これまでの研究や伝承から小野小町の名前について、その由来として有力なものが「姉または後宮に、’町’または’大町’がいて、年若い方を’小町’としたとする説が有力視されています。
これは秋田県の伝承に「姉が大町」とする伝承も影響していると思われますが、古来の地名には「町または大町」という地名の近くに「小町」という地名が存在することが多く、中世の人々は経験的に大町と小町の関係を知っていた為に定義つけられた仮説だと思います。
私の研究成果から、初代の小野小町が相模(さがみ、今の神奈川県)の小野に生まれ育った為か、采女と上がる際に氏名(うじな)を名乗れぬというルールがありました、采女は生まれ育った地の名を仮称として名乗るのが通例でありましたが、その地名が「小野」であった為、小野氏の娘であった小町は小野を名乗れない為、母方の生家があった鎌倉市の「小町」を采女の仮称として名乗った事にあったと分かりました。
以来、小野小町の生誕地には必ず「小町」の地名があるという法則が生まれました。
最初の頃は、行政上の区分名が「小町」であったものが、後半は便宜を図ってもらったと見えて、「小町山」とか「小町峠」などの俗称でも采女「小町」を名乗れるようにして貰った様子が地名として伝えられています。
初めの頃は小野小町の伝承地だから「小町」を冠した地名が残るのだろうと考えて居ましたが、采女の名乗りのルールや、時系列での小町の誕生地が分かる事で、上記の法則が成立する事を見いだした為、地名に小町があることは「必要とされて名付けられた」と理解する事が出来ました。
そしてその中で「大町と小町」が自然にある所は、初代の小野小町の生誕地のみであったので、この結論にいたった次第です。
この初代の小野小町が、「容姿端麗、聡明、和歌の達人、稀代の政治家、巫女的能力があった」為に、後に小野氏から采女(うねめ)や氏女(うじめ)として後宮へ貢進された女性が名乗るようになりました。
采女は「小町」、氏女は「小野小町」と後宮で名乗り、個人としての通称は叙位でもされないかぎり明かされないので、ほとんどの小町が「小野氏の小町、小野小町」として認識された為、一人のことのように伝承されていったものと確信しています。
小町の中で名前が分かっている者は、小野石子(2代目)、小野重子(4代目)、小野吉子(5代目)、小野氏野(6代目)の四人だけになります、この四人においても確実に小野小町とする伝承は我が家の口伝にある小野吉子だけになるかと思います。
こういった経緯により生まれた小野小町なので、複数の小野小町が居ることは、もはや当たり前のように思っています。
皆さんの常識が変わり、正しく認識されることで、私のご先祖が存在している事になりますので、是非、認識を改めていただければと思っています。
龍海
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