蘇民将来貸し奉る。即ち粟柄を以て座(むしろ)となし粟の飯などを以て饗し奉る。饗し奉ること既に畢(おは)りて武塔神出でませり。
後に年を経て八柱の子を率いて還り来まして詔り給はく。我れ之れがために報答(むくい)せんとおもう。汝子孫在りやと問い給う。蘇民将来答えて申さく。己れ女子(むすめ)と斯の婦(おみな)と侍(さむら)うと申す。即ち詔(の)らく。茅を以ちて輪を作り腰上(こしのほとり)に著(つ)けしめよと。詔のまにまに(随)著けしむれば、即夜(そのよ)に蘇民と女人(おみな)二人とを置きて、皆悉く殺し滅ばしてき。即ち詔はく。吾は速須佐能雄神(はやすさのおのかみ)なり。疫気(えやみのけ)在らば、汝蘇民将来の子孫と言いて、茅の輪を以て腰の上に著け、詔の随々(まにま)に著けしむれば即ち家在(いえな)る人ども、将(まさ)に免れむと詔り給ひき」
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