岡山県の小野小町について、全国にある小野小町伝承ですが、結果論からいえば「岡山県の小野小町伝承」を解く事から始めなければ小野小町の謎は解けない構造になっていると思われます、それは五代目の小野小町、小野吉子こそが小野小町の中核をなす人物であったためだと考えられます。
私は小野吉子の末裔としてありましたので、また岡山県に暮らしてもいましたので必然的に岡山県の小野小町伝承の謎から解き始めましたが、それが最終的には全国の小野小町伝承の謎をも解く事になりました。
私の研究の出発点でもある岡山県の小野小町について、現在分かっている事柄を述べたいと思います。
(我が家の口伝)
・小野小町とは小野篁の娘、小野吉子のことで二人は神懸かっていた
・小野お通は係累である
・倉子城(くらしき)とは「倉敷」の名前の由来であること
・(男どもが鬱陶しかったので京から備中に来た)という噂の様な伝承
(別家に伝わる文書)
・小野小町は「日間」という所に城郭を構え、知行は1800石ほど
・嵯峨天皇の女御にも小野小町がいる
(備中の小野小町伝承)
・小野小町の生誕地
・小野小町の居住地・墓[野山(おのやま)の小町谷]
・法輪寺周辺の伝承
・小野小町姿見の井戸
・小町橋(石橋)
・大同四年(809)生まれ、昌泰三年(900)に亡くなる
・薬師如来との贈答歌
→(全国)七日後に病気が治る
→(備中)七日後に亡くなる
・江戸中期頃までは京阪神から沢山の人が訪れていた。(有名であった。)
・岡山県には小野姓が多い(全国で2位)
・小野小町座像を作ったのは恵心僧都(随心院に伝承)
・法輪寺の小野小町座像と随心院の卒塔婆小町像とはうり二つで随心院のものは鎌倉時代の作で恵心僧都作との伝承(恵心僧都は平安時代中期の人)
・鎌倉末期の小野小町の末裔と思われる小野浄智房・七条の辨房・小周防の大貳房は僧籍にあったこと
・室町初期頃のものと思われる日間山古墳があること(上記、三人のお墓だと思われる)
・玄賓僧都に和歌を習った
などなど
小野小町の伝承がある地には複数の小野小町が関係している事が多く、私の住む岡山県の小野小町伝承にも本当は二人の小野小町が関係していることは全く知られていません。
私のご先祖にあたる小野吉子(おののよしこ)が自分の子供を連れて窪屋郡に移り住んだのが岡山県の小野小町伝承の核となる部分ではありますが、備中誌などでも小野小町が誕生したと伝えているのには理由がありました。
小野吉子は父親の小野篁が亡くなってから備中へと移住したと思っています(準備はその前から行っていたと推測します)、ちょうどその頃、小野篁に連座させられて熊本へと遠流(おんる、流刑)になっていた義理の弟の「小野良実(旧名は坂上當澄)」が赦されて朝廷に仕え始めます。
この小野良実ですが、小野小町の父親として最も有名な人物なんです、では何故有名なのでしょうか?
研究から分かった事は、小野良実の長女と次女が二人共「小野小町」になっている事にある事や、京都でスキャンダラスな話題を振りまいた長女の小野氏野や、秋田県から出た小野小町である次女と、話題が豊富で人々の間で長く話題に上った事が原因としてあるようです。
この小野良実ですが、実はトバッチリで永く遠流に処されていました。
連座の法とは「犯罪の抑止」を目的としていますが、罪を問われた小野篁本人が罪を赦されているのに、息子二人は遠流を継続されています、これは朝廷(藤原良房)からの嫌がらせであったと言えます。(朝廷の実権は嵯峨天皇の義理の息子の藤原良房が握っていましたが、時の天皇は仁明天皇でした。小野氏というのは地神大王家でしたから、当時は単独で最強の氏族でもありました。その氏長者である小野篁を罪に問う事は、小野氏との戦争もあり得る状態でありましたので、嵯峨上皇は表向きは「怒ったフリ」をして、小野篁の処罰に介入し、朝廷をコントロールしようとしていました。理由は仁明天皇の言うことは聞かないからです。)
嵯峨上皇も小野篁の罪は揉み消せても、息子二人の開放はダメだったようで、小野氏や小野篁に荘園を開かせる事で賠償している様子がしっかりと残されています。
小野良実は新婚の妻を伴って熊本にと訪れていますが、その地で生まれたのが六代目の小野小町である小野氏野(幼名は比古姫)になります。
ただ遠流先で暮らすのも退屈なので、小野氏はその地で荘園を開いています。(これも天皇からの詫びだと言えます。普通はそんな事は不可能で、衣食のみの支給となるのが普通のようです。だから小野良実はかなり自由だったと言えます。もう一人の息子の俊生も遠流先で荘園を開いていた事が伝わっています。)
この熊本の植木町小野で生まれた子は二人いて、上は兄で寵(うつく)、下の子は幼名を比古姫と呼ばれ、父の罪が解かれ岡山県へと移動したのは3才(満年齢では2歳)の時だと思われます。
小さな子を連れて陸路、京都へと戻るのは大変であるし、小野吉子は父の篁から良実親子に善くしてやってくれと頼まれていたハズですから、良実親子は備中(岡山県西部)に居た小野吉子の元に留まり、良実一人が京都まで戻ったと考えています。(この時の小野の氏長者は小野吉子だった可能性が高いと思っています。)
天皇家は良実親子にお詫びする意思があった事は明白なので、リハビリがてら小野良実には備中の国司という待遇を与え、実態としては小野吉子が備中で暮らしやすいように、海賊や野党の取り締まりをしてもらい、親子仲良く過ごさせてあげるという配慮を行なったと考えます。
この時に小野吉子の住んでいた黒田村(現、岡山県総社市清音黒田)には小野吉子と比古姫、二人の小野小町が暮らしていましたので、幼い比古姫を見た者たちが後に小野小町になった為に、小野小町が生まれたと伝えたと考えられます。(山形県・秋田県にある小野小町の生誕伝承のほとんどが同じ理由によるものだと分かっています。)
この後に小野良実は篁が良実の為に開いていた福島県の小野六郷を領地に貰ったので、親子で移住しています。
岡山県に伝わる伝承は三代目(重子の母)、四代目(重子)、五代目(吉子)、六代目(氏野)の小野小町について、小野吉子が周りの者達に話して聞かせていたと思われ(81才まで長生きしているので、伝え聞いた人は多かったと思います。)、その内容が後に一人の事として合体して伝承し、江戸時代に採録されて本に残された事が理解てきるまでになりました。
だから倉子城(くらしき、小野小町の城の名前)から発展した町は「小野小町の縁の町」として京阪神から多くの人が訪れて、小野小町ゆかりの法輪寺へとお参りしていたと思います。(法輪寺はもともと小野小町とその子孫が経営していたお寺だと考えられます。今はこの法輪寺こそが倉子城の本陣だったと理解しています。)
山の谷へ掛けられた橋が木造ではすぐに壊れるので、「小町橋」という石橋が架けられていることも、多くの人が訪れていた証拠になります。
ではとうして小野小町の伝承が薄れていったのでしょう、それは小野浄智房が小野氏長者として後醍醐天皇から足利尊氏の軍勢を止めるよう厳命を受けていたからだと思います。
鎌倉時代の発足当時から小町小野家は源氏と関係がありましたので、西日本は朝廷方の支配が続いていたのは歴史の示す通りで、その中核を為していたのが小野氏があった為だろうと考えます。
しかし足利尊氏は吸収へと逃れ、九州の豪族を味方に付けて20~30万の大軍勢となって京都へと向かう事になります。(建武の乱)
後醍醐天皇から命を受けた小野浄智房は九州の小野一族を大分県に集め、中四国の小野氏は岡山県に集め足利尊氏の兵団を止めようと他の朝廷方の氏族達と協力して準備をしましたが、軍様が違いすぎます。(小野氏の元に集まった軍勢は、推測ですが2~3万ほどでは無かったかと思います。)
後醍醐天皇からの命令を実行すると、小野一族が全滅をする恐れがある戦力差です、もう一つ推測ですが「小野一族は地神大王家として千年ものあいだ地方の暮らしを安定させてきた氏族」です、その小野一族に対して足利側の豪族からも「戦わず生き残れ」と説得があったのではないかと思います。
小野一族は私欲なく皆の暮らしに貢献してきた事への恩返しのように、敵方からも戦いたくない意志を示されていたと考えます、でなければ「名誉ある死」を尊重する時代にあって、氏長者達のみが名誉ある死を迎えたことは「異例中の異例」であると思います。
この時に小野浄智房は責任をとって家を廃絶し「仁明天皇・小野小町の末裔たる家を廃し」、ただの小野家へと転じたと考えます、小周防にあった子供達は美作の小野へと移住、その後に室町幕府の守護・地頭に領地を没収されたと考えられます。
江戸初期には湯郷にありましたが、岸本家へ嫁いだ娘から「小野お通」が生まれ小野小町の子孫らしく霊験譚の多い伝説を残しています。(津山の白神大明神に石碑があり内容が伝承されています。)
小町小野家が廃絶した証拠が今は青江神社の摂社になっている[篁神社」です、この神社は1336年に酒津に移建されたと残されています、元は「倉子城(くらしき)」にあったものだと思われますので、この時に小野小町の城郭「倉子城」は「法輪寺」となったと考えられ、また移建先は酒津の小町小野家の城・寺があった高梁川の中州の山であったと思います。
小野氏はその後も南朝方についていたようですが、南北朝が統一された後、備中好古小野家が備中目代の立場を継ぎ、今のアイビースクエア駐車場にあった小山に城郭を建て「小野城」として朝廷方の豪族として継続されたようです。
小野城には伏見稲荷から明応2年(1493)に勧請された城山稲荷がありました、伏見稲荷から勧請した理由がハッキリとは分かりませんが、1339年に近江の小野神社にあった小野好行が追放された事が分かっていますので、その後に好行が伏見稲荷にあった事が理由かも分かりません。(小野好行は備中好古小野家を興した小野好守の後裔と考えられます。先祖にオオゲツヒメがいる事による縁だと思われます。)
以上が謎を解いた後の解釈になります、岡山県の小野小町について、知らない人が多すぎる事が私の歴史研究の原点ともなっています。
小野小町の実在については、もはや証明出来たと考えますので、後は地域の皆様は勿論の事、全ての日本人及び全世界の皆様に知って頂ければと思っています。
龍海
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