私の歴史考察では度々出てくる「熊一族」について書こうと思います。
前にブログの方で「磐一族」や「星一族」とルーツを同じくするのでは無いかと考察をしましたが、このたび具体的な熊一族が興った時の伝承を見つけましたのでご紹介しようと思います。
熊一族と言われても具体的な人物を上げないとイメージ出来ないと思います、一番有名なのは「素戔嗚尊」でしょう、ですが素戔嗚尊とは複数の人間が名乗った称号ですので、個人的には祖佐之男命、アヌシャカ(祖佐男命)、須波佛陀(素戔嗚尊)、須佐之男、祖佐之男(※祖佐之男について私の記述では祖佐男命と書いてきましたが、太加王が今後頻繁に登場して来る事が予想される事もあり、整理するため表現を変えますね。)の五人がいる事を確認しています。
この5人は文献上から直接的に理解できるような素直な書き方はありません、古文献を複合的に考察し、個人の別を分離して初めて見えてきた5人になります。
最初に熊一族のルーツから書いていきましょう、それは金達寿著の『日本の中の朝鮮文化3』の58ページにそれは書いてありました。
「朝鮮建国神話から
天帝(神)の子桓雄(ハンウン)は父のゆるした天符印、すなわち風師、雨師、雲師の三職能神をあたえられ、三千の部下を率いて太白山に天降った。すると、そこにいた熊と虎とが人間になることを望んだので、これにヨモギとニンニクとをあたえ、百日のあいだ日光をさけて穴居するように命じた。だが、虎はその命にそむいたので人間となることができず、熊のみ願いかなって人間の女性に生まれかわった。そこで桓雄はこの女性(熊)をめとっ
て、壇君を生んだ。壇君は王位をついで都を平壌にさだめ、その国を「朝鮮」と号した。
これが壇君神話のかんたんなあらすじで、その都の平壌はのち高句麗が都としたところでもあった。以後、かどうかは知らないけれども、朝鮮語コム(熊)はあの動物の熊をさすと同時に、「聖なる」という意味をもつことにもなったのである。インコム(人熊)というときはそれが「王」ということになり、コン(公)ということもこれからきたものだったと思われる。
それだったから、古代の日本では高句麗のことをコマ(高麗)といい、あるばあいは当時の百済、新羅など朝鮮全体をさしてコマともいったが、それもこのコム(熊)からきたものではなかったかと思う。それ以外、朝鮮をさしてなぜコマといったか、理由がわからない。神社にあるコマ(狛)犬もおなじである。」とあります。
上記は『朝鮮建国神話』として伝わるもので、日本人はほとんど知らない話だと思います、私も朝鮮の民話は少し調べていますが、載っていなかったものです。
よく歴史解釈において日本のルーツは朝鮮だというのも、この建国神話に由来するのだと思います、日本人としてはこの熊の末裔が素戔嗚尊だと聞かされると、朝鮮側がそう言うことにも理解できると思います。(※檀君も日本人だと分かる話が後で登場します。)
ですが真実はもう少し複雑なので、皆さんの常識を壊していきたいと思います。(笑)
『神世の万国史(竹内文書)』という本を今、分析・解読中ですが、この本の天神第七代に書かれている神様(人間の天皇)は中国の伝承にある「伏羲と女媧」で間違い無いと考えます。
二人は兄妹である事が竹内文書に書かれていますので、「夫婦」であるという伝承は否定されます、私はこれまで天御中主神から太陽王家と月皇后家に分かれたと解釈してきました(※神皇記に由来する解釈)が間違いだったようです。
竹内文書には明らかに天神第七代の二人から「太陽と月」になっている事が書いてありましたので、太陽王家とは「天御光太陽貴王大光日大神」を始祖とする王家で、月皇后家とは「天御光太陰貴王女大神(月神身光神)」を始祖とする王家の事だと言えます。
そして、この二人から出た皇子と皇女が婚姻した最初の大王が上古第一代の天皇です、この男王は中国では「神農」と伝わるため有名です、この神農の子孫である苗(ミャオ)族の伝説では「ヤペテ」の子孫だとも伝わりますので、「神農=ヤペテ」と解釈できます。
ヤペテとはユダヤ名で父親は大洪水を生き残った「ノア」になります、という事は「ノア=天御光太陽貴王大光日大神」となり、中国に伝わる洪水伝説の元になった人物であると理解出来ます、そして世界各地にも伝わる洪水伝説もノアの子孫が拡がって伝えたと理解出来るのです。
問題としてはノアが日本人だと自分では考えていた点にあるでしょう、東の果てから世界を支配していた大王本人が日本人である事を意識していますので、世界の頂点に立っていたのは日本人なのです。
なぜ熊一族の事を書いているのにノアの伝説になったのか? 当然ながら重要な関係性があるのです、まずは以前の解釈から作った系図情報を見て貰いましょう。(『日本人の系譜』を参照のこと)
朝鮮の建国神話では「壇君」でしたが、日本では「檀君」と伝える人物がいます、それが「太加王」です。
朝鮮の建国神話と同じ事を伝える具体的な人物が文献上に存在しているのです。
その文献は『支那震旦国皇代暦記』と呼ばれ、中国から来た徐福が伝えたとされる文献になります。
この文献に書かれている内容は竹内文書と違う部分があるのですが、サスガに5000千年前の情報が正確に伝わる方が異常だとも言えますので、古代からの伝承としては類を見ない内容になっています。
この中の神農の次男、朝天氏の孫として登場するのが「太加王」です。
出典:『支那震旦国皇代暦記』
「神農氏の二男、東洲の国王、朝天氏の孫、新羅王の四男、太加王は一族郎党八千余人を引きつれて、祖先の国、蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国に向かい,ここを征服し、祖国の大王となり、全世界を従え全世界の大王と成ろうと、目市木を日本国に渡り国王の大日留女尊を計略を以って妻にし、諸国を従え大王になることを計画しましたが、一族郎党は皆殺しになったため、国王大日留女尊に従い、義兄弟の契りを結び、大日留女尊を姉君と敬い、国王より太加王を改めて祖佐之男命という諱名を賜り、祖国蓬莱山嶋豊葦原の瑞穂の国の守護神になったと、言い伝えられております。」
支那震旦国皇代暦記では「祖佐之男命」となった事が書かれています、これは紀元前2世紀にもよく似た話が伝わっていて、最初は一つの伝承が2つの時代に分かれて伝わったものかと思いましたが、今回、竹内文書のBC2Cより前の天皇の項に「檀君国」の存在を確認しましたので、上記の伝承もやはり真実だったと言えると思います。(これまでは半信半疑だった....)
この初代の祖佐之男命の母親が「熊」という部族名を作ったのですから、歴代の素戔嗚尊が熊一族というのも納得ができますよね!
私の研究から釈迦族の「アヌシャカ」は神皇記には「多加王」として登場し、アマテラス女王の妨害をした為に、連れてきた一族郎党を全滅させられ出雲に封じられた話が伝わります、支那震旦国皇代暦記と酷似する内容ですが時代としては2000年以上離れているのです、そして多加王は後に「祖佐男命」という名前を賜る事も同じです。
この時にアマテラスは岩戸隠れをしたので、岩戸隠れとは私の研究から「亡くなって後にご神体を山とし、岩戸を立て祭祀する」という意味だと分かっていますので、その謎も今解いている最中です。
再び現れたアマテラスとは大宜都比売命の事で夫は須佐之男、出雲口伝で知られる富家に伝わる祭祀の方法が龍王族のものとは違い、かつ山の名前が「熊野山」でしたので須佐之男とは熊一族だと認識していました。
そして大宜都比売命の姓は「野」である事がキレイに残っている人物です、だから「熊野」とは熊一族と野の女王が婚姻により強力な連立政権を築いた証であり、その時に「星野」なども誕生したと考えられるのです。
この事から「熊」とは檀君国を建国した初代の祖佐之男命の名跡を継ぐ者であり、現代人から見て動物の名を冠する原始的な一族という意味では無く、朝鮮に伝わる通り、5千年近い歴史を誇る「聖なる名乗り」だったと考える事が出来るのです。
だから出雲王朝の初代の大己貴命である「祖佐之男(八島士奴美)」と二代目の「須佐之男(兄八島士奴美)」の子孫たちは「スサノオ」を名乗っていた可能性が高いのです、同時に彼らは祖佐之男命(太加王)の名跡を継ぐ大王でもあるのです。
後の熊襲や蝦夷もこの熊一族を主力とする反乱だと言えると思いますが、それは宇賀神である高皇産霊尊の系譜が男王を継いだ事への反発だと思います。(※別の表現としては女王家をないがしろにした為だと思います。そして女王家の方が強かった!)
日本の歴史を作ってきた「熊一族」は女王家と共に発展してきた一族だという事が出来ると思います。(※月皇后家の男王)
あっ! 書き忘れていましたが、須佐之男とは「月弓尊」でもあり、月読尊に習合されている人物の一人です、父親は須波佛陀でこの人物が初代の「月夜見」と思われます、「白人根命」でもあり不合朝の「禍斬剣彦天皇」でもありますので、エジプト王朝の大王でもあり、徳島県の剣山やユダヤ遺跡とされる磐境神明神社(白人神社)は須波佛陀に由来して名付けられた山であり神社だと思います。
この名称からも分かる通り、熊一族というのは月皇后家の男王(宰相)でもあったのです、ナンデ熊一族は忘れられているのかが不思議だと思いませんか?
龍海
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