岡山県の桃太郎伝説は有名すぎて、すっかり定着した感がありますが、本当は違う解釈が正しいと思われる事を是非ご紹介しておこうと思います。
元となる史料は先行研究、『吉備の伝説』(土居卓治編著:昭和51年刊)に載る内容をベースとしています、私は土居氏が既に桃太郎伝説を解く鍵を見つけていた事を知り、これは是非、謎解きへと昇華せねばと思いご紹介するものです。
まずは、それ程長く無いので、『吉備の伝説』の中の「吉備津彦命と温羅退治」の項を既存の概念と違いを確認しながら読んでみて下さい。
「吉備津彦命の温羅退治
吉備津彦命と温羅退治は岡山県でも最も有名な伝説である。伝説は成長するもので観光旅行の盛んな現在では、さらにいろいろ尾ヒレ話が加わっているが、かなり古い姿が『古典文庫』の未刊謡曲集の刊行によって、最近明らかになった。これは金春禅竹(こんばるぜんちく)の弟、金春善徳が十五世紀の半ばころに作った「吉備津宮」という謡曲に取り入れられている。当時すでに都においてこうした説話が知られていたことはその成立がさらに古い時代にさかのばることを推測させるが、初源がいつかは明らかでない。この曲の中では次のように語られている。
吉備津彦命は孝霊天皇第二の皇子イサセリヒコの尊といった。そのころ異国に吉備津火車(かしゃ)という悪者がいて、いつのほどかこの国にわたり、吉備津宮の西北にある総社市新山に四方一里の石の城をきずき鬼(き)の城(じょう)といい、ここにたてこもって、九州方面からの貢物をとりあげ、付近の住民を困らせるなど悪事を重ねた。朝廷はイサセリヒコをさしむけてこの城を攻めさせたが、城は弱るどころか、いろいろ不思議な神通力をあらわして抵抗した。互いに矢を放っと途中でその矢が食いあったので一度に二矢をつがえて放ったところ、一つは食いあい一つは火車の身にあたり、流れる血は川になった。今の血水川がこれである。火車は今度はキジになって逃げたので命はタカになって追いかけた。次にはコイになって淵にひそんだのでウになってくいあげた。そこで鯉くいのはしとう。そしてついに火車は逆心をひるがえし、首をのべて降参し、自分の名を君にゆずるというので、命は吉備津彦命と改めた。この鬼は末社に祀られることになった。こうして国も豊かに民あつく御世安らかに栄えたのである。
この謡曲の中には温羅という鬼の名は出てこない。現在の社伝によると、『雨月物語』にのっていて有名な吉備津の鳴動釜については、退治せられた温羅の首をこのお釜殿のクドの下に祀ったところ、ある夜、命の夢の中で、「わが妻阿曽郷の祝(はふり)の娘阿曽媛にミコトの神饌を炊かせよ。もし何事かある場合それが吉事であればカマがゆたかに鳴り、禍があれば荒らかに鳴るであろう」と告けたことにもとづくとしている。現在ではこのお釜の鳴動の音によって吉凶を占い、病気平癒を祈っている。謡曲の中では、お釜鳴動の理由をきいてこいとの命をうけたとあるので、その話は都でも知られていたのであろうが、岩山の神は「この鳴動にてもなどか吉凶を知らざらん。上つ人、下万民に至るまで当社を崇め奉り、折々に備ふる供御の其志を謝せんが為の鳴動にて候」と答えているだけである。
なお温羅退治に伴い矢喰宮・矢置石・血水川・鯉喰神社・鼓山などの伝説がある。また吉備津彦を桃太郎として、桃太郎の鬼征伐の話はここが本場であると主張する論考もいろいろ書かれている。妹尾(せのお)町には温羅の残党アカダマ・アオダマの伝説がある。」とあります。
重要なポイントは「鬼とは温羅ではなく、吉備津火車(きびつかしゃ=きびのかしゃ)」という点にあります、「津(つ)」というのは格助詞で現代の「の」と同じ働きをしますので、「吉備(きび)の火車」という意味になります。(古代史の人名を見ていると、もはや感覚的には普通になってきます。)
吉備の国というのはいつ頃から定まったという定説は今の所ないようですが、私の研究からシャカラ龍王の日本名が「きび」だった可能性が高く、地名になったのは後の話だとしても、紀元前1世紀頃、シャカラ龍王達が渡来してきてからの事だと思います。
黄蕨(きび=黄色の蕨)という漢字も使われている為、当て字の漢字から物語が作られ(黄色の蕨がたくさんとれる所だから、みたいな内容だったと思います。)、この説の場合は蕨の突然変異種として扱われているようですが、私はそんなものは無いと思っています。
きび龍王の「きび」とは「サトウキビ,砂糖」の事だと思われますので、私はもしかすると、サトウキビの漢字が「黄蕨(きび)」で、「黍(きび)」の漢字と区別した可能性がある事を今では推測しています。
温羅は現在、「吉備津彦神社」の摂社として祀られていますので、悪い者では無いという根強い考えもあります、また「〇〇羅」という名前が龍王の子孫達に見られるため、「阿羅漢(アラハン)=羅漢(らかん)」=「仏の弟子」にある者が名乗ったと考えられ、吉備津彦神社および吉備津神社のある山は、現在、「吉備の中山」として有名ですが、吉備津彦神社と吉備津神社の間にある山は「龍王山」であり、山頂には「八大龍王神社」があって吉備津彦神社の元宮とされています。
温羅(うら)という人物は八大龍王の末裔で龍王山を支配地としていたと考えられ、仏道修行をする行者でもあり、吉備の中山を拠点とし、ヤマト王権側に協力したと考えられる人物になります。(吉備津彦が吉備の王を継承した時に、温羅の娘を貰って、八大龍王神社の祭祀を継承したと考えられるからです。)
しかし、吉備の国は八大龍王が統べる国であった為、吉備津火車が吉備の国の王だったと考えられます、その場合、温羅も立場としては吉備津火車と同じ事になり、まつろわぬ者と外部からは扱われていた可能性があると思います。
次に「火車」という名称は、現在、妖怪として名前が知られています。
古い文献には「土蜘蛛、両面宿儺、鬼」など王権の言う事を聞かず、盗賊などの犯罪を犯す者に付けられる名前だと考えられ、それらが後に妖怪へと変化していると思います、しかし他の文献では具体的な名前が出る事もありますので人間への蔑称だったとして良いでしょう。(土蜘蛛の〇〇と〇〇)
温羅の首も本当は埋められていなさそうです、鬼ノ城は天智天皇の白村江の戦い後に百済の人間が築いた朝鮮式山城だと考古学的にも分かってきていますので、百済の王子と吉備津彦の末裔が結び付き阿曽媛(女)を巫女として入れた事が鳴釜神事と結びついたと考えられます。
謡曲に出てくる「岩山の神」という人物が登場しますが、これは『びせいのむかしばなし』という本の中の「おにのさと」という話の中に「このあたりをおさめる、いわやまみょうじん」として登場し、吉備津彦命に鬼を退治してもらうように頼みに行ったと書いています。
異なる2つの文献で、同じ吉備津彦の鬼退治とするテーマにおいて、同じ名前が登場していますので、実在の人間だと証明でき、かつ、謡曲の内容が史実に基づいている事を物語っています。
最後に吉備津火車は「吉備津」の名乗りをイサセリヒコへ献上する事で赦されています、これは矢掛町にある鬼ケ岳温泉の伝承では、温泉にて傷を癒していたが、温泉が冷泉に変わり傷が治らなくなったので降参した話になっています。
この伝承でも、鬼は殺されておらず、謡曲の内容と一致していて、鬼の首など獲っていないようです。
以上のことから、岡山県の桃太郎伝説を龍海が史実として解釈した場合、「吉備と呼ばれた支配地域をもつ王が、ヤマト王権に逆らって九州の豪族の貢ぎ物を奪う行為をしていた為、犯罪者の烙印を押されヤマト王権側から「吉備津火車」という蔑称で呼ばれ、彦五十狭芹彦命(双子)の率いるヤマト王権軍と戦い負けたので、吉備の支配者という地位を彦五十狭芹彦命へと譲渡し、吉備の王の称号の「吉備津」を名乗る様になったので吉備津彦命(双子)となりました。そして吉備津彦命の名とともに、吉備の国の名前が後世の人に知れ渡ることになった。」としたいと思います。
龍海
0コメント