浦島太郎に考察を加えると歴史が見えてくる件。

 やっと「浦島太郎の伝説」を考察する時が来たと思います、平安時代初期の丹後半島において浦嶋子を祀る浦嶋神社(宇良神社)を建てたのは、何を隠そう我が家の先祖、小野篁です。

 この物語は小野篁の時代では謎を解くのは不可能でしたが、現代ならば可能となっていると思いますので今回の挑戦となった次第です。

 今、浦島太郎の伝説をざっと読んでみた感想として、伝説の元となった話は相当古いだろうという事です、それは七世紀の人物、伊余部馬養もこの話を記録していた事が分かっていて、その内容は丹後半島に伝わるものと同じであった事が書かれているからです、またその内容は既に「神話」のように変質していましたので「相当古い」という考察になりました。

 伝承の形態としては、私には「普通」に見えるので、どうにか成りそうでもあります、考え方としては原点となる物語があり、それはとても有名であったが、ある理由から公にする訳にはいかず、例え話のように伝聞されたものとして読むと理解しやすいと思います。


[文献による伝承]

・丹後国風土記逸文(伊余部馬養の記録と同じ)

・日本書紀

・万葉集巻九

 上記の3つが古い文献になりますが、普通の歴史研究なら古いものを尊ぶとは思いますが、伝承研究の場合、古い文献が正しいとは限らない事が特徴としてあります。(地域の口伝のほうが正しい事がある。)

 文献とは文字として記録されたものであり、記録した人が聞いた話ですが正しいとは限らない事に原因があり、地域のおとぎ話の方がより真実に近い事を伝えている事の方が多いからです、だから近世に成立した「浦島太郎」の物語の方がより正しい場合さえあると思った方が良いのです。

 なので、今回は伝承されている内容(特に単語)について、考察を加えたいと思います。

 まず物語の概要を改めてご紹介すると、「亀を助けた報恩として浦島太郎が海中に連れて行かれ、龍宮(竜宮)で乙姫らの饗応を受ける。帰郷しようとした浦島太郎は、「開けてはならない」と念を押されつつ玉手箱を渡される。帰り着いた故郷では、龍宮で過ごしたと感じたより遥かに長い年月が経っており、失意の余り玉手箱を開けてしまった浦島太郎は、年老いた鶴、または人間の年寄りに化するというものである。」です。


[項目]

◯時代背景

◯住んでいた所

◯浦島太郎について

◯亀について

◯龍宮城(連れて行かれた所)

◯饗応者(乙姫など)

◯玉手箱(お土産)

◯その他


[時代背景]

 日本書紀や丹後国風土記逸文では、雄略天皇22年(478年)秋7月と具体的に伝えています、しかしこの年は丹後半島から豊受大神を伊勢神宮へ遷宮した年である為、それと関連しているという可能性が指摘されており、わたしもそれに同意します。

 では手掛かりが無いのかと言えば、室町時代の古浄瑠璃「浦嶋太郎」では乙姫ではなく玉依姫が登場します、玉依姫ならば1世紀末〜2世紀初めとなり時代が分かる事になります。

 また伊余部馬養が伝説を記録していた事もヒントになります(本人が記録したかどうかは別の話で、伊余部家で伝える記録とした方が適切だろうと思います)、「伊余部」とは「伊予部」とも書き古代からの部族名でもあります、名前から考えて「伊予津彦」の為の部(べ)の民と考えられますが、伊予津彦は1世紀の人物なので、伊予部もその頃には存在していたとわかります。

 では、伊予部一族がドコに居たのかわかるのか?

 実は知ってたりします(笑)、岡山県総社市下原に「伊与部山」という山があり、この地域にいたと推測出来るからです。(山歩きした事があるので知っていました。(笑))

 1世紀頃は伊予(愛媛県松山市)あたりに居たと思いますので、岡山県へと入ったのは2世紀前後でしょうか?


[浦島が住んでいた所]

 住んでいた所は伝承により様々です、出てくるキーワードとしては、

・筒川 ・水江 ・住吉(すみのえ) ・丹後国 ・与謝郡 

 などですが、筒川や丹後国や与謝郡などは浦嶋伝説が表に現れた所が与謝郡だった事に由来していそうです。(なぜそう言えるのか、今回は有力地が既に想定されているからです。)

 なので、最メジャーな丹後国には外します(小野小町でも秋田県が有名ですが実態は全く違っていました、伝承では全く伝説の知られていない所が正しい事が多く、最初に書いた、伝説が隠したい事ならば、その地域には伝承されていないと考えられるからです。)

 注目すべきは・住吉・水江でしょう、住吉は何故か「すみのえ」の読ませているのは恣意的な誘導を感じます、住吉はそのまま「すみよし」で、かつ地名では無く「海神」を意味すると考えます。(隠語として綿津見三神を祀る住吉にした)

 つまり地名としては「水江(みずのえ)」だろうと考えられます、実は岡山県倉敷市に水江という古い地区があり、この地にすんでいたと推測されます。(図2 古代の水江を参照のこと))

 全国の「水江」という地名を調べたところ、13件のヒットがあり、他の所を調べると「他は全て古代は海」だった事が分かりました、コレにより水江とした場合には岡山県倉敷市が最有力地になります。

 あとは全国に残る地域の伝承ですが、背景として必要な要素を考慮すると該当する場所は無いのでは無いかと考えます。(全部調べたわけではないので、ご勘弁を、それだけ吉備に集中して地名が集約されているのです。)


[浦島太郎について]

 浦島太郎についても「浦嶋子」と伝えたり、「浦嶋の子」と伝えたり様々です、浄瑠璃では、「すなわち信濃国に住む子宝に恵まれない夫婦が戸隠明神に祈願して授かったのが主人公の浦嶋太郎とする。」とあります、具体的に伝えていて信憑性はありますが、肝心の「誰」かは伝えておらず、授かった子が「主人公の浦嶋太郎」と書いていますので、本名は違うのだと思います。

 では古代に「浦嶋」という姓はあったのか?

 島名に残る「浦島」を調べると、熊本県天草にある「御所浦島」が「浦一族」の島で綿津見を構成していた部族でありそうな事が分かりました。(※御所は後付けと思われる内容が伝わっていたので...)

 なので「浦島◯◯」という人物が居た可能性は高いと考えます。

 名字として「浦島」を調べた所、現代でも四千人程おられるようなので、浦島という名字であった可能性は高いと考えられます。


[亀について]

 亀については他の説話でも龍神の助けによって亀の背で休んだ事が厳島縁起などに書かれていますし、浦島太郎の話でも龍宮や綿津見の隠語がでてきますので、龍王と関係する「亀」の事だと思われます。

 実際には亀を助けた訳では無いのでしょう、恐らく古代では龍王と亀とはセットのような関係で龍宮と共に亀がいた事から話の中に組み込まれた感じがします。

 話によっては「亀比売(かめひめ)の夫」も登場していますので、私の解釈で良いように思います。

 古代史の解釈から「亀」をシンボルにしていた一族があり、他の伝承でも「亀」として扱かわれているのが太伯系の大一族です。

 大一族も大龍王となって綿津見(海神)を構成していると考えていますので、亀とは大一族を表現しているとして良いと思います。(綿津見としての名乗りは「大島」。)


[龍宮城について]

 浦島太郎が連れて行かれた所としては「常世の国」or「龍宮」・「龍宮城」だと大きく二分されているようです。

 龍宮とはシャカラ龍王の称号で、初代龍宮の龍宮城とは岡山県倉敷市広江にあった事を私が突き止めています。

 また常世の国とは「異世界」と解釈する向きがありますが、私の解釈では海外で暮らしていた日本人が日本の事を常世(蓬莱)の国と表現していたと思いますので、綿津見を構成する龍王達が目指した所と混同されているように思います。


[饗応者(乙姫など)]

 浦島太郎をもてなしたのが、乙姫、海神の娘、女人亀、亀比売の夫、七人の童子(昴七星)→八人の童子(畢星の星団)ですが、いずれも龍宮城の主である龍宮(シャカラ龍王)ではありません。

 当時の風俗から考えても、誰が対応したとしても、もてなしたのは龍宮(シャカラ龍王)となると思います、だから龍宮城の主が誰か分からなくなった後代に、それを知らなかった人物が加えた話ではないかと推測します。

 しかし単語には共通点があり、何れも綿津見(海神)と関係している点です、それと龍宮が加わった理由は、この元となった伝承が岡山県の南、龍宮の城があった児島の海域であった事を知る者によって、龍宮城や乙姫などの情報が付加されたように見えるのです。

 では「浦島」を名乗りそうな人物が岡山に居たのかが疑問として挙がります、実はもう見つけており、今は「吉備の中山」と呼ばれる山が超古代は「浦島(豪族としての名乗り)」の本拠地だった島だと思われるのです。

 桃太郎の物語では「鬼の温羅(うら)」と伝えますが、八徳寺(元々は波津登玖(ハツトク)神社)や艮御崎(うしとらおんざき)神社の祭神は「温羅命」となっています。

 吉備津彦命とは「吉備の彦」という意味であり、複数の部族が構成する吉備という国のリーダーという意味になりますが、個人名は別に「ワカタケヒコ」という名があります。

 温羅命という名乗りも「温羅(うら)一族のリーダー」という意味であると考えると、姓を「浦(うら)」としていた可能性は高いという事になり、綿津見としては名乗りを「姓+″島″」としていたという仮説が他の事例の検証からも証明されつつあります。(私の中ではホボ確定しています。)

 吉備の中山には「浦」という地区名も残されています、これは港・海辺という意味ではないかという指摘があると思います、私もその通りだと思いますが実は逆ではないかと考えます、「津、浦、泊、湊、水門(みなと)」などの言葉のうち、綿津見としてあった部族が陸地の浜辺へと土着した時に地名が部族名の「浦」となり、時代を経ていくうちに「海辺」を表す言葉となっていったという事です。(三重県の津市などがあるのも同様の理由からと考えます。「津」という部族が居た。→津島≒対馬?))

 言葉の意味が出来る前に「浦」という部族があり、綿津見としての名乗りが「島」を付けて「浦島」と名乗ったと私は考えて居ます。(同じく山津見は「姓+”山”」となり、浦一族ならば「浦山」と名乗り、山名も「浦山」となる訳です。)

 それに基づいて地名が残っていれば「現在の、陸地の吉備の中山=海の中の浦島」であった可能性は高いと考えられます。(豊(て)島=豊龍王=姓は「豊」、高島=高竜王=姓は「高」という具合に、島名と綿津見としての名乗りの相関関係を現在検証中ですが綺麗な相関関係が見えています。)

 では「浦島太郎」とは何を元にした伝承なのでしょう?

 私は賀茂建角身命が倉敷市の連島の北にいて、玉依姫が連島の南に子供といた事を知りました、そしてその子供は死んだことにされていて、隠したい存在である事も知りました。(実際には子供(稲飯命)は生きています、伝承では、「賀茂川で遊んでいたら朱塗りの矢が流れて来て身籠った」と父親を明らかにしていません。)

 玉依姫の祖父は豊玉彦であり、豊玉彦は龍宮であった事が文献にも伝えられていますので、浦島伝説の龍宮城とも関連があります。

 そして浦島太郎とは浦島部族の長男という明示があり、玉依姫と八大龍王の末裔の浦一族との婚姻という意味があった事を示し、それは両者の同盟を示していると考察します。

 その玉依姫は鵜草葺不合命へと内侍として再婚していますので、浦一族との同盟が破棄されたか、玉手箱の話の通り、ウェルナー症候群のような早老病に掛かった事を伝えているのではないでしょうか?(ウェルナー症候群以外にもハッチンソン・ギルフォード症候群など、10の疾患が知られており、20才を過ぎた当たりから急激な老化が始まる病気のようです。)

 私の結論としては、浦島太郎という物語は創作されたものでありますが、1世紀頃に起こった奇怪な病気(当時は「祟り・呪い」だとされたと思います)と龍宮の存在、龍王という上位の立場の者に起こった事から隠すような動きがあり、噂が一人歩きして、物語の素地となる話を伝えたものではないかと思います。(近くに住んでいた伊与部一族はそれを聞いたので記録を残したと推測できます。)

 だから龍海が浦島太郎の物語を再表現するならば、

「龍宮の支配する吉備の国に八大龍王の裔で「浦一族の若者」がありました、綿津見を構成する一族の長男だったので皆からは浦島太郎とあだ名されました、浦島太郎は玉依姫との婚姻が決まったので倉敷市の水江に住み、当時の龍宮(豊玉彦)の孫娘、玉依姫と婚礼をあげ、玉依姫の住む連島(つらじま、古名:都羅島)元へ通ううち、子供を授かりました。

 跡継ぎも生まれた浦島太郎は龍宮と共に三年ほど遠征に出かけました、そうして三年後に帰って来た時には白髪の老人へと姿が変化していました。

 人々はそれを玉一族(亀)の呪いの箱(玉手箱)を空けたからだと噂しましたが、一緒にいた龍宮はそうでは無い事を知っています。(徐々に老人になっていった)

 浦一族からは老人のようになった息子と玉依姫の婚姻解消が申し出され、玉依姫は鸕鶿草葺不合尊の内侍となりやがて皇后として神武天皇を生みました。

 そして浦島太郎の事は皆をして腫れ物をさわるように噂だけが一人歩きをするようになりましたとさ。」

(by 龍海)


龍宮城:初代の龍宮の城、でも龍宮(豊玉彦)と一緒に居た事が元。

乙姫:玉依姫 ※乙姫は別に居た。

浦島太郎:浦一族(名乗りは浦島)の長男

玉手箱:早老病の発現(→婚姻の破棄、当時は呪い)

浦島太郎の居た所:倉敷市の水江

関係者:亀(大一族)、住吉、綿津見

(図の「浦島太郎の地図」を参照の事)

 吉備の中海には浦島伝説を構成する地名が揃っています。


 龍海

小野 龍海’s 歴史塾

五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。

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