倉敷市広江に見つけた「龍宮山」には龍王族(釈迦族)の女王であり、伊弉冉尊でもあった波闍波提(サンスクリット語:ハジャ・ハティ)のお墓であった事が分かり、神号が「天石門(あまのいわと) 神倉(ほくら)」と諡(おくりな)された事を突き止めた。
これは龍宮の事を「天石門」と呼ぶ事と同義となり、「天石門別(あまのいわとわけ)」と称する神号や神社は龍宮の末裔であることを顕示している事も理解できる事になった、龍宮の石門は徳島県の「石門」にある岩山を模して造ったと考えられ、津峯山が故郷である可能性があることを示しています。
龍宮山には人工的な「石洞」が「矢ノ鼻」に築かれ、以前はそこに「釈塔さま」が置かれていたようです、山の裾にある「天石門」は山頂に正対していて、山をご神体として死後の家の門を表しているようだと分かりました。
祭祀は山の中腹にある石洞で行われていましたが、その内に後裔による祭祀は失われ、里人によって天石門で祭祀が行われるようになった模様です。
龍宮山の様子から「石洞で風葬し、その後は石洞で祭祀を行い」、「天石門からご神体へ魂を移し」、「ご神体は山全体」という葬送様式が見えてきます、孫の女王であるアマテラス(大宜都比売命)も同じ様式である事を確認しましたので、龍宮以降の葬送様式として考える事が出来ます。
そして天石門から発展したものが「鳥居」である為、初期の神社とは「お墓」の可能性である可能性が高い事が分かります、女王系はその後に神道として発展し、男王家は仏教として発展する事になり、両者に溝が生まれています、女王の龍宮と男王の豊受は天神の両王家が結びついた融合王家を一代かもしれませんが実現した時になります。
その後には女王家と男王家とは再び分離しますが、多くは女王家に従った為、天皇家は女王系の男王が就任した形になり、それが神武天皇の時だったと考えられます。
龍海
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