四代目の小野小町、小野重子

 五代目の小野小町を研究の出発点とした場合、ハッキリと年代別に色々な小野小町がいたことが浮かび上がってきます、備中の伝承では小野小町が「大同四年(809)」に生まれたと伝えていますが、これは小野吉子の事では無い事は明らかでした。(小野篁が延暦二年(802)の生まれなので、さすがに6・7才で子供は作れなかったと思います。(笑))

 もちろん最初は誰の事か分かりませんでしたが年代から小野篁の妹ではないかとの推測は容易でした、『玉造小町と小野小町』の中で植木学氏が「重子」について触れており、その情報源がどこにあるのかを求めた所、大江文坡著の『小野小町行状伝』にある事を突き止めました。

 小野小町行状伝はたぶんに物語的なので「読み物(小説、作り話)」として扱われていると思いますが、同じ立場の私から見れば、この本は大江文坡の小野小町研究の集大成として「物語の体裁」をとった研究書だとハッキリと言えると思います。(大江文坡の書いている小野小町の情報量が地域の伝承量とはかけ離れている事から証明できます。)

 私の研究でも大江惟章に嫁いでいる小野小町(菅原道真の孫と推定)がいますので、もしかしたら大江文坡も小野小町の末裔と聞いていた為に、ご先祖の小野小町のことを知りたくて調べて回った成果を誰しもが分かる形に押し込んだものだと思います。(私も研究成果を書くと、読み手には訳の分からないものになりそうだとする、同じ結論になりました。)

 小野篁と仲の良かった妹の名前は「重子」だと分かりましたが、勿論これだけでは小野小町であるとは言えません。

 実際にはかなりの時間を掛けて謎を解いたのですが、三代目の小野小町が鳥取県の伯耆町小町から出ていた事や、妹尾家の伝承(小野小町の位牌)、伯耆町小町の「小野小町の伝承」、雲光寺の位牌、備中の伝承から伯耆町小町の「小野小町の墓」は四代目の重子のものだと確信をしました。

 三代目の小野小町の墓は最初は和歌山県に作られ、その後に恐らく小野吉子によって随心院の東の林の中に移されていましたので(小野小町の墓は今でもありますが、看板が消失していて、随心院でも把握していないようです。)、鳥取県の小野小町の墓は三代目のものではないと証拠が出そろった事も理由としてあります。

 その上で、鳥取県の小野小町伝承を紹介すると、『とっとり民族文化論』伯耆文化協会 2008.5.5

 文は坂田友宏氏です、

「二 岸本町の小町伝説

 それではまず、岸本町小町に伝わる小町伝説の紹介から始めたいと思う。

 小町の集落を離れて三〇〇メートルほど行くと、大山を望み、箕蚊屋平野から日本海を見下ろす眺望のよい村はずれの岡の上に、「御前さん」と呼ぶ五輪塔と、その傍らに「小野小町」と刻んだ板状の自然石の石碑が立っている。

 そして、その横には、「奉納大乗妙典供養塔」と刻んだ天保十一年(一八四〇)の銘を持つ高さ三メートルあまりの石塔もみえる。

 この村に伝えられている伝承によれば、い小野小町は、父の小野篁が隠岐に流されたとき、その後を慕ってここまで来たが、この地で行き倒れた。それを村人が介抱して助けてやったので、その縁でそのままこの地に住み着いたという。

 村の上手にある溜池のほとりの字名は「寺ノ上」であるが、村の人たちはここを「堂屋敷」とも呼んでおり、小町が住んでいた屋敷の跡であるという。

 また、この池は「化粧井戸」と呼ばれ、以前はもっと小さな池であったが、ここで小町が化粧をしたと伝えられている。

 この土地の人となった小町は、やがてこの地で亡くなったので、村人たちは彼女が当地にやってきたときの気持ちを推し量って、隠岐の見渡せるところに墓を作り、今にいたるまでその霊を弔ってきた。

 なお、御前さんの五輪の一番上の空輪をぐるぐるまわして、下の風輪とこすりあわせて石の粉をつくり、それをいただいて顔や手につけると美しくなるといわれ、また、悪病除けや学問向上の願いもかなえられるという。」とあります。

 伝承研究の場合、内容をそのまま受け取っては駄目な事がほとんどですが、伯耆町の伝承も小野小町を一人のこととして伝えていますので、辻褄を合わせるために内容が書き換わっていることは、「三代目の小野小町が小町地区で生まれ、その娘で小野篁の妹の小野小町が葬られた、その遺骨を持って来たのが小野篁の娘の五代目の小野小町」と知って読むと「元の伝承がどう変化したのか」が容易に分かると思います。(読み返してみてください。)

・屋敷や化粧池の情報は三代目の生まれ育った家。(たぶん妹尾家)

・篁と来たのは篁の娘、五代目の小野小町である小野吉子(墓は備中に有り)。

・墓→小町で死んだ事になる。

・死んだ小町は小野篁の時代の女性。

・墓が隠岐の島が見える所にある事は「小野篁を見守っている」

・雲光寺(鳥取県西伯郡南部町)の元となった祠「雲光」を建てたのは小野重子

 これに追加する情報として小野小町が開基したと伝承する「雲光寺」の位牌にある卒年、「承和五年午四月二十九日」は、なかなか出発しない遣唐使一行に強制的に出発させる為の「勘発使」が太宰府に送られ、これにより遣唐使一行は六月には出発しましたが小野篁は乗船拒否をしています。

 また小野篁と小野重子が仲が良かった様子は『篁物語』にあり、市井(しせい)では小野篁と妹の重子は恋愛関係にあり、重子は小野篁を慕っていた為に食事が摂れなくなって亡くなった事になっていたようです。(本当の事情が明かされる事は無かったと思われます。)

 もう一つ、備中に残る文書には嵯峨天皇の女御にも小野小町がいた事を伝えていました、そして小野小町とはただの娘にあらず、地神大王家の女王であり巫女的能力を宿す者が小野小町となり、ほとんどの者が大なり小なり霊験譚を残しています。

 これらを総合して考えた場合、史料として残る物の背景は次のようなものであったと推測します。

 四代目の小野小町は、父に嵯峨天皇の先生をしていた小野岑守、母は鳥取県伯耆町小町に生まれた三代目の小野小町で、生まれた所は現在の京都府山科区の随心院の地となり(他の伝承の分析結果)、生まれた年は大同四年(802)となります。

 小野篁は「野狂(やきょう)」とあだ名される程、大男であり弓馬が得意で、とても賢く博学で、とても難しい男でしたが、そんな篁を慕う妹が「小野重子」でした、重子は嵯峨天皇の頼みから後宮へと入り氏女、「小野小町」として嵯峨天皇の妻となります。(推定される妻となった年の一年後には、嵯峨天皇が上皇になっていますので、主に嵯峨上皇の離宮にいたと考えられます。)

 小野篁には年も近い政敵として藤原良房がいました、小野篁の時代では既に「遣唐使」の意義が無いと言われ始めていましたが、仏教勢力の後押しを受けて、藤原良房の命により強行される事になり、小野篁は大使を務めるには十分でしたが、良房は藤原常嗣を大使に起用し、小野篁を敢えて遣唐副使に任命します、これは穿った見方をすると遣唐副使として死んだ小野石根と同じ事を期待しての起用ともとれます。

 その頃の遣唐使船は大型化されていて、渡海を失敗するような造りであった事が佐伯有清氏の『最後の遣唐使』を読むと分かります、つまり高確率で死ぬ事が想定されていたにも関わらず、行われた遣唐使であった事が前提としてあった事が、遣唐使一行が出発しなかった様子からも分かります。(二度の渡海失敗で、船に問題がある事を皆が感じていたからだと思います。)

 楊貴妃の時にも言及しましたが、小野篁は漢詩の師匠の「白居易との邂逅(かいこう、意味:思いがけなく会うこと。)」という目的があったので、公務で唐へと渡れる事は誰よりも喜んでいたと思います、そんな小野篁が病気を理由にしたとはいえ、渡海を中断させたからには背景にはただならぬものがあったと推測されます。

 なぜなら小野篁は当代きっての教養人でもありましたので、天皇からの命令を断る罪の重さを誰よりも知っていると同時に、個人的にも渡唐したい理由があったからです、他の人間の説得を聞く様な従順な人間では無い事は明らかでしたので、小野篁が渡海を中断させるに至った理由には、天皇からの命令よりも重いものがあったと推測出来るのです。

 私は性格的に小野篁と似ていますので(家族からも似ていると言われます。笑。)、この時の心情が分かる気がするのは、小野重子が神憑りして神託を授かり、海に出れば死ぬと告げられていたからではないかと思います。

 小野篁も神懸かっていたと口伝していますので、小野篁にも神様からの直接的な働きかけがあったハズです、それでも出航しようするので(頑固一徹)、妹の小野重子を使い、留まらせたのではないかと推測します。

 可愛がっている妹からも言われ、そして重子の死を聞かされた篁は、流石に考えを変えたのでしょう、それが「病気を理由に辞退」ですが、朝廷はこの奏上を取り上げなかったようです、これには実は伏線があり、前回の遣唐使では遣唐大使の佐伯今毛人(いまえみし)が病気(たぶん仮病と言われています)を理由に遣唐大使を辞退して、大使不在のまま遣唐使が実行され、帰りの船で小野石根が亡くなっているのです。

 この仕打ちに小野篁は藤原良房が自分を殺そうとしている事に気付いたのでしょう、小野篁とは地神大王家だった小野氏の氏長者で気性も荒かったと思います、当然、小野氏に呼応して動いてくれる豪族は多くいます、この時に事情を知った小野氏からは朝廷討伐(主に藤原氏)の機運が高まっていたのだと思っています。

 ここで一番慌てたのは嵯峨上皇です、小野重子からも遣唐使の中止を訴えられていたでしょう、しかし藤原良房の最大の後見人が嵯峨上皇であったので(嵯峨上皇の娘壻)、この時の嵯峨上皇は藤原氏と小野氏の板挟みになっていたと思います、小野篁へは「自分がどうにかするから大人しくしていて欲しい」と連絡していたと思われ、朝廷に直接的に働きかけ小野篁の裁判に無理矢理、関与していった事は史実として残る通りです。(表向きは怒った事にしていますが、本当は上皇には朝廷に口を出す権利が無く、権利があるのは仁明天皇でした。しかし仁明天皇の言うことは藤原良房が聞かなかったと思います。)

 小野篁が隠岐の島へ流される時も、真冬の判決(12月15日に遠流が決定)でしたが、のらりくらり、半年を掛けて伯耆町へ着いた頃には夏前の頃だったと思います。(ここでも死ぬ確率が高くなる動きがあります、冬に隠岐へ渡る場合には海が荒れて死ぬ可能性が高いからです、時期をずらしたのも嵯峨上皇が根回ししたと思います。)

 表向きに残る資料からはたどり着けない背景ですが、伝承ベースからはこのような解釈が可能になります、どちらが史実に近いかを判断するのは、これを読む皆さんになるかと思います。

 龍海

小野 龍海’s 歴史塾

五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。

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