龍海の古代史観(順次アップデート)

 龍海がどのような古代史観を持って情報を見ているかを共有しないと多く残る情報を読み間違えたりしますので、最新の古代史観(大きな流れ)を載せておこうと思います。

 超古代の日本人は氷河期から日本列島に居ましたが、火山性の土地の恩恵を受け比較的食料には不自由をしなかったと考えています、それは生きる為の時間以外を生む事になり、数学や天文学、哲学などを考える時間を持てたおかげで他民族よりも先進的な知識をもった民族へと発展していったと考えています。

 日本人とは単一民族ではなく各地域から来た部族の連合国だった様子は古文献に残る情報からも分かり、中でも三大部族の「」、「」、「」が特に大きな勢力を持ち、アダムとイブの伝承通り、「蛇族」が知恵を授けたと考えています。

 蛇族における「」とは出身地域において最強の生物を意味していると思われ、蛇族はポリネシア系の民族と龍海は考えています、同じく「」はロシア系、「」はモンゴル系と考えられ、先の考察と併せて考えると古い部族は「蛇族」だと考えられます。

 インドに於いては「ナーガ(蛇)」と表現されますが、「ナーガ」という単語は元は日本語の一つと考えられ、日本に於いても「長・那賀・永・中」などの漢字を当ててナ-ガ族の姓を表現していると考えます。

 日本においては「天神地祇(てんじんちぎ)」という宗教観の元、陰陽五行の概念は日本から世界へと伝わった概念でありますが、教えられた側では在りがたく保存され、発見者の住む日本では当たり前のこととして尊い知識として残らない事は歴史研究者を困らせる要因となっているようです。

 16000年前には余力のあった日本人は世界を知りたいという「欲求」に駆られ、アメリカ大陸に進出し、12000年前にはトルコ、9500年前にはメソポタミアと行動範囲を全世界へと拡げていった事は竹内文書にも記述され残されています。

 「不老不死」という概念を「生命の木」と表現して世界の人々に伝えていた様子が、残されている事で現代人は日本人の事績と認識する事が出来ますが、不老不死生命の木が混同されて伝わっていますが、本来はこの二つは違う概念で「物質世界の生」と「非物質世界の生」とが連続して紡がれ、考えようによっては肉体が滅んでも魂は生き続け、そして魂の生きる世界から新しい生命が生まれ、木から種が生まれ芽生えると新しい木を生む事を伝えていたものと龍海は解釈しています。

 5500年ほど前にはメソポタミアに日本人の「ウトウ」という人物が海を超えて初めて行き、「太陽しか渡る事の出来なかった大洋を渡った」として「太陽神」となり人間による「天神」が生まれたと推測します。(※それまでの天神は太陽・月・星で人間では無い)

 その後4200年ほど前に、ほぼ全世界を支配下に置いた「天御中主神」(※ユダヤ名、ノア)が世界の大王として天神の二つの王家を天皇家として創設します、男系で継承される男王家の「太陽王家」、女系で継承される「月皇后家」が誕生します、天神の二王家はその後も海外の人々を支配下において活動しますが、日本国内は地神による不満が高まっていったと推測します。

 この天神の二王家を除くと文献として残る最古の王朝は「富士王朝」と考えられますが、この富士王朝とは『竹内文書』では73代続いていますので、3400年前には造反していた可能性を示しています。

 しかし造反といっても二王家には従っていたものと思われます、しかし独立した動きもしていたと考えられるので、段々と国内の地神にも力がつき始めてきており、天神の王家の支配力が段々と低下していった事が推測されます。

 転機となったのは中国に拠点のあった徐福が3000人規模で日本へと侵攻し、男王家の座を得ている点では無かろうかと思います、それに追随するようにウマシアシカビヒコジが月皇后家の男王として名を残し、女王の痕跡が残り始めます。

 要は徐福の渡来を転機として天神達は日本における支配力を取り戻す為の行動をおこしていたように思えます、そんな時代に釈迦族は海外で展開していた日本人の部族と「親子の契り」を交わし「龍王族」として日本へと凱旋します、最初のシャカラ龍王とはお釈迦様の母親の摩訶摩耶であり、お釈迦様を産んだ時の出血が原因で若くして亡くなっているようです。(花の窟)

 釈迦族月皇后家の流れなので女王が大王になります、姉の死去を受けて次の女王になったのが妹の波闍波提です、夫は同じ豊受大神なので、二卵性の双子として生まれた息子と娘は面足尊尾茂太留と表現され、歴史研究を混乱させています。

 尾茂太留龍宮族としては「龍姫さま」と呼ばれ愛媛県石鎚山の麓に「龍王山」と名付け支配地にして「綿津見」をしていた様子が残されています、姓は「」としてた様子が徳島県や淡路島に残る「小路池鬼籠野(小路野)、小路谷」などに残ります。(※「路」は夫の姓)

 娘は龍王族としては「竜王姫」と呼ばれ、同じく愛媛県に支配地を持っていた事が「竜王山」とその周囲の地名「奈良野」(※「野の国」の意)から分かる事になります、竜王姫は別名を「大宜都比売命(大月姫)」といい大月氏の女王でもあるのです、幼少期は「草野姫(かやのひめ)」と呼ばれ徳島県では「野神社(のがみやしろ)」で祀られ姓を「」としていた事が明らかな人物になります。

 京都に居た時の地は「野々宮」という地名になり、今は「野宮神社」としてかつての居宅が神社になっています。

 この大宜都比売命が初代のアマテラスで娘の瀬織津姫が二代目のアマテラスになります。

 龍王族船千艘にてやってきた事が『厳島縁起』に残されています、一艘につき50人程度と推測される事から、5万人規模の統率の取れた一部族として日本へと帰って来たのですから、当時の日本の人口は10万人程度と推測されていますので、圧倒的な武力をもって日本を制圧した事が分かります。

 その時の女王がシャカラ龍王(姉、摩訶摩耶、イザナミ)→龍宮(妹、波闍波提、イザナミ、[倉])→龍姫さま(イザナミ、八倉姫、[小])→竜王姫(アマテラス、大宜都比売命、草野姫、[野])→瀬織津姫(アマテラス、天疎日向津姫、ホノコ、[小野])だったので、アマテラスの神話が生まれいると思います。

 律令制の導入に伴い地神女王家だった小野家天皇家では無くなりましたが、小野小町とはかつての女王の血筋を伝える巫女霊能者)として誕生していると考えています。

 天皇家(男王家)となった日本は女王の痕跡を消し、太古から男王家が支配してきた歴史をねつ造しようと頑張っています、それはあながち間違いでは無いのですが、女王家を無かった事にしようとする事には直系子孫として異議を唱えねばなりません。(知らなかった事実ですけど....)

 日本の歴史が明らかにならないのは、男系で皇位が継承されたとする過程で情報を間違えて解釈している為です、男王家は別に絶えていないのですが、どうしても女王の支配下にあった事を隠したいようです。

 皆さんの歴史解釈の一助になればと思います。

 龍海

小野 龍海’s 歴史塾

このホームページでは歴史研究の成果を資料化して公表しています。

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