【出典情報一覧】
①備中集成志
②備中府志
③倉敷市日間にある「小野小町姿見の井戸」(看板)より
④岡山の名門 小野家
⑤日本昔ばなし(岡山編)「小野小町かくれ話」
⑥「倉敷地方誌 近世干拓の歩み並びに郷土の伝説・物語の記」
著者:渡辺 義明 出版:平成23年正月吉日
⑦備中誌
⑧古戦場備中府誌
⑨中洲町誌
【文献、説明文等に見える備中小野小町に伝承について】
①『備中集成志』
謡曰、小町ハ出羽ノ郡司小野良実ガ娘と云ヘリ。或ハ小町常澄ガ娘トモ云ヘリ。ツレヅレ草ニハ小町ガ事キワメテ定ナラズトゾ侍リ。世伝ニ曰、人皇五十二代嵯峨の御宇(ぎょう)カトヨ、小町常澄ト云人当国之守護トシテ窪屋郡黒田村ニ居住ストナン。或ハ郡司トモ伝ヘリ。其末孫トテ小野氏ノ名主庄官等今ニ当国に数多有リ。混乱ノ義ニ曰、小町ハ十三ニシテ内裏ニ参リ十五ニシテ后ニタツベカリシヲ打続ナゲキ而(しかして)己セシカバ終ニムナシクシテハテヌ。大同四年(809年)生レテ昌泰三年(900年)ニ死ス。九十二云々。大同ハ平城天皇ノ御宇(ぎょう)、昌泰ハ醍醐天皇ノ御宇(ぎょう)也。去ハ大同四年ヨリ昌泰三年迄ハ九十ニ年也。王代ハ十代也。此内十五歳ハ嵯峨之御宇(ぎょう)、盛ン成リシハ淳和、仁明ノ御宇(ぎょう)成可(なるべし)。説ニ曰、常澄一人ノ娘をモテリ。名ヲ小野小町ト云。此時代ハ学問盛成。小野キヨウニテ広タカクヤマトノ書物ヲ読テ三吏文撰白氏文集をソランジテ孔子ノ言葉南華ノヘンマナビ残セル文モナシ。其折シモ湯川ノ寺ニ玄賓上人マシマシテ仏道修行のヒマモナキニ、折ニフレ事ニヨリエテ和歌ヲ詠シ玉ヘハ賤山ガツ迄モ是ヲモテアソビケレハ小野朝暮歌ヲ読、上手ニ成其名カクレナシ。小野小町采女ニ召レ上洛シ小野小町ト申侍ルトナン。此故ニ干今黒田村小野山之東小町谷ノ上ニ屋鋪跡有リ。石塔有ケルヲイツノ時トヤラン地頭取テ他国ヘ行ケルトソ。又小町キラヒトテ今ニ黒田村ニ蛙ヲオラズト也。三光院之御説ニモ小町常澄ガ娘トナン。古今ノ序に曰、小野小町ガ歌ハ昔ノソトヲリ姫(衣通姫)ノ流レ也。哀ナル様ニテツヨカラヌハヲヲナノ歌ナレバナルベシトカケリ。紀ノ貫之人ノ歌ヲ批判セシ中ニ小町ガ歌ニハ難ナキトナン。名誉可成。秀歌数多侍ル中ニ
花の色はうつりにけりないたつらに
我身世にフル詠めししまに
色見へてうつろふものは世の中の
人の心の花にぞありける
佗ぬれば身はうき草のねをたゑて
さそふ水あらはいなんとぞおもふ
何レモ古今集ノ歌、就中「花之色ハ」ノ歌は古今集ニテ小町ガ歌ノ第一ト云ヘリ。或人曰、今ニ小野氏裔美女不絶出生ス。十二三ヲ限リ死ト也。
(出典:備中集成志)
****************************************
②『備中府志』 青江城(酒津村)の項より
「当城開基小野朝臣出羽守良実(一本当澄又常澄)仁皇三一代敏達天皇八世の孫、篁の二男たり。備中の国司として当城開基す。息女小町は阿賀郡湯川寺玄賓上人を歌道の師とし給ひ、世に誉れを上げ給ふ。采女に召されて上洛し、小野小町と申し侍るとなむ。」
(出典:備中府志)
****************************************
③倉敷市日間(ひるま)にある「小野小町姿見の井戸」によると
「この姿見の井戸は平安のむかし 人皇五十二代嵯峨天皇のころ(西暦八〇八~八二三)小野備中守常澄(または当澄)という人がこの国の守護として備中国窪屋郡黒田村に来住しました。この常澄の娘の小町は人となりて、采女(うねめ)として宮仕をしていましたが、たまたま瘡をわづらい当時この日間(ひるま)にいた同族の小野春道という人をたよって来ました。そして日間薬師に病気平癒の願(がん)をたてました。このあいだ小町はこの井戸をかがみとして自分の顔をうつしていました。満願の日、日間薬師のおつげによって小町の病気は全快しました。その後、小野小町は黒田村に帰り小庵をたてて、ここにすみ尼となって、この地に一生を終わったと伝えられています。」
(出典:倉敷観光WEB「小野小町姿見の井戸」)
****************************************
④『岡山の名門 小野家』
「岡山県にある、里庄小野家の地は天慶年間に小野好古が藤原純友の乱を平定する当たり築かれた城跡に建っていると思われ、この好古の子孫が平定の後に浅口郡里庄町里見松尾に土着したと伝わっている。同所には礎石・土塀の跡など中世の豪族として栄えた遺構が残されており、同家の家宝として伝えられた古文書(小野小町の家系を嗣ぐ子孫であることを証明した文書)とともに、郷土史家や小町伝説を研究する好事家の研究が続けられている。武家政治の時代(鎌倉・室町)になってからも、その所領は里見村松尾一帯1,800石にのぼったといわれる。」
(出典:「岡山の名門」小野電機産業 小野家より)
****************************************
⑤日本昔ばなし(岡山編)「小野小町かくれ話」
『小町娘などという言葉が示すように、美人の代名詞のようにいわれる小野小町。歌詠みとしても有名で多くの秀れた和歌を今に残していますが、出生など詳しい系譜は明らかではありません。そのため、全国各地に小野小町ゆかりの地が存在しています。小町伝説は今も各地で無数に語られていますが、倉敷における小町伝説は次の通りです。
小野小町は、備中の国、清音(きよね)村黒田で生まれたと伝えられています。ある時、小町の顔一面にできものができて絶世の美女もすっかり醜い顔になってしまいました。手を尽くして治療しても良くなりません。倉敷の日間山法輪寺の薬師様がご利益があると聞き、こもってみましたが治りません。そこで小町は和歌を詠んで祈りました。すると祈り始めて七日目の明け方、どこからか美しい声で返歌が聞こえてきました。小町は夢見心地でその歌に聞き入っていましたが、ふと気がついてみると顔一面のできものはすっかり消えていたということです。小町はお礼のため法輪寺に十本の松を植えました。寺の仁王門の両側に蓑掛松・笠掛松という松の木がありますが、これは小町が自分の蓑・笠を掛けた松だといいます。
また、法輪寺裏の山中にある姿見の井戸は、小町が醜くなった顔を嘆いて水面に姿を映してみたところだと伝えられています。小町は生まれた故郷の黒田で亡くなり、小町山の頂には五輪の墓が建てられました。ある時、児島の天城の人がその墓を盗もうとして石をかついで降りて行くと墓はパッと宙に舞い黒田に帰ってしまったといいます。夏の夜、黒田にはホタルが飛び交います。怪しく美しく交錯するその光は「小町の魂」という名で呼ばれています。」
(出典:小町姿見の井戸 2011・冬|倉敷観光WEB)
****************************************
⑥「倉敷地方誌 近世干拓の歩み並びに郷土の伝説・物語の記」
著者:渡辺 義明 出版:平成23年正月吉日
1)法輪寺略伝
真言宗御室派準別格本山で境内には本堂のほか祖師堂、阿弥陀堂、観音堂、不濡(ぬれず)の地蔵などがある。奈良時代中頃の創立とされ、古代から中世にかけては一山五院十二坊を有し、備中南部の有力寺院として栄えたという
室町時代終りごろと江戸時代初めと二回火災にあったが、元禄十五年(1702)の火災のあと、帯江領主戸川安広が龍瑚和尚を招き再建して今日に至ったという。
秘仏の本尊薬師如来(33年毎に開帳)は、その昔付近の海中から拾い上げられたと伝え、霊験あらたかで小町も病気平癒を祈願したといい、江戸時代中頃以降には、京大坂にまで知られ参詣者が絶えなかったという。
また境内の樹齢三百年余のクロガネモチの巨木や仁王門の大わらじなどは現在も人々に親しまれている。
2)小町伝説 ・・・・・病気平癒と祈願・・・・・
小町は、らい病という業病にとりつかれふた眼と見られぬ容貌になったとも、また疱瘡(天然痘)のため醜い顔になったともいわれているが、そのため従兄弟の小野好古と共に備中国へ下ったという。
そして、霊験あらたかと聞こえた薬師如来にすがって、病気平癒の願掛けのため日間法輪寺へ参籠したという。
三七・二十一の間、朝に夕に仏に祈っては、姿見の井戸に醜い姿を映しては一向に良くならないことを嘆き悲しんだ。
遂にたまりかねて、「南無薬師 衆病悉除の願立て 身より仏の名こそ惜しけれ」と、仏をののしる歌を詠んだ。それでもなお祈ること七日目の夜になって、「村雨のただひとときの物ぞかし己が身のかさそこにぬげおけ」と、夢うつつの枕もとにたえなる声の返歌が聞え、小町の顔はもとの美しさにもどったという。
小町が脱いで置いた蓑と笠を懸けた「蓑懸松」と「笠懸松」は、現在の仁王門両脇の松がそれであると伝える。
また本堂の前には小町手植えの松十本があり、その一つに「竜灯松」と呼ばれる木があり、竜が毎夜灯をともして沖の海を航行する船の目印になったという伝承もある。
3)黒田の里と小町の墓-(1)小町の墓
小町は清音村黒田で生まれ、黒田でなくなったという伝承が黒田にはあり、さらに小町の墓という五輪塔が東側山裾にある。
もとは軽部村へ越える小町山と呼ばれた山の頂にあったといわれているが、或る時、天城の者が盗み持ち去ろうとした時、怒り嫌った五輪塔が空を飛んで現在の地に来たといい伝えている。
また或る説では、江戸時代中頃の寛保二年(1742)山頂では祭るのに不便ということで山麓に移したと伝えており、かつては八月十六・七日に祭が行われていたが、現在では九月二十二・三日に祭が行われ、小町の霊をなぐさめ供養しているということである。
4)黒田の里と小町の墓-(2)小町屋敷跡といい伝え
小町谷と呼ばれるところには、かつて小町が住んでいた屋敷跡があったといい、その付近を飛ぶホタルは小町の霊魂だと信じられていたともいう。また、小町は蛙が大嫌いで、屋敷に近いところには蛙を封じた田があり、今でも蛙がいないという。
さらに蛭が多くて百姓が困っているのを見て蛭封じをし、「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」と詠むと、蛭が吸いつかなくなったともいい伝えている。
4)黒田の里と小町の墓-(3)金精大明神
むかし、昔のこと、西阿知郷の村主(むらおさ)の家に金麻呂というたくましい若者がおったそうな。
或る時、高梁川の対岸黒田の里に小町という美人がおると聞き、嫁にしたいものだと尋ねて行ったという。ところが小町は「一千夜通いつめることができたなら、その時には願いをかなえましょう」といったそうな。
ひと目小町を見た若者は是非とも嫁にしたいものと思い、酒津八幡宮の御加護にすがって千夜通いの難題を解決しようと決心したと.....
「無事に小町を嫁にすることができた時には、お礼に立派な社殿を奉納いたします。万一、願いかなわず死ぬようなことになりましたら、あわれと思っておそば近くに骨を埋めさせてやって下さい」と祈り、願をかけたということじゃ。
そして雨の日も風の日も、嵐で逆巻く大川の流れにも耐えて、連日連夜せっせと通い続けたという。
いよいよ満願という日の夜のこと。この日は朝から雪の舞う寒い日だったというが、いつものように小町の家へ出掛ける前の祈願に、「今夜がいよいよ満願の日、どうか無事に願がかなえられますように・・・」と、八幡大菩薩に念を入れて祈っていたが、永い間にわたる苦難に、たくましかった若者もさすがに疲れと衰弱で気力も衰え、満願の日をやっと迎えたという気のゆるみで、とうとう雪の中で凍え死んだという。
あわれに思った村人たちが若者のなきがらを、若者の願いの通り八幡宮の境内の一角に手厚く葬ったという。
これが酒津の金山様の創まりと伝え、その後は冷え性や泌尿器など下の病におかげがあると伝えられ、信仰をあつめるようになったそうな。
****************************************
⑦「備中誌」
[小野小町の傳]項より
「尾崎羅月百人一首夕話に云
日本史に云或曰参議篁の孫也父曰出羽守良實小野有二絶世姿一長二於和歌一為二六歌仙之一一 三才圖會云小町者仁明天皇承和頃小野良實ノ女也死二於相坂一云 百人一首一夕話に云小町は仁明天皇の時の人にて采女なとのことくいつれの國郡司なとの妹か女かのかたちよき故に都に奉りしにても有けんとかくに家系の知れさる人なれども美人の聞へ高くしかも歌道に堪能なりし故古今集に小野が姉のうたとて入られ後撰集にも同じ姉また小町かうまてなとゞかきて歌を入られたるにて其名高かりし事知らるゞ也紀貫之の選古今集多収其歌云々古今和歌集序云小野小町は昔衣通姫の流也哀なるやうにて強からぬは女の歌なれば也此小町は餘りに其名高かりし人故昔より今に至る迄さまさまの俗説いひ傳へて其事虚實相まじわりける謡の曲に通ひ小町といふ名ありて深草の少将をもふけつゞりたれとさつ名の人其代にはなき事なり爰に一ツの考へあり大和物語并後選集に小町と僧正遍正((ママ))と贈答歌あり是等によりて作り出せるもの成へし其事は小町あるとし正月に清水に詣られけるに佛を伏拝みながら聞に尊き聲にて経陀羅尼よむ法師の腰に火打なと結付たるなりといふ猶其聲を聞に尊ふとかりけれは只人にはよもあらしもしや少将大徳にやあらんと思はれけり少将大徳とは僧正遍照の事也俗の時は良峯少将宗貞として仁明天皇の御寵愛の蔵人にて常におそば去す召遣わせ給ひしかは天皇崩御ありて深草に葬り奉りし其夜より出家せられし故大徳といふ也けり扨小町はもし遍照にやとおもひてこゞろみに人を遺して今宵此寺に通夜し侍るかいとふ寒きに御衣ひとつ借し給へとて
いはのうへに旅寝をすれはいと寒し苔の衣を我にかさなん
といひやりける返しに
世をうむく苔の衣は只ひとへかさねはうとしいさふたりねん
と詠しておこせければ小町是を見ていよいよ少将大徳也けりとおもひて日ころうらなく物かたりなどせし人なれは逢てものいはんとおもひて彼の僧の聲したる處へ行けれとかきけすやふにうせて一寺の中を尋ね求むれと何國にか迯去給ひけん其行衛知らざりしと云事大和物語に書たり
仁明天皇を深艸の帝と申し夫に仕へられたる少将ゆへ深草の少将といふ名をもふけ作りたる成へし又あなめあなめといふ歌の事は無名抄東斎随筆江家次第古事談に業平朝臣二條の后高子いまたたゞ人にておわしましたる時ぬすみ出て行けるを兄上たち止めて取かへされたるよし伊勢物語に出けり日本紀式と云ものに有やうは彼兄上たち后を取かへし給ふとき憤り休めかたくて業平のもとゞりを切てけりされど誰かためにもよからぬ事なれば人にも知らせす心ひとつにおもひてうかれありけるか業平髪をはやさんとてこもり居られたる間に歌枕とも見んとて東都のかたへ行けり陸奥に至りて八十島といふ處にて宿りたる夜野中の歌の上の句を詠する聲有りよくよく聞ば
歌かせの吹につけてもあなめあなめ
と聞ゆ業平あやしみて聲する方を尋ねもとむるに人はなくて死人のかしら一ツ有彼髑髏の目の穴より薄一もと生出たるに風のなびく音の斯きこへけれは怪しく覺へてあたりの人に此事を問ふに或人のいふに小野小町此國に下り此處にて余命終れり彼かしらそれならんといふを聞て業平あはれにかなしく思はれければ下の句を付られたり
をのとはいわしすゝき生けり
其野をば玉造の小野といひけると有此事もあやしく論するに及はぬ妄説なれと古くいひ傳へたるにや顯昭の説にも小町は数十年在京して好色のひとなりしかと本國にかへりて死せしにより八十島に屍の有しとて此あなめあなめの歌をも載られたり冷泉家記云死於井手時六十九歳(冷泉記が云うには、井出で死んだ時には六十九歳であった)また玉造小町壮衰書といふ物有てさしも美人の名高かりし小町も年老て道の傍に食を乞ひ屍を野外にさらせし事を漢文のさまに書て其書の作者を安倍晴明とも空海ともいひ傳へたれと弘法大師は承和の始めに遷化せられし故小町とは時代違ふよしを兼好もいへり此書の玉造りと云名の事無名抄の玉造小町の説に通へり且此壮衰書はつたなき作り物語なれは此事をふるくいひ傳へたるにや東鑑に建曆二年十二月御所に於て繪合せ有し時大江廣元の献せられし繪は小野小町か一期の盛衰の事なりしか其日の繪數巻の中にて御自愛有たるよし見へたり又十訓抄に小野小町年老色をとろへて文屋康秀か参河椽にて下るに誘われて身を萍草(うきくさ)の根をたへての歌を詠し終には山野にさすろうふと云是等の説どもを取りあはせて卒塔婆小町なとゝ謡曲は作りたるもの成へし又小町か雨乞の歌とて
ことわりや日の本なれは照もせめさりとては又あめが下とは
とてにをはりもあはざる拙き歌を世にいひ傳へたり是は慶長のころある者の詠したる狂歌のよし雄長老の狂歌百首といふ物の附録に見へたり實の小町か雨乞の歌といふは小町の歌集に
あめにます神もみまさは立ちさわぎ天の戸川の樋口明めよ
と云歌なり是に混して右の狂歌を小町の歌といふ傳へたるもの成へし猶小町の事に付いていふへき事數多あれとくたくたしけれはもらしつ
[小町之墓] 黒田村より軽部村へ越ゆる山のうへに在りしを詣人の便宜悪敷とて寛保三年五輪の中銘の有を一ツ取て是に新たに石を刻みて山の麓村中に遷して建つるなり
小町の墓及彫刻文字の圖畧之
○擬使見者生渇仰矣然年𦾔日久而殆泯矣於是再加修補欲傳之遐代記焉
吉備集成志吉備物語等に嵯峨天皇の御宇小野常澄或當澄此國に守護として黒田村に居住す後世小野氏の人此國に多きはさる故也
或云爰の山を小野山といひ小町谷といひ屋敷と思しきを小町屋敷古井有を小町の井蛙住 すとて小町か禁しめ置たり抔何れも小町か名をかふせたり好事の所為なり
愚案 古昔は今の如く封建の制に非す孝徳天皇大化年中より郡縣の治となる國司を國々へ下し給ひ守或は介等其國の府に至り三年五年にして任滿れば又他の任に命さるる也又守護は鎌倉頼朝公國々に守護を置郡郷に地頭を居へ此時より守護と云者出来たるなれは三百五七十年の其昔守護の職有へからす常澄守護たるの非なるを知るへし窪屋の郡司少領なとの属にてそ有へし
常澄の頃は文學殊に盛なり小町秀才にして沫洒の道南華の學餘三史文選に涉獵し又湯川の玄賓従ひて和歌を學ひ其名高く采女となりて都に登り後昌泰三年九十二歳にて死去と云々
此説何の書に據たるにや
又國學忘貝に引牛馬間云小町といへる女一人ならす秋風の吹につけてもあなめあなめの歌は小町は小野當澄か女身を萍の根をたへての歌は高雄國分か女思ひつゝぬれはや人の見へつらんと詠せしは出羽郡司小野良實が女高野大師の逢給ふは常陸國造義景か女の小町也云々又此國日間山にも小野小町か𦾔跡とてさま々々の俗傳有斯とりとりにて何れ共定かならす蓋此碑左大臣橘諸孫也と有は橘氏の人にて小野小町か墳にあらす橘諸兄公七世の孫道時といふ人備中守と成し事体系圖に見ゆ道時か弟道貞は和泉式部か夫にて小式部内侍か實の父也もし是等に據なきか銘に再加修補とあれは此石面とても再建せし物也おもふに小町といふ名一人ならす素より古今同名なしといふへからねは前に記せることゝ諸説有て一人ならさりしよりさまさまの説も有て一人ならさりしよりさまさまの説も有て紛らわしく成たるならん
窪屋郡の郡司少領なとの橘氏女小町といひしか采女となり後國に歸りて死したりし墳成へし
因云采女之事類聚國史孝徳天皇大化二年四月凡采女者貢二郡少領以上姉妹及子
女形容端 正者一以二一百戸一宛采女一人之粮庸米皆准二仕丁一
又類聚國史文武天皇二年五月詔云々又婦女者無間有夫無夫乃長幼欲進仕者聽矣
又類聚國史續日本紀天平十四年五月制采女者自今以後毎郡一人貢進之
又延喜式凡貢采女女二者各置養田三町仍令郡司主帳以上雖非氏名欲自進仕聽氏別一人ヲ貢之
外別ニ進士ヲ欲スル者ヲ聽ヲ謂也其貢采女郡ノ少領以上ノ姉妹及形容端正者ハ皆申中務 省奏聞セヨ云々
又類聚國史日本後紀大同二年五月停諸國采女但擇留其年老有勞者四十二人任𦾔
終身若叙五位以上反補雑色者即除采女名云々
[小町屋敷]の項より
黒田より軽部村へ越る山の頂に在其側に小町の井と云も残れり土民云昔小野小町此處に居住せしとかや今麓下に墓を遷して小町の墓となし既に墓の墓石に小野小町墓といふ文字を切付たり信し雖し此事別に小町の墓の條に出せり
[古城]の項より
永禄年中石井大蔵家資といふ者城主也し由いひ傳へたり永禄三年に落城す此城靑江城と称して小野小町か父小野良實國司として居城せしと備中府志等に載すされと良實は出羽郡司たりし事は諸書に見へたれと備中に来りし事なし又國司ならんには加陽郡国府にこそ居給ふへきかしこは國の守の住給處として世々彼地にて交替へき處也
又此古城は靑江の城と同し城なるやさらは高橋氏よりは前に石井氏居城なりけん
順禮記に小野朝臣出羽守と記す出羽守ならは出羽にこそ居給ふへし一笑に絶たり
[ふなきの濱]の項より
關政三千ぬし云此ふなきの濱の事小田郡横谷舟木山といへるよりここの材木を今酒津河邊なる處の濱へ積下してそこここへ分ち送りし故にそこを船材濱といへる事なるべしやと夫木集(夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)、鎌倉後期に成立)の、「河島や船きの濱の磯千鳥おのれか名をはとしとたのまむ」(大江匡房の和歌、一〇四一~一一一一年の人で一〇九七年に大宰権帥になっているので太宰府への往還時に詠まれた歌と思われる)、と云歌を引出しぬされど又ふなきは船来の濱いふ人もあらむすれ共舟の来れはといつくをもさいふべきかは必其名つくべきよし有也先船尾はかんなの違ひにて和名抄に船穂と有て此あたりすへて船穂の郷也此船穂の北なる山の脊ひらはやかて邇萬郷也彼風土記ニ皇極天皇二年大唐将軍蘇定方率新羅軍伐二百済一云云遣使乞救天皇行二幸筑紫一勝レ出二救兵一時天智天皇爲二皇太子一攝政従行宿二下道郡一一郷戸邑甚太也天皇下レ詔試徴二此郷軍士一即得二勝兵二萬人一天皇大悦名此邑曰二萬郷云云と有ここに皇極天皇とあれとも此行幸は重祚ましましける後にて齊明天皇と有へき也」
****************************************
⑧『古戦場備中府誌』 [青江城]の項 靑江城 酒津村。
「當城開基小野朝臣出羽守良實一本當隆又常隆。仁皇三十一代敏達天皇八世の孫、篁の二男たり。備中の国司として當城開基す。
息女小町は阿賀郡湯川寺玄賓上人を歌道の師とし給ひ、世に誉れを上給ふ。采女に召されて上洛し、小野小町と申侍るとなん。日間山薬師に小町立願の歌、
南無薬師衆病悉除(しゅびょうしつじょ)の願立て身より仏の名こそおしけれ。
(※衆病悉除(しゅびょうしつじょ)とはすべての病いがことごとく除かれること)
と。薬師御返歌、
五月雨は只一時の物ぞかしをのがみのかた((ママ))こ々にぬぎおけ。
日間山は我朝にて朝間・日間・夕間とて、三所の霊場たり。黒田村野山の東に小町谷の上に小町庵の跡廟塔有て、其地跡顯然たり。
[青江城]の項より
小野の城 倉敷村
當城開基右近衛少将左衛門佐小野好古。仁皇三十一代敏達天皇九世の孫裔太宰大貮葛繪の嫡男にて武勇に達し歌道の誉れ世に高し。元慶四年六月伊豫掾純友追捕使として大手の大将を賜り、西海道に進發ある純友討死して、九州静謐成しかば、同年八月帰洛、同月十六日臨時の節と云を有はれて、恩賞を沙汰し給ふの時、好古朝臣の参議に拜して備中國を賜る事跡、前太平記に載る所也。好古備中守と爲事大系圖にも顯然たり。今に鴻基綿遠として小野の苗裔當國に繁茂たり。建武年中當國目代として、小野入道浄智軍功、太平記に見へたり。文禄二年朝鮮晋州の城落城の砌に、小野太郎兵衛尉、毛利の旗下に属して、分捕高名香川氏風記に載之たり。小野一族岡・水澤・林・井上・藤井・大嶋・阿曾沼世々武功有て榮蔓たれば悉記し難し。しばらく菅見を記して考覧備へ、識者の訂正を待而巳。當所の川上濱村の領主屋薔右衛門尉永禄六年石州白鹿城後詰の列にありて、軍功斜ならず。先祖は赤松家の一流也。播州屋薔の領主たりしより氏とす。猶事跡邑に傳はれり。」
****************************************
⑨『中州町誌』
[酒津邑明細帳](原田氏所蔵)の項より
「酒津古城ノ部」の項に、
「○八幡山の辻、青江城と申し開基は敏達天皇八世の孫の二男備中の国司小野浅之亟後出羽守と申、永禄年中城主石井大蔵家資元亀元年庚午八月十五日落城。」
※浅之亟(あさのじょう)、龍海注。
0コメント