小野 光右衞門

  岡山県浅口市金光町の大庄屋であった小野光右衞門についてご紹介をさせて頂きます。

 小野光右衞門は大庄屋として知られますが、その生まれは平安時代中期頃、藤原純友の乱があったおりに、この乱を鎮圧した小野好古の後裔にあたります、小野好古の子が讃岐へと土着し、そのまた後裔が天文年中(1532~1555)に、現在の岡山県倉敷市玉島長尾に移住します、そしてこの長尾の小野家の末裔として生まれた事に始まります。

 私は讃岐に土着した小野好古の子の家を「讃岐好古小野家」と呼んでいますが、私の研究ではこの小野家は小野好古へと嫁いだ小野小町の末裔になると考えています、好古に嫁いだ小野小町は埼玉県深谷市で生まれた小野小町と考えられ、通称などは分かっていません、小野小町の資料から総合的に得られた終焉地は大阪府阿倍野区王子町と思われ熊野詣での帰り道だったと考えて居ます。

 金光町の小野家の史料は全てこの金光教に寄贈されていますので、金光教の図書館に史料を元にした研究の成果が保管されています、今回はその史料を元に研究をされた靑木茂氏の「小野氏の出自と大谷村移住の事情」、金光和道氏の「小野家資料について」をベースにしてこの文章を書いています。

 金光町の小野家の初めは、光右衞門の祖父、善七郎が大谷村へと分家して出た事がキッカケで発展して行きました、その移住地は同じ一族の「小野重郎兵衛」の金融資産として手に入れたと推測される土地で、靑木氏の研究では大谷村の2割4分を所有していた事が分かっており、小野重郎兵衛は大地主であったと推測されています(他にも土地があったと推測出来ます)、その債権回収により手に入れた土地の金融の作配をさせる為(耕作をして米を収穫しなければ収入にはならない為)、同じ一族の善七郎に移住をさせたようだという事のようです。

 善七郎は大谷村において、いわゆる、よそ者でありました、よそ者に対する風当たりの強さは現代人には分かりませんが、それを解消するために、善七郎は大谷村の顔役であった遠藤氏と本末(本家と末家)の関係を結んだようです、そして善七郎は名前を儀兵衛と改めますが、水呑百姓(地主では無い)としてあったので、頑張って自分の土地を持ち得ていき、64才で亡くなった時にはかなりの地位を築いていたそうです。

 儀兵衛の後を継いだのは周春です、周春は富山家から嫁を貰い31才の時には村役人の「年寄」に就任し、その時に金光小野家の地盤が不動のものとなったようです、その後に155年間も庄屋を務めていた河手氏が引退しますが、庄屋を受ける人物が何度か入れ替わった後の享和元年(1801)から40年間庄屋を務めたのが小野光右衞門になります。

 小野光右衞門とは天明5年(1785)1月24日に大谷村で生まれました、幼名を「吉太郎」、後に「広太郎」と改め、更に享和3年(1803)に光右衞門と改めます、享和元年から父、本兵衛の後を継いで庄屋役になっています。

 ここからは金光和道氏の文を読んで貰う方が良いので引用する事とします。

 著者:小野和道 『小野家資料について』

「26歳の年には、公務を良く勤めたということが認められ名字を許され、32歳で、洪水の時、他村のことをよく配慮したということから、帯刀を許された。また、文化11年~12年(30~31歳)と、文政8~9九年(41~42歳)には、隣村の須恵村の庄屋役も兼ねていた。

 天保2年に領主役所か焼失した。その時、光右衛門はその普請のために家相、地相をみて絵図面を作成したり、普請中、種々の尽力をしたということから、天保五年(1834、50歳)には、大庄屋格に就任した。更に同11年(1840、56歳)には、大庄屋本役となり、その住居も、領主の役所に近い

賀陽郡井手村字川崎(現総社市)に移すこととなった。この後、弘化2年(1845、61歳)には、福井村(現総社市)の庄屋を兼ねるなどして、安政4年(1857、73歳)の八月まで大庄屋役をつとめた。

 それ故、庄屋役・大庄屋役をつとめた年数は、実に56年間ということになる。大庄屋を辞した翌、安政5年10月17日、光右衛門は井手村で没した。そして、大谷村の小野家蟇地に葬られたのであった。

 光右衛門が庄屋になってほどなく、文化2年(1805)隣村黒崎村との境界論争がおきた。光右衛門か21歳のことである。天領の黒崎村の横車に対して、理をとおして少しも讓らず、ついに翌文化三年には江戸に訴える決意をかためた。光右衛門が大阪まで行ったとき、黒崎村はこれを察知し、和議を求めてきたことにより、この事件は解決した。この事件を解決したことで、政治家光右衛門の名は内外に知られることとなった。

 この後、あるときには村人の立場に立ち、また、あるときには政治的手腕を発揮して事態を収拾するなど、大谷村の村人からも慕われた。

 村民に慕われていたことは、文政2年(1819)光右衛門35歳の時、小野家破産という事態の中でも窺われるので、そのことを少々紹介しておこう。

 光右衛門か庄屋を引き継いだ当時の村の年間経費は、銀七貫匁余という中で、借金は四貫五〇〇匁もあった。その後、先にも記した黒崎村との境界論争、文化5年には氏神社の新規建立、同6年には寂光院の造作、同15年には他村との訴訟事件などかあり、また、綿の不作、うんかの被害などもあいつぎ、大谷村はその度に新たな借金を背負いこむこととなった。これらの借金は一時しのぎにはなるが、一割七分の利息だけで毎年一貫~二貫匁にも及び、村の財政はほとんど破綻をきたしていた。村内の農民は、もとよりこれらの借金を支払う能力は残っておらず、村の有力地主が肩代わりをしているか、それも限界があり、有力地主が取り次ぎをして、他村の富豪から借金をくりかえすこととなる。こういう村の財政の中、光右衛門も文化三年には三貫匁の借金を背負いこむこととなり、文政三年には一三貫匁にもなってゆく。そのため家の維持が不可能となり、文政三年の村の収支決算をすませた後、12月16日に家を捨てて吉備津神社の神官の堀家光政をたよって大谷村を後にした。春になったら妻子をつれて、

かつて知りあっていた江戸幕府の天文方手伝いの山本文之進を訪ねて仕官するつもりであった。

 このことを知った村人は、あるときは判頭が、また、あるときには年寄りの代理が、あるいは総代や縁者などが、一日~二日おきに光右衛門を訪ね、再三再四、帰村を求めたのである。光右衛門は、借金の支払いのめどがたたないところから、これらの願いを断り続けていたのである。

 一方、光右衛門が不在となった小野家では、親類・縁者が評議をし、代表者を定め、借り主には田地や畑、また屋内外の立木を処分するなど、借金の整理を進めた。立木の整理にあたっては、同じ地区の者は全員五日間の奉仕をし、それを聞き伝えた村の者も次第にかけつけ、その数は数十人にも及んだ。それ故、ほどなく借金の支払いの目途をつけることができたのである。かくて光右衛門は12月27日に帰村し、再び庄屋の働きを進めることとなったのであった。

 ところで、光右衛門は大谷村のみならず、蒔田領全体にかかわる功績も大なるものがあった。その一つは文化10年(1813)からはじまった里見川に関する訴訟事件である。この川は大谷村の北端を東西に流れ、下流の川口付近は天領の阿賀崎新田村である。長い年月のあいだに下流に土砂が積もり洲かできたが、そこを開墾して耕作地を作ったのである。そのため、大雨の度に占見新田村や八重村の田が冠水することとなった。このことから、阿賀崎新田村と里見川に関係する25カ村との間で訴訟事件がおきたのである。この時、光右衛門は村の代表者として事の処理に当たるとともに、文化14年(33歳)には、江戸まで行き25カ村の代表としてこの事件の解決に尽力したのであった。結果は各村総出のしゅんせつ工事となったが、川底に堆積した土砂の量をはかる測量は、後にも触れるが、数学か得意な光右衛門がかかわったことはいうまでもないことである。

 弘化3年(1846、62歳)に、鉄穴(かんな)事件がおきた。鉄穴流しという製鉄方法がある。これは古代から明治中期まで盛んに行われていた、土砂を水で流し、比重によって砂鉄と土砂とを選別する採取法である。そこで問題となるのは、流された後の排土を含んた水である。光右衛門は天保元年(1830、46歳)から湛井の12カ郷用水の樋の本支配という役に任命されていた。12カ郷用水というのは、平安時代に妹尾兼康の手によって作られたと伝えられる用水で、総社市の湛井に堰を作り、高梁川の水を分岐させ、その下流の12郷、68カ村をうるおすという西日本でも有数の農業用水である。この用水に鉄穴流しの汚水が流れ込み、農業に支障をきたすことになり、鉱山側と12カ郷用水側との紛争がおきた。この時も光右衛門は先頭に立ち、江戸公事をおこし、春の彼岸から秋の彼岸までの用水引取期間については、鉄穴流しを中止するということで、この事件は落着した。その他、嘉永6年(1853、69歳)には、賀陽郡奥坂村にかかわる9カ郷の用悪水の事件にも、その代表者として、その解決に尽力した。

 この他、光右衛門は新田開発をも手がけた。天保元年(1830)には大谷村の夕崎に、沼に手を加え新池を作り、新田を開墾している。そのため、その地区では二倍の収穫を得る事ができるようになった。また、嘉永3年(1850)には賀陽郡井尻野村(現総社市)に新たな用水路を作り、八町歩(約800アール)の田地が開墾された。安政3年(1856)、年貢増額のため、検地帳の手直しが行われることとなった。このため、領内は騒然としたが、光右衛門は各村々を巡って、10のうち1、2を出して事をすませたという。

 しかし、井尻野村の庄屋と用水の問題からいざこざがおこり、安政4年(1857)、ついに大庄屋を退くこととなったのである。

 以上、述べてきたように、光右衛門は政治家であるとともに、家相・方位、占い、また禅の道理や俳諧などにも通じ、特に和算(日本で発達した数学)と暦象(暦によって天体の運行を推算すること)に秀でており、学者でもあった。特に若いころから数学を好んでいたが、田舎の村故に師匠を求めることがで

きなかった。そこで、当時、名著として聞こえていた沢口一之の「古今算法」や、佐藤茂春の「算法大元指南」などの和算の本を買い求めて独学をしていた。幸い文化6年(25歳)に後月郡大江村(大谷村から約20キロ西の村、現井原市)で龍岡舎という塾を開くこととなった谷東平を、師とすることができた。谷は、日本のコペルニクスといわれた麻田剛立について天文暦象を学ぶとともに、最初の日本式代数を継承しているという関流の高弟藤田貞資、また彼と和算論争のあった最上流の始祖会田安明、また球や楕円の扱いを得意とする宅間流を発展させ、その後継者の松岡能一について、その許可皆伝を得た、といわれる人物である。光右衛門はこの合の塾へ足しげく通い、ついに師匠を越えた、といわれている。

 先述したように、文政14年3月に里見川にかかわる紛争のため、光右衛門は江戸へ出たが、その訴訟のあいまをみて幕府の天文方渋川景佑(しぶかわかげやす)の門をたたいた。景佑は暦算、和・漢・蘭の諸学に通じ、また天保の改暦の立役者として活躍し、当時の日本暦学界の第一人者として知られていたのであった。そして、光右衛門は、景佑の高弟、因州侯の家臣で「暦作り御用手伝い、を勤めていた山本文之進を師として、天文暦術を学んでいる。山本とは気が合ったようで、大谷村に帰ってからも暦学問答を戦わせたので、その手紙が何通も残されている。それ故、光右衛門は、天文・暦象・和算に関する大家として、したいに近郷に知れわたっていったのであった。先にも述べたように、彼が大庄屋格に任命されたのも、領主の井手の陣屋が焼失した際、方角や家相の第一人者として絵図面を整えてよく調べ、普請役として働いた、その功か認められたからであった。

 やがて彼の名声は、京都の土御門家(つちみかどけ)にも知られることとなったのである。土御門家というのは、平安時代に安倍晴明から出たものとされ、幕末まで陰陽の頭(陰陽道のことを司る役所の長官)を代々つとめた家で、土御門神道説も唱えている。江戸時代に入り、天文、暦に関する実際的なことは幕府の天文方の手に移っていたが、形式的にはそれらを管理していたのは依然として土御門家であった。この家は、天文・暦術・日取り・方位の吉凶、占いに関することについては、宮廷や幕府にも伝統的な力を及ぼすとともに、民間のト占・祈檮・加持などを仕事としている。いわゆる陰陽師たちの総元締めとして君臨していたのである。

 この土御門家が光右衛門の入門を求めてきた。しかし光右衛門は、公的仕事を理由に、そのことを一度は断った。しかし、土御門家はあきらめず、領主を介して入門のことを求めてきた。そのため、光右衛門は天保14年(1843、59歳)に土御門家の入門状を受けることとなった。そのため、嘉永3年

(1850 、66歳)には土御門家の要請により京都へ上り、同家から裃・紋付一具、また盃・短冊などを拝領している。このように光右衛門は土御門家からも一目置かれるほどであったことが分かるのである。

 さらに光右衛門の才能を聞きつけた出版社が、和算の本を出版したいと持ちかけてきた。当時、和算の入門書は二冊しかなく、それも版木が摩滅し、再版もままならず、なかなか手に人りにくくなったというのが、言い分である。当時は執筆者の経済的負担も多く、失敗するとそのつけは莫大なものになってしまうので、一旦は断ったのである。しかし、人門書がないことを百も承知の光右衛門は、和算の本を執筆することに同意することとなる。光右衛門は、嘉永5年(1851)に一応原稿を提出、付録一巻を付すことになったので、それを加え、同7年(1854)に計六巻を出版することとなった。

 出版者は光右衛門の他、大坂心斎橋筋の秋田屋太右衛門と、倉敷の太田屋六蔵、京都の天王寺屋一郎兵衛の四人で、財的な事まで含めた規約を作り、出版の準備を進めている。もともと、それほど売れる内容の本ではなかったが、結果的には、当初千部印刷したが、再版を重ね1,700 部の発行がなされるほどであった。ちなみに金光図書館には「啓迪算法指南大成、皇都書肆 水玉堂梓」「増補算法指南大全、浪華書肆 文栄堂蔵」それにもう一冊、表紙か破損した計3種類のそれぞれ発行年代の異なると思われる光右衛門の著書が所蔵されている。

 また、光右衛門にかかわる算額がある。算額とは、和算家が数学の問題を解き、神社・仏閣に絵馬として奉納したものをいう。これは普通、神仏に感謝の意を表すと共に、数学の問題を解き、広く世に発表するという意図もあったのである。現在、日本中に約820面、岡山県下では9面が確認されているが、その内の2面が光右衛門に関係するものである。その一つは嘉永6年(1853)のもので、総社宮(総社市)に奉納されており、光右衛門の門下生高木紋吉郎他の者が、六問を解答しているものである。今一つは、安政5年(1858)のもので、吉備津神社(岡山市)に奉納されていて、光右衛門の門人が四問を解答している。塾の絵も描かれており、大きな算額である。何れも小野以正(光右衛門のこと)の名前が記されており、めずらしいものである。

 この他、出版はされていないが、「方鑒捷径書」「神道方位考」「西洋算法」「春秋日食方」「日食弁暦術伝書」「新法暦詳解」などの暦数のもの、また「京摂紀行」「伯州紀行」「同分間絵図」「厳島誌」「本州所々分間絵図」などの紀行文や絵図など、50巻もあるという。(なお、伯州紀行及び京摂紀行は、金光図書館報『土』105号に活字化されている。)

 また、光右衛門は多くの弟子を育てている。当時和算は、秘伝とされ、入門する時には、誓約書を書くことになっていた。光右衛門の弟子たちも、その例にもれず、「神文」とか「起請文前書之事」というものを提出している。それには、「当流の天文暦術を学びたいが、許可あるまで他人に教えたりすることは一切しない」というような意味のことが記されている。このようにして育った弟子に藤田秀斎がいる。彼は後に土御門家にも人門し、弟子を育て、数学書六編、方位書五編を著し、また高梁川の実測にあたっては、板倉藩主から功を賞されたこともあった。明治になってからは、小田県庁に入り測量を担当した人物である。この他、井筒屋作太郎、高木紋吉郎、佐々井弘右衛門、谷田市右衛門、西沢要右衛門、清水茂登右衛門、高戸順節、小野四右衛門などがある。

 この他、光右衛門は子女の教育にも力を入れているようである。そのことを示すものとして、金光教祖のことについて触れておこう。金光教祖は、その著書「金光大神御覚書」に、「津の庄屋小野光右衛門様にて、手習いさしておもらい。私十三、十四、戌亥と二か年」と記している。このことから、村内の一三、四歳の名もない農民の願いをうけ、その教育に力を尽くしていることか窺える。この時には、童子教、実語教を教えた、と伝えられている。おそらく他の寺子屋と同様に、読み・書き・そろばんの他、道徳に関する教育もしていたことであろう。この時、光右衛門は42、3歳であった。金光教祖か後年「金光大神御覚書」「お知らせ事覚帳,などを著すことかできたのも、金光教祖のもとを訪ねてくる信者に対しての理解に、故事やことわざ等か豊富なことも、光右衛門の薫陶によるものがその基本にあった、といわれている。金光教祖か毎月の1日、15日、28日の月の式日に光右衛門の墓前の参拝を欠かしたことがないということも、光右衛門の人柄をしのぶ伝えの一つである。

 なお、光右衛門の娘柳は、三島中洲の母である。三島中洲は、明治10年に朝廷の法官をやめ、漢学塾二松学舎を設立した。これは、後の二松学舎大学である。文学博士、学士院会員、東京帝国大学教授、東宮侍講、宮中顧問なども勤めているが、光右衛門の薫陶を受けたであろうことは十分考えられる。」

 龍海

小野 龍海’s 歴史塾

五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。

0コメント

  • 1000 / 1000