『神皇記』の神武東征を書いた部分

   第一編神皇之卷 神皇

     第一章 總説

 神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊(うがやふきあわせず)、諱(いみな)彌真都(みまつ)男王尊(ホツマツタヱでの斎名は「カモヒト」)、即位六年六月二十日、全國、地大(おおい)に震ひ、山岳崩潰、黒泥(こくでい)噴出。翌年、天下大(おおい)に餓(うえ)う。神皇諸々の皇族を率て、全國を歴巡して救恤(きゅうじゅつ)(困っている人に見舞いの金品を与えて救うこと)ましましき。

 三十六年六月、禍津(まがつ)亘(わた)理(り)命(※注一:八十禍津日の子孫で越の國の亘理から大和の名張に来た)は、神皇第四十六代鵜茅葺不合尊、諱種越彦王尊、五世の孫、真佐勝彦命(新羅王朝の大王か?)を奉して反(かえ)す。

 木山國(きやまくに)の初世太記頭(はつせたきかしら)、長髄彦を惣司令となし、白木(しらぎ)國(一、作新羅國、又、白國。)より多くの軍師を語(かたら)ひ、中國(なかつくに)を根據地として全國を略取せむことを企つ。

 六月十五日、神皇皇族初め諸大神を高千穂の宮に集へて征討の事を議らしめ給ふ。即ち先つ軍船二百六十艘を造り、皇族をして各部署を定め、諸將軍兵を軍船に分乘して、本島大陸八方の水門より攻入らしむ。

 賊魁(ぞくかい)長髄彦、河內原の高座山(兵庫県西宮市のことか)に據る。今や、天の神皇の巡幸、皇族の巡撫(じゅんぶ、各地を巡って人心を鎮め安んずること。)を聞き、大に恐怖し、白木人と議(はか)り、兵を伏せて之を防きぬ。

 針美(はりみ)(播磨)に着御ましませる皇太子海津彦五瀬王命は、賊情(賊軍の様子)を詷(とう)(適切な意味は不明だが、見定める意か)はむとして河內川の水門より、孔舎衛坂(くさえさか)の坂■(本?)に着御ましまさむとするや、伏兵俄に起る。

 皇太子終(つい)に痛手を負ひ給ひき。

 淡木(あき)(一、作安記。安芸のこと、広島県)に着御ましませる。

四皇子日高佐野王命變を聞き赴き援ふ。皇太子尋て(ふつうに)神避りましぬ。乃ち海上より、急を東北巡幸中の父神皇初め、各地に着御ましませる皇族諸官神に報しにき。神皇大に驚き、即ち海上より伊瀬崎の多氣の宮に着御ましまし給ふ。されと、賊の大軍に遮られ、西國に巡幸ましますこと能はす。各地より、皇族諸官神赴き援ふ。以て神皇を守護し奉る。乃ち、四皇子日高佐野王命を立てて、皇太子となさせ給ふ。

神皇は伊瀬口より、皇太子は久真野口より、挟み撃たせ給ふ。然るに、久真野口戦途に利あらす。伊瀬口征討の途次、偶々神皇、陣中に於て暴かに神避りましぬ。士氣索然(さくぜん)として振はす。則ち皇太子、檄(げき)を四方に飛はし、以て義に赴かしむ。是に於て、全國齊(ひと)しく兵を催し、以て義に赴(おもむ)きぬ。

 即ち、尾羽張大主尾羽張明照雄命を東海惣國の元帥となし、東海口より、諏訪大主諏訪建勇命を東山惣國の元帥となし、大湖口より、出雲大主出雲大神主命を北越惣國の元帥となし、丹馬・針間の兩口より進軍せしむ。賊の雄師漸(ようやく)く潰(かい)を告け、東海口第一に陥(おちいり)り(望ましくない状態になる)、東山口第二に陥り、針間口第三に陥り、丹馬口第四に陥る。明照雄命等、竟(つい)に賊の總大將真佐勝彦命・禍津亘理命を斃しぬ。而して、皇太子宇陀の國見の長髄彦を攻めさせ給ひ、皇兄稲飯王命等、牟婁の鬼山の白木軍を撃たせ給ふ。皇兄は、白木軍と海上に戦ひて彼我共に沈滅し給ひ、皇太子は長髄彦を討ち平け給ひて、竟(つい)に天下を平定ましまし給ふ。是に於て、都を大和國畝傍山の橿原に尊めさせ給ひき。是を神武天皇となす。

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文中の出典:伊勢の度会の二見の文書

「ナガスネヒコの本当の祖先は「八十禍津日の命の三代目の子孫であり、禍津虚張の神の21代目の子孫である、禍津亘理彦の命という。越の国の亘理に居て、いろいろと悪さをしていたので、第17代ウガヤ天皇(16代という説もあり)に追い払われて、大和の名張の山中(奈良県名張市)に隠れた。登美彦はその子孫なので、宇陀の覇精高の上と呼ぶ。」と、書かれているのです。」

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「  第四章 後記 人皇

     第一節 人皇創業

      第一 東征の部署

 人皇第一代、神武天皇は、宇家澗不二合世、神皇第五十一代、鵜茅葺不合尊、諱彌真都男王尊の第四の皇子にましまして、幼名を日高佐野王尊といひ、諱を神日本磐余彦火火出見天皇と稱し奉りぬ。

 初め天皇の皇太子たりしとき、父神皇と共に東征にあり。神皇は伊勢口より、皇太子は久真野口より、賊軍即ち真佐勝彦命を奉して反せし長髄彦・禍津亘理命等を、征討せさせ給ふ。然るに、吾久真野口は、戰途に利あらず。伊勢は、征討の途次、神皇陣中に於て暴かに神避りましぬ。是に於て闇黒の世となり、士氣索然として振はす。賊軍大に喜び機失ふ可からすと。乃ち、八方の口々の要害の場所に陣を張り、呼譟して來り攻む。矢石雨の如くに下る。皇太子、四方の皇軍に合して、縦横奮ひ戦はしむ。然れとも、賊軍、兵勢日に加はり威力益々熾なり。則ち、皇太子、檄を四方に飛はし、以て義に赴かしむ。即ち、諸大國の初世太記頭より諸区國令に、又、區國令より諸小國司に、小國司より諸郷首に、郷首より譜村戸長に、逐次飛檄を移してけり。是に於て、全國齊しく、兵を催し、以て義に赴きぬ。

 天別天之火明命五十世の孫、尾羽張大主尾羽張明照雄命を、東海惣國の元帥となし、武甕槌命五十三世の孫、日田地大主日田地武男命、經津主命五十三世の孫富佐地大主富佐地香取雄命の両神を、副帥となし、東海諸國の各初世太記頭、並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、東海口より進軍ましまさしむ。旗甲野を蔽(かぶさ)へり。

 建御名方命五十三世の孫、諏訪大主諏訪建勇命を、東山惣國の元帥となし、稚武王命五十四世の孫大湖大主大湖佐久彦命、味粗託彦根命五十三世の孫、陸奥大主陸奥津彦命の兩神を、副帥となし、東山諸國の各初世太記頭・並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率ゐて、大湖口より進軍ましまさしむ。 旗幟天に彌る。

 祖佐男命五十五世の孫、出雲大主出雲大神主命を、北越惣國の元帥となし、犬已貴命五十四世の孫、丹馬大主丹馬但波氣命、大物主命五十六世の孫、針間大主針間(はりま)宍粟(しさは) 彦命の兩神を副帥となし、北越諸國の各初世太記頭並に諸令・諸司・諸首・諸長を從へ、軍兵を率るて、丹馬・針間の兩口より進軍ましまさしむ。士氣益々奮揚せり。

 賊軍は、要衝に占拠し、墻(しょう)を高くし溝を深くして之を防く。既にして、雨軍相接して吶喊(とっかん)鋭を争ふ。矢石飛ぶこと雨霰の如し。皇軍殊死して戦ひ、伏戸を越え流血 を渉りて奮撃す。賊の雄師、漸く潰を告け、関塞守をそ失ひける。皇軍、勝に乗して進む。勢風雨の如し。諸將、牧馬(ぼくば)(令制で、諸国の官牧が飼養している馬。)の首を並へて前に立ち、叱咤戦を督して追整す。或は弓にて射殺し、或は剣にて突き斃し、或は石劍にて打ち砕く。暴風の草木を吹き荒すが如し。東海口第一に陥り、東山口第二に陥り、針間口第三に陥り、丹馬口第四に陥る。諸將、益々馳騁(ちてい)(馬に乗ってかけまわること。)曲折剣を舞はして指麾(き)す。軍兵之に從ひ、轉闘(てんとう)(各所にめぐり戰ふこと。)長馳(ながばせ)(長いみちのりを一気にかけること。)向ふ所前なし。賊兵、彼にも石劍にて亂打せられ、此にも剣にて突き斃され、枕骸(ちんがい)(折り重なった死)原野を蔽ひ、僵屍(きょうし)(硬直した死体。)山谷を埋めてけり。帰降する者は、大将分は首を断ち、兵卒は顔に入墨して放ちぬ。東海口の元帥尾羽張明照雄命は副帥日田地武勇命と、更に進んて、大粟津口の圍を撃ち破り、賊の惣大將真佐勝彦命の本營を指してそ突進しける。勢疾風の如し。乃ち、石の大劍を打ち振りて急に接すれは、副將禍津亘理彦命は、惣大將を守護して遁れ走り、賊兵四散しで亦抗する能はす。吾兩帥、轉闘長駆向ふ所前なし。賊十八將、遂に亦四方に遁逃しけり。吾両帥、追撃して竟に、賊二大將を日榮山の麓に追及す、即ち元帥明照雄命は、大石剣を打ち振り、賊の惣大將真佐勝彦命を、脳天より骸骨まて微塵に打ち砕く。又、副帥武勇命は、亦賊の副將禍津亘彦命を同しく微塵に打ち砕きぬ。是に於て、東海口と東山口とを堅め居たる賊軍は、遁れて日榮山に立籠り、丹馬口・針間口をめ堅め居たる賊軍は、赤遁れ阿多後にそ立て籠りける。則ち東海・東山両道の官軍、沓り至り日榮山をそ八重十重に囲みける。乃ち四面より、肉薄して急劇攻め寄せ、伏戸を踏み越え殊死して戰ふ。即ち東海東山兩道を堅め居たる賊將、悉く戰死し賊兵悉く出てゝ降る。降れるもの、皆入墨して之を放つ。日榮山悉く平く。尋て、東海・東山両道の皇軍は、丹馬・針間兩道の皇軍と兵を合して、阿多後山を圍み、總攻撃を開始しける。實に暗黒七年三月十八日なりき。(以上、開闢記、火男記、神都録、神武記、人皇記。)

     第二 丹生本營と日高宮

 皇太子は、時に丹生(にう)の本營に在しましぬ。一日、皇族大久米命・高座日多命を勅使として、高天原に上らしめ、神祖神宗天つ大御神を祀り、國賊退治の祈願をなさしめ給ふ。又、丹生の川上にて高天原の天つ大御神を初め諸々の天神地祇を親ら祷祀(とうし)(いのり祀ること。)ましまさむとし給ふ。然るに、祭器なし、因て埴土を天香山に索(もと)めむとし給ふ。偶々宇陀國司弟猾(おとうかし)は、密に兄猾(えうかし)及び加志國司阿加伊呂等の陰謀を企つることを以聞して、其之を索(もと)むるの危險なることを奏しぬ。而して弟猾は、宇須彦と共に舆(うま)(意味:うまや車※中国語)に、天香山の埴土(はにつち)を採り来らむことを請うて去る。乃ち宇須彦は老翁に、弟猾は老嫗(おうな)に、各姿を扮裝して至る。途中果して虜賊之を遮る。乃ち翁嫗を見て、賤陋(せんろう)(身分や人柄などがいやしいこと。)なりとなし、嘲り咲(わら)ひて道をそ讓りける。

 皇太子、常に以爲(おも)(意味:~と思う。※中国語)らく、長髄彦は實は白木人(一、作新羅人。)なりと、之と欵(かん)(意味:懇ろである。※中国語)を通するもの亦國賊なり。國賊即ち家兄(かけい)(兄=五瀬命)の仇敵なり。何そ征討せさるへき、と詔り給ひき。漸(ようや)くにして宇須彦・弟猾、埴土を採り來りて之を獻(けん)す。皇太子大に悦ひ、乃ち祭典の陶器を作らせ給ふ。宇須彦、丹生の川上の榊を掘り來りて、祭典の料に供す。皇太子、丹生の川上の武禮加奴に清筵を張り、親ら天神地祇を遙拝ましまして、國賊を退治せむことを祷祀ましましき。又、磐竃二手抉を置いて、搗米を炊き飴を作り、且つ厳瓮を丹生の川に沈めて祈誓ましまししに、孰(いず)れ吉兆あり。皇太子、御感斜(ななめ)ならす(意味:とても感心されて)、則ち、皇兄稲飯王命・三毛野入野王命をして海濱を守らしめ、親ら諸皇弟皇子を從へ、南島筑紫の軍兵を率ゐ(い)て、海陸共に進軍せさせ給ふ。兵勢日に加はり、士氣益々奮揚す。進んで多太須の屯に向はせ給ふや、山峡より毒烟靉靆(あいたい)(意:毒けむりが雲のようにたなびいてきた)たり。乃ち皇太子、大石劔を拔き左右に打振り給へは、俄に風向變(へん)して賊軍に向ふ。白木人、爲めに苦み遂に營を捨てて走りぬ。

 偶々(たまたま)大久米命・高座日多命は高天原より還りて、神劔を皇太子に献上し奉る。皇太子、乃ち其由を問はせ給ふ。兩命、對(対)白したまはく、吾等勅を奉して高天原に上り、諸々の天つ大御神を初め天照大御神、並に高皇産靈神に、神勅神託を祈願ましましけるに、乃(すなわ)ち建雷命の佩劔、世司布都の神劔を授かり、又八咫烏を以て、皇軍の嚮導(きょうどう)(先に立って案内すること)たらしむ、との神託を授かりにき。則ち、神劔を奉持して還りませるに、今や皇の安座(あんざ)(くつろいで座ること。)屋の棟に八咫烏數多(あまた)止りて鳴きけるを視(み)たりし、と奏しけれは、皇大子御感いと斜ならす。時に忽然御惱(意味:怒る,腹を立てる。※中国語)痊(い)ゆ(癒える)。皇軍、勇躍奮ひ立ちぬ。

 皇大子、湯野崎の水門より上陸し、先つ要衝を相して行宮を建て給ふ。其地を日高と名つけ、其宮を日高の宮と稱し奉る。勅して海陸の將校を選み、且つ其部署を定め給ふ。即ち皇太子、親ら大久米命・手研耳命・中臣道之臣命以下二十二將を率ゐ(い)て、宇陀の國見に向ひて、賊魁長髄彦を征しまさむとし、高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命をして、中臣道足命以下十九將を率ゐて、牟婁の鬼山に向ひて、白木(一、作 新羅。) の賊徒を征せしめむとし給ひき。發するに臨み、稲飯・三毛野の兩皇兄に詔りたまはく、諸兄等、奮戦激闘して此白本(ママ)(木)の賊徒を塵にすべし、若し誤りて遁走せしめなは、天地神明共に容ささる所の罪なるべし、と嚴に宣り給ふ。乃ち發す。皇大子は、大久米命等と共に、皇軍を率ゐて進みます。軍容蕭然、兵威大に振ふ。八咫烏、之か郷導たり。名草・日野・岩川の農神等、馬數百頭を獻し、軍に從はんことを請ふ。八十坂に至る。兵勢日に加はり、威力益々熾(おこす)なり。

 贄持頭の子加奈宇伊呂は、吉野川に網代を作り、川魚を捕りて之を獻す。皇太子詔りたまはく、汝小國司・郷司・村主等の狀況を知れりや、對白したまはく、能く之を知れりと。乃ち、之を郷導となしぬ。(以上、神武記。)

     第三 牟婁の鬼山征討

     第四章  後紀 人皇

 高座日多命・稲飯王命・三毛野入野王命は、皇軍を率ゐて進み給ふ。乃ち、先つ御木 山に白木軍(一、作新羅軍、又、白軍、以下略之。)を攻む。白木軍、固守して之を防く。皇軍鼓躁して齊しく進む。山岳為めに震ふ。白木軍、大に毒烟をそ送りける。高座日多命、乃ち彼の 神劔を以て打振り給へは、風忽ち方位を變す。白木軍、爲めに苦しみ走りて鬼山に退く、皇軍勝に乘して進む。勢風雨の如し。白木軍又、遁れて三木浦に走る。錦村戶長今登志麻、賊軍に應し農賊を率ゐて皇軍と遮り戦ふ。皇軍、擊ちて之を斃す。白木の殘軍破れ走りて、海陸に跨り陣す。而して残兵を集む。稲飯王命、更に別隊の將大雷真志津命を遣はして、外五將と強兵五百騎を率るて、長髄彦の背後を突かしむ。乃ち進んて、曾根山に到る。賊軍亦鬼山に據れる白木の勇兵を進めて之を拒く。吾六將、強兵を率ゐて叱咤戰を督す、衆奮激先を争うて進み、殊死して戦ひ、竟に之を敗る。連戦轉闘、以て數ヶ所の賊壘を抜く。是に於て、白木軍遂に錦浦にそ走りける。此日、皇軍の死傷合せて二千餘神、賊徒戦死する算なし。稲飯王命・三毛野入野王命は、春加々眞津命外三將と、曾根の水門に軍船六艘を艤裝して、將に錦水門に白木の賊軍を攻めむとし給ふ。忌部若道命本陣に就きて言したまはく、臣既に備ふる所の海兵あり、以て先陣たらんと請ふ。兩命之を許し給はす。忌部氏又、言したまはく、臣嘗て侍從長たりし故にや、今日、皇太子海津彦五瀬命、固く請うて止まさるものありと。乃ち之を許す。翌朝黎明、七艘の軍船を集めて、三木浦及錦浦を望みしに、白木の軍船影跡たになし。浦の漁農曰く、前日既に去れりと。稲飯王命、憤怒して宣りたまはく、吾皇祖は天つ神にして、御母は海神の女なり。如何そ賊に海路を許すへき、諸軍続けと云ひ拾て、一艘の龍船に打乗り、疾電の如くそ追ひ行きける。三毛野入野王命初め、春加々眞津命外三將、二千餘の強兵を五艘に分乗して、稲飯王命の後に從ふ。舳艫(じくろ)相(あい)銜(くく)む。(意味:多くの船が続いて進むようすをいう。)行くこと飆(ひょう)(つむじ風・暴風)雨の如し。須臾(すゆ)(わずかな時間)にして、津久島沖の海原にて白木の賊船にぞ追ひつきける。乃ち賊船と相接し吶喊(とっかん)(※突撃に移る前に、士気を高めるために、指揮者の合図に応じて声を大きく張り上げること。)鋭を争ふ。流矢飛ぶこと雨霰の如し。惣大將稲飯王命、舳上に立ち大音上にて、高天原の神祖神宗諸々の天つ大御神を初め、八百萬の天神地祇を呼上け、祈りて宣りたまはく、神力を以て神國の大敵を退治ましまし給ふべしと。神劔を頭上に捧げ、遙に海原を見渡せは、這(これ)は如何に、周國の白木兵を援はんとして、舳艫(じくろ)千里海を蔽ひ、旌旗(せいき)(色鮮やかなハタ)萬里天に彌るあらむとは。其衆寡敵せさものあるを知り、乃ち又祈りて宜りたまはく、神あらは速に暴風を起し、以て數多の賊船を覆へし給ふべし。予は、海原を驅廻りて數多の賊船を覆へすべし。と直に、頭上に捧けませる大劔を八方に打ち振りて、復(ま)た頭上に捧げて之を大海に投しましぬ。三毛野入野王命、此を見て天神地祇を祈りて、亦神劔を打振り天を拝して、頭上に捧けて、大海に投しましぬ。此の状を見て、春加々眞津命・太玉七峡谷命・御雷折彦命・忌部若道命の諸將、強兵二千を率ゐて、雨霰の如く飛ひ來る流矢を事ともせす、吶喊(とっかん)鋭を争ひ奮激殊死して、賊船を四方八方に乘踰(のりこ)へ、飄忽震蕩(ひょうこつしんとう)(意味:いきなり激しく揺り動かすこと。)風雨の歪るが如く、短兵急に接す。一以て千に當(あた)らさるなし。賊兵逡巡、魂褫(うばわ)れ氣沮(はば)む。偶々黎明南西より風大に起る。忽ち又、北西より暴風遽(にわか)に来り、我船初め、數多の賊船と共に、皆な津久島に吹き附けらる。我兵、大賊を上陸せしめじ、と大劔を舞はし殊死して縦横奮ひ戦ぶ。偶々辰巳東なる未曾有の大暴風に變し、忽ち數多の賊船悉く沈沒しけり。我軍惣大將稲飯王命初め、三毛野入野王命・春加々眞津命・御雷折彦命・忌部若道命等、並に強兵二千五百神皆沈滅し給ふ。賊船は白木の軍船五十餘艘、周國の援船五百餘艘なりといふ。 (以上、神武記。)

     第四 宇陀の國見征討

 皇太子は、親ら皇軍を率ゐ、作田彦命(※猿田彦の事)の裔贄持命を郷導として進み給ふ。行々兵を収め、伊日加呂井戸に至る。兵威大に振ふ。岩押別命の裔吉野無勇呂、亦兵を率るて、来り謁す、以て先鋒となす、偶々大熊現れ、我軍の前を走る。恰も郷導をなすものの如し。是より先、木日山奈衛の山賊伊須久里、疑を賊魁長鑑彦に通し、今や皇軍の来ませるを知り、道路に陥阱(かんせい)(落とし穴)を設け、澤々谷々に伏兵を潜めて之を待つ。彼の大熊、乃ち先つ阱に陥るや、跳ね躋(のぼ)りて大音聲にて三度叫ひつ。忽にして、深々谷々より、數萬の熊沓り求り、其潜める伏兵數萬を塵にしにき。皇太子、大に悦ひ給ひて、乃ち、久真野山を熊野山と名つけ給ふ。其地を菟陀穿といふ。一日、中臣道之臣命奏すらく、勝主別命を遣して兄猾(えうかし)を召し出さる可し。と乃ち之を召す。兄猾遂に來らず。却て大殿を造り、密に押機(※カタパルトらしい)を設けて皇太子の臨御を請へり。皇太子、潜に間者をして之を詗(うかが)はしめまししに叛形既に顕る。是に於て、底土照田命・岩折春蒔命に勅し、遣はして兄猾の一類を皆な殿內に押入れしむ。果して、皆な押機に打たれて死しける。其屍を斬刑に處す。此の所を血原といふ。弟猾(おとうかし)大に悲歎(ひたん)して曰く、兄猾謀反の爲め、祖先の功も今や水泡に歸しなむ。冀(こいねがわ)くは、其子猾足をして此家を立てしめまさむことをと。皇太子、勅して之を免させ給ふ。弟猾夫婦、大饗を皇太子に獻(けん)す。皇太子、悦ひて宜りたまはく。吾征討の成りなむは、専ら軍兵の力ならむと、乃ち其饗を分ち賜ふ。我軍大に振興しにき。進みて宇陀の十知に至る。十知國司兄磯城麻、馬手坂に女軍神を、弓手坂に男軍神を備へ、又、大路小路に赫炭を置きて、其奥にそ陣しける。此所を磐余といふ。太玉若道命奏すらく、八咫烏に勅し、遣はして兄磯城・弟磯城を說かしめらるべしと。乃ち之を遣す。兄磯城八咫烏を射る。矢外れて、其子若磯城呂に中りて死す。又、太玉若道命、八咫烏をして弟磯城を説かしむ。弟磯城竟(つい)に畏れて降る。則ち、賊情を悉く自白しつ。即ち、賊魁長髄彦は國見岳に、兄倉下・弟倉下は高座山に、赤銅身津呂は吉野佐多木に據れりと。速玉山田命・山城柏木命奏しまつらく、今曉(こんぎょう)(意味:今日の夜明け。)、宇陀の山上に赤氣あり黑氣之を包めり、恐くは、賊四方に起りしならむと。積羽若菱守命、進んて賊情を詗(うかが)はむことを請ふ。乃ち遣はす。須臾(すゆ)(意:わずかの時間)奥にして歸り復奏すらく、曾宇國の畑田村戶長伊木三呂は西山に、和仁坂の古瀬村(一、作巨勢村。)戸長龜子武呂は南山に、保曾江(一、作細江。)の仲見村戸長猪子興呂は北山に、高尾張の農賊伊佐古奈彌呂は南西の間に據りにけりと。皇太子、御感殿科ならす、御製を賜ひき。甘美眞遅命奏しまつらく、臣の佩剣は、長髄彦の希望する所のものなりと聞く、臣請ふ、此を以て長髄彦を欺き以て之を斃すへし、とて其謀を具状し奉る。皇太子、乃ち之を免し、太玉大苔命を附して之を遣はし給ひき。

 一日、皇太子勅して、賊攻撃の部署を定めましき、即ち皇子手研耳命・中臣道之臣命は忍坂より、積羽若菱守命・速玉山田命は佐多木より、水分幡彦命は畑田より、御雷百花建命は和仁坂の巨勢より、岩折春蒔命は保曾江の仲見より、手力國守命・雷茂羅志命は高尾張より各進軍せしむ。發するに臨み約すらく、宇陀の十市の烽火(ほうか)(のろし)を合圖に、攻撃を開始すべしと。又、軍令して詔りたまはく、降る者は殺す可からず、遁る者は追ふ可からずと、乃ち發す。忍坂攻撃軍の副將中臣道之臣命は偶々大將皇子手研耳命に一策を獻す。乃ち是に從ふ。即ち道之臣命は椎根津彦命と共に降神と稱し、兄磯城足(一、作兄磯城麻、又單兄磯城。)を欺きて饗す。酒酣(たけなわ)にして、中臣氏起ちて歌舞す。皇子手研耳命、機を見て賊將兄磯城を斬る。兩將衆を麾(さしまね)き、奮撃(ふんげき)(力をふるい攻撃すること。)激闘して、悉く其餘黨(よとう)(残りの徒党))を斃す。是に於て、忍坂竟に平く。乃ち、皇太子御製を賜はり、之を賞せしめ給ふ。

 積羽若菱守命・速玉山田命は、賊將赤銅三津呂を佐多木に攻む。賊山野に火を放ちて拒(こばみ)き戦ふ。皇軍乃ち兵を潜めて、間道より遶(めぐ)りて其背後に出つ。衆吶喊之を突く。賊狼狽為す所を知らず、却て前面の火勢に困み、遂に吉野川の上流にそ逃れける。皇軍、追撃して之を塵にせり。此所を[首木]といふ。時に宇陀山上に烽火起る。諸軍齊(ひと)しく進む。呼譟(中国語らしい、たぶん群れ騒ぐの意)して從横奮ひ闘ひ、竟に悉く賊壘を抜く。會々暴風起る。乃ち火を山野に放つ。煙焔天を掩(おお)ふ。數萬の賊軍、悉く焚死しにき。西山の吉野の農神に、廣麻なるものあり。野田の賊將日志清呂を射つて之を斃し、其首級を揚けて吾分大將水分氏に獻す。乃ち、賞して名を廣麻正と授けぬ。南山の賊將龜子無呂、敗走して馬より落つ。巨勢國の農神等、撃ちて其首級を執り、吾大將御雷氏に獻す。乃ち賞して之に酒肴を賜ふ。又進みて、北山の賊將猪子興呂、並に其黨二百二十騎を斃しぬ。乃ち、吾大將岩折氏之を賞して、酒肴及ひ紙の大幣を賜ひき。

 南西の賊將伊佐古奈彌呂は、土農の歸順多きを察し、自ら其營を焼きて高尾山に奔る。吾大將手力氏、其子手力早薙命・手力須久身命の二神に、謀を授け賊の背後を突かしむ。賊將前路に走る。大將手力國守命、野山に火を放ち、單騎追ひて之を踏み殺しぬ。土神、皇軍に酒饌を饗す。乃ち、大將賞して紙の大幣を賜ひき(以上、神武記。)

 東海・東山・北越・北陸・四道の皇軍は、伊瀬・伊賀・山背・宇治·瀬多・大坂・小坂・淀戶・大湖・丹馬に充満して、旗幟天に彌(わた)る。以て阿田後山の大賊を包圍して、之を攻擊せむとそしける。

 一日、阿田後山の賊黨等、深山數ヶ所に火を放ち、以て皇軍を欺き、密に木日國(一、作紀日國。)日高地方に奔(はし)らむことを企つ。會々(たまたま)(意味:ちょうどその時)暴風大に起り、數萬の賊軍却つて悉く焚死したりけり。是に於て、東北地方の皇軍、犬山を越え、漸(ようや)く益々山間・泉地・木日地方に進軍し來り、又、各所の壘より引上け來れるもの日に多く、山野に闊(かつ)咽(えつ)(たぶん、むせび泣く聲が広範囲に響く様)す。雲霞の如し。威力益々熾なり。遂に賊地、を十重二十重に圍みてけり。乃ち皇太子は、大久米命と大挙して賊魁長髄彦を國見山に攻む。日月の御旗、綵繢(さいき)(彩りのある絵絹)として旭日に炫(かがや)く。 全軍に鼓して徐に進む。天地爲めに振ひ、山岳爲めに・崩れむとす。大地震大雷の如し。賊軍、魂褫(うば)はれ氣沮(はば)み隊伍を擾(みだ)して逃走を始む。則ち皇太子、直に、龍馬(りゅうめ)(意味:きわめてすぐれた駿足の馬。)を進め、鳴鏑矢を以て賊の軍門を射らせ給ふ。時に、甘美笑眞遅命、謀計を以て既に長髄彦を欺きて其陣中に有り。暴かに大劍を打ち抜き、長髄彦を責めて告りたまはく、逆賊天地も容れす、皇の謀計ともお知らすして、吾に欺かる、亦命なり。吾嚮に、詔命を奉して此に來れるものなり。今や乃ち、汝を斬りなむとすと。長髄彦答白まつらく、吾か運命爰に窮る。何そ汝を煩さむや。と竟に自ら縊(くび)れて死す。賊兵一萬黨除識悉く降る。則ち、強賊の首なるもの七百十三賊は、太玉大苔命皆な之を斬る。其他の餘賊は、何れも皆な顏面に入墨をして之を放つ。長髄彦の二男髄太和尾呂、間道より南に走る。乃ち捕へて之を斬る。是に於て、賊軍悉く言向和平(ことむけやわ)しぬ。乃ち、皇太子初め、大久米命外三十八將、振旅して日高宮に凱旋ましましき。

 牟婁の白木軍征討將軍高座日多命は、又、日高宮に凱旋して、稲飯王命以下六將、官 兵二千五百神入水の狀を以聞す。時に闇黒の世十三年十月三十日なりき。(以上、神武記。)

小野 龍海’s 歴史塾

五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。

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